魂は未来を知ることができるか

1.未来に関する予言は、アッラーがお知らせになることによってなされるものである

未来に関する知識を与えうるのは、何よりもまず未来である。時というものは、未来においてそれが示すであろうもの、それがもたらすであろうものに関して最も信用できる使者である。人はそれを体験する前に、体験するであろう出来事や事柄を体験することはできないし、体験していないことについて真実を知ることはできない。だから、過去の記録は多くあるが未来に関する記録というものは一切存在しない。未来に関しては、実現するかどうか定かではない予想や想像をするのみである。

しかし、当然ながらアッラーの知識においては状況は全く異なる。アッラーがご存知である事項において、過去も現在も未来もなく、これらは皆互いに重なりあった一つの点のようである。だから、未来に関して予想や想像ではなく、確実で明らかな形で「こうなるだろう。あなたがたは見るだろう」と語られ、そしてそのように語られたことは皆実現した。実現したのであれば、それはただアッラーが知らされたという形でのみ解釈されえるのである。

2.時と空間を超越することは、心と魂の生の段階に達することで可能になる

時間と空間を超越することは、時間と空間の拘束をうけない魂によってのみ可能となる。なぜなら魂は、時間と空間の世界ではなく、命令世界(訳注4を参照)に存在するのであり、それ自体と同様、その覆いや衣装までもあちこちに送り出し、同化させることができる。さらに、時の境界、空間という牢獄、物質の雑踏の拘束を受けない自由で、同時に透明で優美な存在であることから、将来起こるであろう出来事も、その視界にはまた異なる形で映されるのである。人が、肉体の拘束から逃れ出て、精神的、霊的な生を生き、その魂を発達させ、開放させ、異なる世界と結びつきが持てるように少々努力をすれば、こういったことの実現の助けとなるだろう。

3.預言者たち、聖人たちは、その知識をアッラーにお任せするという形で、未来に関して知らせをもたらした

聖人(ワリー、アッラーの友)[i]と呼ばれる人たちは、その知識をアッラーに託すという形で、未来に関する知らせをもたらした。まず、この世界の長であられ、名誉であられる預言者ムハンマドのこの種の知らせが多くある。そう、このお方は、最後の審判の日までに起こるであろうことごとを、テレビの画面でごらんになっているかのように、ウンマに紹介された。正統カリフ時代末期における第四代カリフのアリと教友のズバイルの事件(アル・ジャマルの戦い)、第三代カリフのオスマンの殉教、預言者の娘ファーティマの死、これらはこのお方が告げられた多くの出来事のうちのほんの一部である。

この種の知らせのうち一部は明快で、解釈を必要としないほど明らかである。一部においては、クルアーンの比喩表現からの解釈によってのみ、その真実に達することができる。また一部はただ真実に至った人々のみが理解できるものである。アッラーに愛され給う人が、これらを基にして行なう解釈や、それによって到達する判断や知らせといったものは、聖クルアーンや預言者ムハンマドの慣行や説明、もしくは預言者の光がもたらす忠言のもと、自らの心や精神世界に流れ込んでくるインスピレーションによるものとなる。これらはどれも、預言者ムハンマドの幽玄界に関する知識から、心の器の大きさに応じていかほどかを満たし、いくつかの真実に至る。

聖人たちは、未来に関する真実を見出す際、時にはその感覚をうまく調整できず、結果として完全に確定することができない。時には出来事をシンボルの形で見る。アッラーは彼らに、こういったものの解釈の知識を与えられず、解釈や解説において彼らは間違うこともある。彼らは解釈に関して何かを表明するが、アッラーが意図されたことは別である。これはちょうど夢の解釈と同様である。

例えば夢でりんごを見て、「アッラーは我々に恵みを与えられるだろう。物質的、精神的な喜びを味わうだろう」とあなたは解釈する。しかしりんごが、象徴する真実とは、欲求、意欲が高められるということかもしれない。あるいは夢で天使ジブリールが家に入ってくるところを見て、神聖な息吹、恵みや糧が訪れるだろうと期待する。しかしそれは、偉大な誰かの魂があの世に招かれるということの象徴かもしれない。この点では多くの例が挙げられるだろう。

