1.魂は命令世界からくる意識を持つ存在である

聖クルアーンで魂の源について次の節がある。「かれらは魂についてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。『魂は主の命令による。あなたがたの授かった知識は微少に過ぎない』」(夜の旅章17/85)

魂は命令世界からくる、意識を持つ一つの存在であり、物質の世界からのものではない。ここでは、この二つの世界を解説してみたい。

物質の世界、あるいは目に見える世界は、私たちが見ている、証人になっているこの世界のことである。アッラーはこの世界で新たな存在を創造され、生命を与えられ、死なされる。創造されたこれらの存在は、一定の形を与えられ、飾り付けられ、装備を付される。植物や動物、そして人が、この世界を構成する生命体である。微粒子から天体まで、手に触れることのできる、空間をうめる、あらゆる物質的存在は、私たちが物質的世界と呼ぶこの世界に含まれるものである。

命令世界は、より強く神の法が支配している世界である。この世界の本質は物質ではなく、「意味」 である。「意味」を把握することは不可能であるため、私たちはただ、この世界から物質の世界へと伸びる働きによってのみ命令世界を理解しようと努める。このテーマを理解できるために、具象化する必要があるのである。

一冊の本、一本の木、あるいは一人の人間がどうやって存在し始めるのか、考えてみよう。本の存在の多くの部分はその「意味」である。印刷機がどれほど素晴らしいものであろうと、私たちがどれほど上質な紙を持っていようと、一冊の本はその「意味」なしでは存在しえない。

例えば、一つの種を考えてみよう。物質的世界に属するこの種は、内に抱いている命の縮図によって、命令世界にもつながりがある。なぜなら種において、その生命が確証される場、そして、生命が与えられ、生長、成熟するようになるという法則があるのだ。種のこの命の縮図は、割れ、開かれ、発芽し、若葉となり、ついには木となり、果実をつける。これは、そこにおける生長の法則によるものである。しかしこの法則は目には見えず、また音も聞かれない。私たちはただ、この法則が支配する被造物の、その物質的な存在を、物理的な生長のうちに見る。つまり、物質の世界の創造に向いている側を見て、観察することができる。命令世界のほうに向いている側面を見ることはできない。しかし私たちはそれを受け入れる。なぜなら物質的な要因がこのような結果をもたらすことは可能ではないからである。土の微粒子、空気の構成素が、地上の全ての植物の種類を知り、何百万にも達するこれらの種類に応じた別々の形の機械、作業台を持っていることが必要となり、これはありえようもないことである。

さらには、子宮内の精子も、ちょうど土に抱かれた種のように、卵子に存在する「成長の法則」とともに成長していく。子宮は毎月、内容物が排出される。これは一つの法則である。それから内膜が、見込み客である精子のためのビタミンの貯蔵庫として備えられる。これもまた一つの法則である。子宮へと移動していく何百万もの精子のうち、たった一つが競争に勝ち、卵子の膜から中に入り、その後すぐにその入り口は閉じられる。ここにも更なる法則があるのだ。そして、クルアーンで述べられているように(信者たち章23/12~15)、精子は、三つの暗い部屋で、細胞、線維組織、組織の三つの周期を経て、(これも一つの法則)そしてさらに多くの、驚くべき恵みによって養われる。これらを全て、私たちは周産期学と呼ぶ。胎児が経る、これらの段階は、今日装置を用いることによって証明し、観察することができる。しかしこれらの発達を支配する法則は、見ることができないのだ。

物体間にある万有引力のような法則の存在を誰でも受け入れているが、その本質を見ることができない。魂も一つの法則である。ただ、それは生きていて、意識と知覚をもつ法則である。もし、魂から、生と意識が奪い取られるなら、それは「通常」の法則であっただろうし、生と意識が「通常」の法則に与えられるなら、それらは魂となるであろう。

科学は、魂を定義することも、理解することもできない。物質界においては、物質は原子で構成され、原子は、より多くの微粒子で作られる。しかし魂はシンプルで、何かの複合体、化合物ではない。我々はそれを見ることはできないが、この世における様々なサインから、それを知ることはできる。我々は存在を受け入れ、そのサインを顕現を観察するが、その本質を知ることはできない。しかし、この我々の無知というものは、それらが存在しないということを意味するものではないのだ。2.脳と肉体を統治しているのが魂である

人において、それぞれが一つの国家のように働いている六十兆の細胞を支配し、命令に従わせ、すべてを派遣し支配する司令官が存在する。それが魂である。

魂が入っている物体において、生命の兆候が見られる。魂が去った後は集合状態に崩壊が見られ、メカニズムが壊され、悪臭を放ち始める。細胞はばらばらになり、腐敗する。全てはとり散らかり、失われる。つまり、魂は一つの鉱石のようなものであり、脳、各器官、感覚、そして肉体のすべての活動はこの鉱石の作用から成り立つ。魂は人間の肉体のすべての部分、脳のすべての中枢、それぞれが異なるすべての器官を統治し、それらに生命を獲得させる。知能、心、精神、感情が作用を始める。なぜならそれはあたかも、プラグを差し込まれるとすべてのシステム、すべての部分を動かし機能させ、その構造に何千もの差込穴とコンセントを持つ発電機のようなものであるからである。

