体に動きがないまま、夢を見、動き、話しているのは誰か。夜になり、あなた方は眠りに落ちる。目は閉じられ、耳は何も聞かず、舌は何も語らず、手は何も持たず、足は歩くことができない。あなたのそばに誰かが来て話しかけても、彼を見ることもその声を聞くこともない 。あなたが見ているもの、聞いているもの、体験しているものを彼も知ることができない。朝起きて、礼拝の後食事を求めるよりも、あなたは夜の間に見た夢の影響の中にいて、喜びや興奮を味わっていて、あなたの愛する人や近しい人などにそれを語ることを望む。空腹にも関わらずこの満足感、この喜びはどこからくるのであろう。

このように日々の生活において、人に空腹を忘れさせ、人に大きな影響を与える出来事があるのだ。これらはすべて魂の喜びであり、魂の興奮である。

1.夢の真実、種類および魂が夢で未来を見ること

眠りに落ちた人は、海に、あるいは宇宙の空間に漂う人のようである。目を閉じたままで漂い、何も見ないまま戻ることもある。手にしていた玩具に夢中になり、それ以外のものは何も見ないまま戻ることもある。あるいは、美しい海の波の影響の中そのきらめきの美しさや、宇宙の不可解な構造を見てそれらを自身の世界にも携えてくる。そう、夢も同じように区別することができるのだ。

場合によって人はただ眠ったことと目覚めたことを知り、目を閉じたまま暗闇を漂っていたかのようで、何も見ることのないまま戻ってくる。

時には、無意識に秘められていた出来事、体験した興奮を伴う出来事、気になって、何度も意識に上る問題などが、眠っている時に意識によみがえる。戦争から戻った人が、何ヶ月もの間寝床から興奮のうちに飛び起きるのがこの種のものである。

さらに、病気や不調さ、病的な精神状態や、気分の不快さからもたらされる夢もある。塩分をとった人が湖のそばにいる夢を見ること、怒りのうちに眠った人が喧嘩をしていること夢を見る、性欲におぼれた人がその種の夢を見ることなどである。

人が常に夢を頼りにすること、夢を見る目的で眠ること、空想にふけること、親鳥に抱かれるように夢に抱かれ、夢判断によって行動を決めることなどは、夢を見たいという病にかかったことの兆候である。

2.真実の夢とは

真実の夢とは、意識下のものや、病気がもたらすものではなく、空想の産物でもなく、清らかな澄み切った感情において、予想もしない時に見られる夢である。預言者や、聖人たちや、誠実なしもべたちの夢などである。時には普通の信仰を持つ人、さらには全く信仰など持たない人でさえこの種の夢を見ることはある。

このテーマを他の観点から見てみよう。全てのものにそれが存在をはじめる前から、それぞれに一つずつの同一物がある。すなわち、アッラーの御知識において、全てのものに一つずつの不変の存在がある。後にこれらは、アッラーのお力とお達しによって現象界に移行するのである。この不変の鏡と現象界の間で役割を果たすもう一つの世界があり、それは「祖型世界(アーラム・ミサール)」[i]と呼ばれる。現象界から抜け出し、一時的な肉体への高速から逃れた魂は、肉体を完全に放棄することなく、この世界へはばたきはじめる。その世界へ到達すると、物質的な限界を超越し、全く異なる次元に入る。そこでは過去と未来は混じりあい、魂はそこで全ての過去と未来を見ることができる。二年分のみいつの夜[ii]を一度に見ることも、二回の犠牲祭を一度に経験することもできる。20世紀にいながら、同時に預言者の時代に生き、自らを教友と見ることもできる。どうしてそんなことがありえようとは言わないでほしい。例えば、円錐形をした山のふもとで、あるいは村にいる人は、そこにおいてはただ、自らの狭い周囲を見ることができるのみである。しかし、ロープウェイや飛行機で上昇すれば、その山の頂上も、その周囲も見ることができる。同様に、たくさんの家、さらにはたくさんの村を見ることができる。

夢もまた、このようなものなのである。無意識の状態となり、魂の擬似が解き放たれると、この祖型世界へ至り、同じことを体験するのだ。

このように、祖型世界から夢を媒介として魂に移行してきたものを、人は、映画のスクリーンで見るかのように見る。過去と未来を同時に見ることもできる。ここで見られるものの一部は明らかで、明快であり、だから容易に理解される。時にはシンボルという形で表れ、分析が必要となる。例えば、祖型世界であなたが見た一滴の水は、りんごとなる。祖型世界であなたが見た汚物は、財産を意味し、あなたがお金を手にすることを示す。もしその汚物が他人のものであればハラームの富であり、あなたのものであればハラールの富である。祖型世界であなたが馬に乗せられたのであれば、それはあなたが目標に到達するだろうということを意味する。だから、あなたが見た夢を性急に自分で判断しようとしてはいけない。あなたの精神状態を知り、あなたのまなざしをくみ取り、あなたの表情から運命を読み取ることのできる英知ある人たちに判断してもらうべきなのだ。