聖人たちにとっても状況は同じである。未来に関して受け取ったシンボルを解釈するが、その解釈は正しく出されないことがありえる。物事を種の状態で見て、その解釈はその種が木になったとして行ない、そこで過ちを犯しえる。この過ちは預言者たち以外の誰にでも起こりえる。

預言者たちが同様の過ちを犯しえる場合には、あらかじめアッラーがそれを正される。なぜなら預言者たちはそのウンマにとって完全に従わなければならないリーダーなのであり、もし誤りが即座に正されなければ、その過ちがウンマ全てに及んでしまうからである。

目を創造され、限りはあるとはいえ、移動できる世界を創造されたアッラーは、当然、目の支配者である魂にも、その世界に応じた旅路を行かされ、それに、物質を超越した世界特有の例や、シンボル、標識、そして未来に関するページをお見せになられるのである。

ムヒッディン・イブン・アラビー(一一六五~一二四〇、スペイン)は、オスマン帝国の創設より一世紀前に生きた人である。それにも関わらず、エディルネ市のセリミイェ図書館にある、エフラニーによって翻訳された「シェジェラトゥン・ヌーマーニッヤ」という書物の中で、オスマン時代に起こる多くの事件をそのとおりに告知している。オスマン帝国の創設から、ダマスカスとエジプトの征服、セリム一世(一五一二~一五二〇)のダマスカスへの進攻によって自らの墓が見つかるだろうということまで、多くの出来事を象徴化された形で記述している。同じ書物には、ハーフズ・パシャが九ヶ月の包囲にも関わらずバグダッドを征服できないこと、その征服が四十日間でムラッド四世によって成し遂げられることなどが語られている。本人が生まれる何世紀も前に、スルタン・アブドゥル・アズィズが殺害されることを告げている。ムヒッディン・イブン・アラビーはこの書物の中で日露戦争にも触れ、同様にイスラーム教徒たちが敵と戦い、勝利を得ることについても書いている。トルコ人についても「トルコ人たちには勝利と幸福がある」と語っている。

ビトリス出身のムスタファ・ムシュタク・デデは、彼の詩集で、アンカラが首都とされることをその七十年前に記している。詩の行末の文字をオスマントルコ語の形で並べるとアラビア文字のアリフ・ヌーン・カーフ・ラー・ハーとなってアンカラを示し、同様に、この出来事が戦争の結果として実現するであろうこと、アンカラにお墓のあるハジュ・バイラム・ワリーのことを述べることによっても、アンカラが首都とされることが非常に明らかな形で示されているのである。

メヴラーナ(一二〇七~一二七三)は、七百年前に「とても小さな生命体を見ることができる。口を持っていて、ものを食している」と語り、細菌を示している。

20世紀のあるクルアーン解釈者は(サイード・ヌルシー)、ある覚書により、一九七一年に軍隊がトルコの政権に影響を及ぼすことを告げている。「いつなのか」と尋ねられると「三月十二日」と答えていた。この同じ人物は、一九八〇年の軍の作戦についても触れているとされている。[ii]

聖人のこういった未来に関する知らせを、どういった物理学的真理、どのような原子の法則によって、あるいは目や脳によって、説明付ける事が出来ようか。出来はしないのだ。この種の出来事は、未来に届くことのできる魂が、アッラーのお助けとお許しを得て、予め知ることが出来たとする以外、他の何かで説明することは不可能なのである。

テレパシー(千里眼)の一分野としての予知は、予言者、霊媒、そして占いを行なう不信心者にも起こりえる。この件に関しては、世界中の書物に無数の例が記されている。

例えばアメリカの書籍では、マダム・ギブソンと呼ばれる女性が、長年、世界の出来事を含む非常に多くのことを予言していることを紹介していた。この女性は、ケネディ暗殺、インドとパキスタンの分裂、アルバイ州がパキスタンにとどまることなど、これらのことが実際に起こる何年も前から予言している。この女性は聖人ではない。しかし、アッラーのお許しの範囲内で、幽玄界から知識を得ているのである。一部の魂はこういう状態に適合している。彼らは無意識の状態になり、独特の行動をとり、語り始める。幽精(ジン)でも、天使でも、あるいはけがれた魂であれ清らかな魂であれ、物理的、物質的なものを超越したところで接触し、知らせをもたらす。全ての真実を物質にのみ求めようとする人、いつでも「自然の摂理」と主張する人は、今日自らの発言と共に崩壊しつつある。魂は、どこであってもその存在を守りつづけているのだ。

4.予感、テレパシー、第六感

全ての人に、近い将来もしくは遠い未来に起こるであろう出来事を前もって感じることは多少なりともあるものである。誰かのことを考えていると、数分後その人があなたの家のドアをたたく。頭に浮かんだことを、他人がすぐに実現する。距離を隔たところにいる人と、どうやって、何によって、どんな無線や電話で連絡を取り合っているのだろう。先にも触れたように、自我との会話を行なう存在が魂なのであるのと同様、この結びつきを構成するのもまた、魂以外の何ものでもない。これを物質面から解明することは不可能なのである。

5.アッラーは、アッラーへの近しさに到達した人の目、耳、手となられる

共産主義時代のロシアですら、テレパシーと関わっていた政府機関の研究者がいた。最初に「精神を物質によって死刑にした」と宣言した国であるにも関わらず、当時のロシアは、おそらくは資本主義国家よりも前に、テレパシーによる通信の可能性を探ってきた。二十人乃至五十人からなる生物物理学者たちの一団が、このテーマにおいて多くの実験を行なってきた。彼らは三百キロ離れた地点にいて、電気や灯りから隔離された人と交信する手段を探ろうとしている。傍受される危険を冒さずに、海中においても同じように、物質や肉体を超越した力で交信する方法を探っているのである。彼らが目標としているのは、三千キロ離れた地点にいる人物と話し、三十~四十ページ分のメッセージを受信し、向こうにいる人物が口述するものを、こちらにいる霊媒を媒介として同時に受け取ること、結果として捕らえられるリスクがなく、費用も関らないスパイ組織を構成することである。

そう、このテーマは、最も物質主義者である人々においてすら、これほど認められ、重きをおかれているのである。ロシア人がこのテーマに重きを置こうと軽視しようとどうということはないかもしれないが、この事実は次のことを示しているのだ。すなわち、預言者たちの奇跡、聖人たちの驚異、魂の感覚といったものを否定することはできないということである。つまり、この奇跡的な出来事のうちほんの一つであれ、今日において人々の関心をひき、認められているのであれば、もはやこうした奇跡に背を向けることは不可能であるということだ。大学の講堂で、教室で、知識人の集いで、そこに参加している誰かが聖人たちの驚異や予感などについて見間違いだといって否定することは今後はするべきでない。この時代、機械物理学の壁は音を立てて崩れ始めており、物理学は古い法則において崩壊しつつあるのだ。

近い将来、物理学と自然が、もともとそれらを超越していた力の支配を受けるのを我々は目にするかもしれない。自然的なものは、精神と力の前に屈服し、おもちゃのように利用されるだろう。物質を自らの型のなかに押し込み、その能力を超えた業をなさせるであろう。そう、物質においては、魂や天使、物質を超越した力が支配的なのである。魂が本質なのであり、物質は従属するものなのだ。そしてこの繊細な覆いと、物質の背後にあるものは、その地位に拘束されない魂によって観察され、魂は全ての物事の真髄、内面を読み取るのだ。

今日、全世界で受け入れられているテレパシー、遠方との交信、未来からの知らせといったような出来事は、そもそも前から私たちのうちではよく知られているものだった。しかしある時代においては、私たちはこういった出来事について「聖人の驚異である。偉大な魂が見出すのである」と言っては迫害されていた。「これは、聖人が人の心を読んでいるのだ。心に浮かんだことを言い当てているのだ」と話す際には、からかわれないようにと恐れていた。さらには「これは聖人と、他の聖人の内面との交流の現れである。二つの魂が接触し、お互いに交信しているのだ」といっては軽んじられたのである。現在、多くのことが変化し、信仰を持たない人々さえ、こういった出来事を話題にしている。本や雑誌でこういったことが取り上げられている。崇高な道を極める聖人にとって、聖人としての道程の最初の段階は、墓場の様子を知ることとなる。墓のもとを訪れ、必要であるならそこに埋葬された人の状態を語る。あるいは、この世界の全く別の地点で起こっている出来事、例えば船が沈みかけていることなどを語る。