正夢とはアッラーから恵みとして与えられた吉報であり、激励であり、霊的ひらめきや道を示すものであると同時に、警告や注意、という意味での道しるべでもあり得る。ここで取り上げるのは、魂のより進んだ、高度な結びつきを示す、未来に関する夢である。

こういった夢は、私たちが確実に行くであろう墓の世界やあの世から、私たちが現在生きているこの現象界へと、波のように伝わってくるものである。人の五感が、薄い膜のような特性をもつ現象界(脚注2を参照)に対して閉じられ、目覚めというもののメカニズムが消失することによって、あたかも、この世に関わる器官とのつながりを保持している直流電源へのコードが抜かれ、その代わりに見えざる世界との接触とつながりを確保する交流電源へのコードが作動するかのようになる。その結果、現象界に対して閉じられた窓が、祖型世界に開かれることになる。開かれたこの窓からは、祖型世界に関わる見かけと共に、意義や真実のシンボル、この世とあの世の中間である「霊的世界(アーラム・バルザフ)」[iii]から伝わるシンボル、視覚や予知に供される情景、そして未来の出来事のページなどが満ちてくる。夢は、人をこの世から別の世界に運ぶ、秘密を帯びたキャビン、あるいはタイムトンネルということができるだろう。

3.真実の夢のいくつかの例

サイード・クトゥブ教授は(一九〇六~一九六七)は、その解釈本で説明している。「私がアメリカにいたとき、夢でカイロに住む妹の娘の目に、ものを見るのに差し支えるほどの血があるのを見た。私は手紙を書いたが、その返事で、本当に彼女の目に内出血が起こり、治療を受けたことを書いてきた」

エブリヤー・チェレビは(一六一一~一六八四)はその旅行記で語っている。「オスマントルコのスルタン・メフメット四世の娘であるカヤ・スルタンは、夢でその祖父スルタン・アフメッドを天国において見た。スルタン・アフメッドはカヤ・スルタンに『娘よ』と語りかけた。『イェニ・モスクの建設中に私は服のすそで石を運んだ。アッラーは私を天国に置かれた。あなたも来なさい』。その時そばにいた叔父のムスタファは『カヤをそんなに急がせないように。一人、娘ができてから、それから来ればいい』と言った。祖父はその意志で『アル・ファーティハ』と言い、開端章を唱え、両手を顔にあてた。カヤ・スルタンは本当に、出産時に殉教したのだった」

「ロシアにおける神への回帰」と言う名の書物においても、この種の出来事や夢が説明されている。アンナ・オストロフスキーと言う名の著者の母は、ドイツがロシアに侵攻する五年前に、戦争が勃発するところを多くのシーンと共に見ていた。これらは当時の新聞で伝えられていた。

トルコのダーダネス海峡で、第一次世界大戦で連合軍を指揮していたサー・ハミルトンは、一九一一年に夢で海の深い部分に引き込まれ、二つの手がその首を締めるのを見た。目がさめたとき「亡霊のような」ものが、そのテントからそろそろと出て行くのに気付いた。実際ダーダネス海峡は彼にとってあまり幸先のよいところではなかった。逃れえない危険となって彼の上にのしかかってきたのである。

我々の友人の妻が、夜半を過ぎて死去した。しかしまだ誰も知らずにいた。朝になって、クルアーンを学ぶために子供たちがモスクに集まってきた。その際に、十二・十三歳の子供が「昨日の晩友達のお母さんが死ぬ夢を見た。本当のことだろうか」と言い出したのだ。

ある女性がその友人と同様母となることを待ち望んでいた。一人がもう片方に「まずあなたが母になるでしょう」と言った。「どうしてわかるの」と尋ねると「夢で私たちは一緒にいました。地面にベストが落ちてきて、あなたがそれを拾ったから」と答えた。

同じ女性は、祖父が、壁に立てかけられたはしごから落ちて足を折る夢を見た。それから一月ほどして、届いた手紙には「おじいさんがモスクの壁を工事中に、はしごが滑って落ちてしまいました。足が折れて、入院中です」とあったのだ。

また同じ女性が、その叔父が、机に向かっている状態で銃に撃たれて死ぬ夢をみた。それから四年後、叔父が机に向かっている際銃で撃たれたという知らせが届いた。

20世紀の初頭、デンマーク人のニースル・ボア(一八八五~一九六二)は、太陽と太陽に紐のようなもので繋がれて回転する惑星を夢に見た。目がさめると、これらと原子の構造との間に類似性があることを考えついたのである。