聖人たちの語ることは、テレパシーとは無関係である。例として、私が子供のころに目撃した、おそらくは百ほどの出来事から一つ二つを語ろう。

ある時、あの尊敬すべきムハンマド・ルトゥフィ師(一八六八~一九五六)をお訪ねした。白内障を患って、完全に失明されておられた。私のそばには他にも何人かいた。師がズィクルを行われている所(修道場)に我々はやってきた。扉の一つの隙間からスイカが見えていた。それで私たちはスイカが食べたいな、と感じていた。

彼は私たちをご覧になっていなかったし、私たちが来たという知らせも受けておられなかった。そもそも彼が見るということは不可能なのだ。なぜなら彼は失明しておられたのだから。

師はすぐ扉を開けられた。挨拶をされ「中に入りなさい。私は某を呼んで、あなた方のためにスイカを運ばせ、切らせよう」と言われたのだった。

金銭的に困難な状況にあったまた別のある時、私は数人の友人と師を訪ねた。彼に挨拶し、腰をおろした。私の状況を打ち明けることは私にはできなかった。師のそばには数人の裕福な人がいた。師は次のように言われた。「私はこの生徒に、アラビア語の本からいくつかの質問をしよう。もし彼が答えられたら、皆彼に十リラずつ与えてほしい」

この出来事は一九五三年に起こった。当時私が学んでいたモッラ・ジャーミー師(15世紀のスーフィ)の書の最初の部分から、私が最もよく知っている部分ばかりを、師は尋ねられた。経済的に困難な状況にある時に、最もよく知っている部分を尋ねられたことで、私は確信したのだ。私たちが紙に書かれたものを読むように、聖人たちも、人の心に浮かぶものを読んでいるのである。これらを物質的な側面から解明することは可能であろうか?

時には紙に包まれたイチジクを持ってこられ、イチジクの数も、そこに座っている人の数もご存知ないのに「皆に三つずつ配りなさい」と言われ、配ってみるとちょうどの数となる。四つずつ配ったのでは不都合なのである。また「そこにあるコップを持って、皆にチャイを配りなさい」と言われ、配ってみるとこれも数がぴったりである。

こういった出来事は一つだけなら、偶然だと言われるだろう。しかし一つの場でこういったことが五十回も起こっているとしたら、もはやそれは「アッラーによって的中させられた」と言われるべきである。アッラーへの近しさに到達した人々は、ある聖なるハディース(ハディース・クドゥスィー)の言葉をかりるなら「アッラーはその見る目、聞く耳、支える手となられる」[iii]のである。これは、到達した段階へのふさわしさに関わるものであり、アッラーのお恵みの一つである。

6.霊媒やヨガは、物質を超越した霊的な経験の力である

特に信仰を持たない世界では、物質を超越した霊的な力は、霊媒やヨガ、降霊術と言った形で見られる。魂の分離、無意識の状態に陥って他の魂と交信すること、未来について知らせをもたらすこと、ものや出来事をいじること、そして彼らの主張するところによると魂を呼び寄せること、火の上を歩くこと、体に串を通すこと、舌を切って再び元に戻すこと、六ヶ月飲み食いせずに過ごすことといったものが、この種のよく知られている出来事である。

魂は、物体の世界、物質の世界から関係を断ち切るに従って、力を得る。この分野での実績は、霊媒やヨガの修行者に限らず、キリスト教神秘主義者や、ユダヤ教の霊魂、さらには仏教や梵天信仰といった教えに従う人々、世界の各地に今でも残る様々な宗派や学派の徒たちにも見られる。私たちは皆、雑誌などでこの種の出来事を目にし、読んできたはずである。この種の現象は、イスラーム神秘主義にもみられるものである。例えば、ルファイーの道義では、ヨガの修行者がやっているように、例えば体に串を刺しても血が出なかったり跡が残らなかったり、手のひらにさらには口の中に置かれた炎がそれらを焼かなかったりといった事がある。当然火が焼いたり、串が痛みを与えたり、血が流されたりという状態もありえるのである。

これら全ては、人がある世界と一体化し、そこで発達していることと結び付けられる。人は、魂との結びつき、言い換えれば、神聖で偉大である力、強さと接触しえた程度に比例して、物質面にも影響を及ぼし、その段階を超えていく。魂はその段階において物質面を影響下、支配下におき、もはや、魂独自の符号を使った言葉として、火は燃やさず、串は血を流させず、痛みも感じられない。六ヶ月飲み食いしなくても空腹を感じない。なぜなら、空間的な拘束だけでなく時間的な拘束ももはや受けていないからである。

魂は、肉体から離れ、トランス状態に至った際、三次元の段階を超越できるのと同様、四次元、五次元の段階をも超越しうる。この状況において、時や空間の奔流はそれにあまり影響を及ぼせない。この時代の物理学者はこのテーマを語る際「私は自らを、あなたの三次元の外にも感じている」と言うのだ。

物質の殻を破り、抜け出てきたこの魂たちと、その世界に特有でその立場にふさわしい動きによって、その透明さに似合ったトーン、それにふさわしい出来事が、奇跡的な、思いがけないような側面と共に現れる。今日よく知られている例のうちいくつかを紹介しよう。

◆ Mesaj de La’という書物が紹介しているところによると、ある霊媒は、六、七人の学者集団の前で、両手を机の上に置くと、向かい側にある机が動き、うろうろし始めたという。

◆ イズミル市のボルノワ町で、あるテントで一人の人物が机の上にある小麦を上に浮かび上がらせる。その場にいた者たちがクルアーンから章句を唱え始めると「舵が取れなくなった。あなた方のうちに悪意を持つ人がいる」と言った。

◆ 一時期アンカラで医師たちの関心を集めたワトソン博士は、催眠術を行ない人々を眠らせ、思いのままに操った。「腕をあげなさい」というと腕をあげ「下ろしなさい」というと下ろしていた。

◆ 「魂と宇宙」という書物で、ベドゥリ・ルフセルマンは以下のように記している。「一人の医者が説明している。『私の妻は病気であった。病が悪化した頃、二つの雲のようなものが家に下りてきて、彼女の枕もとにとどまった。その瞬間彼女自身から別のもう一つの体が現れた。この体は、妻の首もとと、一つのコードのようなもので繋がっていた。そしてそれは絶えずうごめいていた。この情景をちょうど五時間目撃していた。最後にこのコードが切れ、一瞬うろたえたような魂は、それから上のほうに向かって上がっていった。その瞬間、妻はこの世を去った』」

◆ 第一次世界大戦のマディーナ戦線で戦ったオルドゥ出身のフェンニ氏は次のように語っている。「マディーナで、私たちは包囲されていた。イスタンブールのベシクタシュにある私の家と連絡をとることができない状態にあった。ある晩、夢で家に火と煙を見た。私の兵卒たちの中に、時々見えざる世界から知らせを得ることのできる霊能者がいた。私は彼を呼び『トランス状態になって、ベシクタシュの家に行って、そこで見たものを私に説明しなさい』と頼んだ。彼はそれを行ない、目を閉じたままで『今そこにいます。家のドアをノックしました。中から年配の、スカーフで頭を覆って、子供を胸に抱いている年寄りの女性が出てきました』と語り始めた。その女性が私の母であることを私は理解した。彼に『その女性に、何かあったのか尋ねなさい』というと、その返事として、夕べ妻が亡くなったことを告げた」

◆ わが天国がその足元にある、私の母が語ったことがあった。「アッラーと言っては食欲も失い、預言者ムハンマドと言っては一日中涙を流していた義理の母の死の床で、私はちょうど一年間彼女についていた。死の数分前に、『水を用意してください』と彼女は言った。私はそのとおりにした。彼女は礼拝のための清めを行なった。彼女の夫も家にいた。彼は健康そのものであった。女性は若かった頃のように声をあげて笑い、『まだこの世で運をつかんではいなかったようね。この木曜日、私たち二人の死体が家に残されるでしょう』と言った。それから、一本の毛のように枕の上に倒れ、私たちが彼女を寝かせようとしている時、別の部屋から悲鳴が聞こえた。その夫も世を去ったのだった」