ドイツ人の化学者のフリードリッヒ・ケクレ(一八二九~一八九六)は夢で原子と蛇のような形が現れ、それが尾を口に入れるところを見た。目がさめてから、ベンゼンの六角形の化学式を見出した。

ボストンのエリアス・ホウ(一八一九~一八六七)は、あらゆる研究にも関わらず、ミシンに使う針を発明できずにいた。ある晩、夢で野蛮な一族の捕虜となって冷や汗を流しつづけている時、見張りの者が手にしている槍に、目の形をした穴があいているのを見た。目がさめると、一方の端が穴になっている小さな「槍」を作ったのである。

こういった何百もの例があり、それらは一つ一つが魂の秘められた世界からもたらされる光のメッセージのようである。

4.目を閉じた状態でものを見ること

そもそも、目にものを見せるものも脳ではなく、魂である。脳はただ媒介である。目を閉じた状態でいかにして夢を見るのかということを先に述べた。夢でなく、目を閉じた状態でものを見るということの例をいくつかあげよう。

ここでの例はまたロシア、すなわち物質を超越した全てのものを否定している世界からのものとしよう。

「ロシアにおける神への回帰」という本によると、一九六二年にニズニ・タギルという町で、医者たちがローザという少女の目を覆った状態で、ある実験を行なっている。この少女が指の先でものを見て、色を区別し、文字を読むことを目にしている。

イタリアのペサヴォ病院院長のランブローゾ教授は、自著において記している。「十四歳の少女の患者がいた。神経の発作を起こすと、目も見えず、匂いも感じられない状態になっていた。それらの代わりに鼻の先と左の耳たぶでものを見て、手紙を読んでいた。かかとで、容易に匂いも感じることが出来た」

ある友人は、一九八九年一月二九日にドイツのテレビ局ARDの第一チャンネルで放送された、一人の霊能者のショーを見たことを語り、以下のことを説明した。

かなり広いサロンに、飾り付けられたテーブルと、インテリ層の人々。画面に、目を黒い布で覆った女性と助手の男性が映る。二人の手にはマイクがある。霊能者は椅子に座っている。助手は、サロンでテーブルの間を動き回り、皆のそばに行き、テーブルにある食べ物やその他のものを彼らにマイクで尋ねる。霊能者は、離れたところにいて目を覆われているにも関わらず、質問への答えとして、最も細かいところに至るまで説明している。例えば、男性はサロンの一方からもう一方の端にあるテーブルのところまで行き「このテーブルには何がありますか」と尋ねる。そして女性が答え始める。「赤い、ねじれのあるクリスタルの皿の上にろうそくがあります。そのそばに、こういう皿があり、そこにはこれこれの料理があります。それからこれがあって、それがあって…」助手は一人の見学者の鍵を手にとり「これは何ですか」と尋ねる。霊能者は、先にも述べたように目を覆われており、少なくとも百メートルか百五十メートル離れたところにいる訳であるが「フォルクスワーゲンの鍵です」と答える。驚くことに、これほど離れたところの小さな鍵を、何の鍵であるかというところまで見分けている。男性は小さなハンドバッグを手にとり、女性に背を向けて「これは何ですか」と尋ねる。「四つのブリリアントカットのダイヤがついている、黒色で、中にこれこれが入っているバッグです」と答える。バッグを開けると、まさにそのとおりのものが入っている。

そう、目を閉じているのにものを見ているのは何だろう。魂は、脳のシステムと同様、他の全ての器官の司令者である。ただ、司令者として作用するために、この世界において通用する要因や器官を必要とするのだ。ただしこの必要性も、要因の世界で、一定の範疇におけるものである。いうなれば目は、魂に、この現象界を見せる窓という任務を果たしている。それが閉じられていたとしても、人は同じ任務を果たす他の窓を見つけることができうるのである。これは、霊能者やヨガの修行者のように、努力と、肉体に関わらない魂の発達によって得られるか、あるいは、アッラーが望まれた魂にその能力をお与えになることによって、得られるものである。


[i] 訳者注 「祖型世界(アーラム・ミサール)」は、天使や魂は人間にある形で見える世界です。ジブリール大天使は預言者たちにこのように見えたように。

[ii] 訳者注 「みいつの夜」はラマダン月の最後の十日間のうちの奇数日の一日で、聖クルアーンの啓示が始めた夜。

[iii] 訳者注 「霊的世界(アーラム・バルザフ)」は、人が死後、最後の審判の日のために復活するまで魂がとどまる世界です。この世界で魂は周りを見たり聞いたりしますが、物質の世界に連絡できません。ただ預言者、ワリー、殉教者とアッラーが許した人の魂がバルザフで移動できるのです。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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