◆ ヨガ、すなわち一部のヒンズー教徒が実行し、上演するセレモニーについては、読者も少なくとも我々と同じ程度の知識は持っていることであろう。これはテレビ番組や書籍、新聞、それからさらに人々の間の語り草にまで登場し、あらゆるところで取り上げられてきた。ここでは、ドイツのテレビ局ZDF2チャンネルで放映され、後に本にもなった「TerraX」という名のドキュメント番組からのエピソードを紹介したい。アナウンサーが「最高の痛みを味わい、痛みに対する耐久力を持つ」と説明していたショーは、次のようであった。口から突き出された舌に、上から下に串が刺される。鋭利な刃物で舌が切断され串刺しになっているが、口からも舌からも血が出ていないのが示される。舌はしばらくその状態にされているが、また元のところに戻され舌から串が抜かれる。アナウンサーは驚愕のうちに「科学はまだこれを解明することはできません」と語っている。

私たちムスリムは、14世紀前からこういった多くの出来事を知っていた。預言者ムハンマドの教友ムアッウィズの切断された腕は、輝かしい腕の持ち主であられる御方によって元通りにされ、跡も残らなかった。ウフドの戦い中に、アブー・カターダの目が飛び出してしまったが、それもまた同じ手によって元通りにされた。当然ながらこれらは、驚異の出来事という範囲の境界線上に現れた奇跡なのである。

7.降霊術は、物質を超越した、知られざる、見えざる力とつながりを持とうとする行為である

今日、降霊術のショーは急速に増えてきている。一般の人々でさえ霊と関わろうとし、テーブルの上でコップを動かしたりするのは、普通の若者の家庭ですら見られるようになった。これらの結果として、物質主義は崩壊に直面し、物質主義者たちは物理を超越し、物理の法則を支配するまた別の法則が存在することを信じ始めている。

知識人のレベルにおいて、特に霊的空疎感や、崇拝行為(イバーダ)の欠如からくる精神的渇きを癒そうと望む上流階級において、時間を過ごすために用意されてきたポーカーのパーティーの座を、今日降霊術のショーが占めている。ヨーロッパ、アメリカ、さらにはロシアにおいてさえこうした傾向を示すことから、ある真実が導き出される。この人々は何を求めているのか? 何と関わろうとしているのか? 物質的なものであろうか? そうではないのである。完全に物質を超越した、知られざる、見えざる力、すなわち霊的存在と関係を持とうとしているのである。その方法で、これまで解明できなかった多くの出来事に説明がつけられるだろうと望んでいるのである。楽しみ、興奮を伴うショーで時間を過ごすことの向こうに、物質的なものや物理学では解決できない超常現象的な問題を、自然を超越したところで解くことができるだろうという考えによって、それまでの強情を放棄し、降霊術を家から実験室へ、大学の講堂へと、その場を移させている。ロシアにおけるテレパシーの研究と並んで、イギリスにおいて、医者たちが、潰瘍の治療のために薬ではなく催眠療法によって、精神的メカニズムを稼動させるのだと示唆する方法を採用し始めているということも、このテーマにおいての記録に値する発達といえるだろう。

◆ あるムスリムが語っている。「アンカラで検事をしているある友人と、メヴラーナ(一二〇七~一二七三)の霊を呼んでみた。緑の衣服をまとい、メヴラーナ教団のとんがった帽子をかぶったある人物を、私たち二人共が見た。しかし顔を背けていた。おそらくその場に訪れたのは悪魔で、私たちに顔を見せたくなかったのだろう」

◆ ある心理学者もこのような出来事を目撃し、次のように説明している。

「サムスン市のある家で、降霊術の会に招待された。それを行なうのはその家のまだ幼い娘だった。テーブルの上にコップや文字を並べた。何度も呼んだ後、誰かがやってきたのを我々は知った。訪れた者は、その名前をコップの動きで教えた。ベルマ。幼い娘の手はコップと共に動いていた。私たちは訪問者に、『ムスリムですか』と尋ねた。『いいえ』という返事だった。『どこの人ですか』と尋ねると『メルシンです』と答えた。『ムスリムはいないのですか、来てほしい、話がしたい』と我々は言った。訪問者は去り、今度はテーブルの上に別の名前が記された。アイシェ。彼女に年を尋ねると、『七、八歳』という返事だった。どこの出身かを尋ねると、南部のある都市の名をあげた。どんな本を読んでいるのかを尋ねると、『女性のための導き』と答えた。

それから、そこにいる友人の一人が、祖父の霊を呼んだ。しかし来なかった。何度も呼ぶと、『私はやってきたよ』と答えた。名前を尋ねたが答えなかった。それでも何度もしつこく尋ねていると、『悪魔(シャイターン)』と答えた。私たちは皆驚きのあまり立ちすくんだ。聖アーダム以来の人間の最大の敵を前にして私たちは驚愕し、何をしたらいいのかわからない状態だった。その時私は思いついて、『あなたのことは呼んでいない。なぜ来たのか』と尋ねた。コップによって、『もう来てしまったのだ』と答えた。

『アッラーを信じますか』と尋ねると、『いや』と答えた。『預言者を信じますか』と尋ねると、『信じない』と答えた。『果実の便りという書の第六章を読みましょうか』と尋ねると『読みなさい』と答えた。私は読み始めた。

『工場が稼動し、ランプがある…この場合、これは一人の技術者の存在を示す』と読んでいくと、『そうだ』と答えた。『それならば、この世界という薬局にある木々、草、果実はアッラーを示す』と読みつづけると『違う』と言った。こういう応答を長く続けた。それから、『あなたにジャウシャン[iv]を読みましょうか』と私が言うと、『読みなさい』と答えた。私が読み始めると、コップが娘の指の下でカタカタと動き始めた。私は手をそれに添えたが、私の指から逃れでた。そして次のように書いた。『その騒音をやめてくれ』私は続けた。それは耐えられなくなって、沈黙し、苦しんで去っていった」

そう、多くの人が聞き目撃した、あるいは報道などによって知っている、この種のこれほどに多くの出来事があるのだ。そもそも、物質が破綻し、放棄されていること、魂が物質を支配していることを示すためには、これらの例のうちどれか一つだけで十分であろう。なぜなら部分は全体を導き出す者であるからである。

これまでに取り上げてきた、魂を成熟させることにより、未来に関して魂をもって交信すること、奇跡や驚異、予感、テレパシー、人の心を読むこと、霊能者やヨガ、霊や幽精を呼び寄せることといった出来事について、ムスリムは、魂の力や強さによって、アッラーが許された範囲内で学ぶことができる。これらは、一部の人々にとっては三ヶ月ほど努力することで可能となるものである。しかし、これらを習得することは、宙を飛んだり、幽精と戯れることではない。私たちにとって本質的なものは、アッラーと預言者を知り、愛することである。クルアーンとそこにおける美は、私たちにとって十分なのだ。教えのため、信仰のために奉仕すること、この道において子孫を育成すること、そして私たちの魂を、我々がその候補となっている永遠のために備えること、これらが第一の目的でなければならない。それ以外は、固執して時間を費やすほどのものではないのだ。


[i]訳者注 「ワラーヤ」とはイスラームの神秘思想における段階の一つで、アッラーの近接性、神友性を表す。「ワリー」はこの段階に達した聖人である。聖クルアーンでは「ワリー(アッラーの友)」に関して次の節がある。「見なさい。アッラーの友には本当に恐れもなく、憂いもないであろう。かれらは信仰し、(アッラーを)畏れていた者たち。かれらに対しては現世でも、来世においても吉報がある…」(ユーヌス章10/62~64)

[ii] 1971年と1980年にトルコで行われたクーデター

[iii] ハディース Bukhari, Rikaq 38

[iv] 訳者注 ジャウシャン・カビール(偉大なる鎖帷子)はアッラーの多くの御名と属性を含む貴重なお祈り集である。(http://www.isuramu.com/を参照)

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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