プラグの一つに故障や物理的な欠陥が生じるとそのプラグも接続されている器官が電流サイクルから外れてしまい、作用しなくなる。例えば、神経システムのプラグが魂の発電機から外れると麻痺や歩行困難といった症状が起こる。魂の発電機に取り付けられているコードやプラグでは、幽精やその他の要素が原因となる狂気のような、一時的な状態が現れることもある。神からもたらされた災い、病や生理的な問題に対して、肉体を統治する状態にある魂は、ここにいたって囚人のような、あるいは麻痺してしまった状態に陥る。そもそも本来、魂は、自身を創造し支える無限の力に頼っていないときには、腕を縛られた囚人のようである。

2.人はただ物質からのみなるのか

脳の作用とは、神経細胞における生化学的反応である。この作用についての我々が知っているものは、それらが電子化学的性質からなるものであるということである。我々が何かを決めると、微細電流によってそれらが様々な筋肉に伝えられる。すなわち脳にはドーパ、ドーパミンなどの物質があり、それらが反応を起こす。それによって分解や結合が起こる。微粒子は酸化させるものもあり、還元を起こすものもある。電子が受け取られ、あるいは放出される。結果として組織に電流が生じ、行動が発生する。

生命体においては、六ヶ月ごとにすべての細胞が入れ替わっている。血液中では一秒間で一万の白血球が死滅し、その代わりに新しいものが生じている。一つの細胞では一秒で十二の合成が生じている。一時間では四万五千である。つまり我々は、この面からみるならば、いつでも同一であるわけではない。古くなったシャツやジャケットを替えるように、常に肉体も取り替えているのだ。

我々は、我々の視覚の器官である眼を使ってものを見る。視覚の中心は脳にある。しかし、脳は見ることはできない。あなたは「私の脳がものを見る」とは言わないだろう。それよりは、「私が見る」と言うに違いない。ものを見、聞き、感じているのは個人である。しかしこの「私」とは何であろうか? それは脳や心臓、その他の組織や手足から構成される何かなのだろうか? 死んでしまうと、組織や手足が全てあるのにもかかわらず、私たちが動けなくなるのはどうしてだろうか?

工場はひとりでに動くのだろうか? それとも、何か(電源など)がそれを動かすのだろうか。魂は電源ではないが、意識を持ち、強力に学び、感じ、考え、そして論じる存在なのである。

3.人がもしただ物質からのみなるものであったなら、法的規則はめちゃくちゃになる

我々の体の組織のみが営みを行っているのだと認識するのなら、今日の法的規則をめちゃくちゃにすることになろう。というのは、その場合、今日適応されている法制度を失効させ、新規にまったく異なる法制度を導入する必要が出てくるのだ。ここで、裁判の法廷を思い浮かべてみよう。

裁判官が容疑者に尋ねる。「この殺人をいつ起こしましたか」

容疑者が答える。「一年前になります」

判決は明らかである。容疑者の罪は許されるだろう。裁判官は判決文を読み上げる。

「殺害事件が発生してから一年が経過しており、当時銃の引き金を引いた、容疑者の指の細胞はすべて別のものとなっている。また容疑者におけるすべての細胞も、別のものである。このため、殺害を行なった真の犯人を処罰することは不可能であり、容疑者は無罪という形で意見の一致を得た」

当然、この地上においてこのような罰則のあり方は存在せず、このような判決がいったいどの条項に基づくものか、述べることはできない。

あるいは、また、空想上の裁判所において、殺人の容疑者が次のような陳述書を携えて陪審員の前に立っているところを考えてみよう。

「陪審員各位。確かに殺人事件は存在しますが、その実行者は私ではなく、また他の誰かでもありません。なぜならまず、私に犯行をおこさせたのは私の脳内における微弱電流の発生と反応によって生じた微粒子などの微細な物質であります。さらに、この殺人事件は発生からすでに八ヶ月が経過しております。私の細胞が完全に別のものと取り替えられていることは皆さんもご承知のとおりであります。このため、八ヶ月前の私の跡すら、今の私にはございません。だから、別の細胞たちが犯した罪は、今のこの無実の細胞たちにおいて問うことはできません。『何人も他人の起こした罪によって罪を問われることはない』という真実に照らして、私の無実は明らかであります。よって私の無罪と、判決がこのように行われるであろうという確信と希望を表明致します」

ここで、罰を受けるに値するのは魂であるということを認めないのであれば、このような判決や自己弁護ができ得るのではないだろうか? 殺人を犯した細胞はとっくに行方をくらませており、新しくそこにきた無実の細胞はその事実を知らない。だから彼らに罪はない。罪が犯され、罰が与えられるとしよう。しかしそれは六ヶ月以上続くべきではない。なぜなら殺人細胞は六ヶ月で消滅し、無実の細胞と入れ替わるからである。

そう、人間について、単に物質的な側面のみで考えるなら、真実はこういったものであろう。しかし人は物質のみで成り立ってはいない。事件の真犯人は、体や神経に関わるすべてのシステムや、脳の中枢を支配し、それらを統治する魂である。肉体はただ魂の道具に過ぎない。だから罰も、魂に与えられるのである。

人を、完全に物質的なものと見なし、その感情、思考といった精神的部分をも、脳の作用によるものとするのであれば、我々には年金を受け取る資格もないということになる。まず最初に、一年とか半年とか働いて、年金を得ることは不可能である。二十五年働いた人が二十五、あるいは五十の肉体を使ってきたとして、五十倍の年金などという話には誰も乗らないだろう。それから、無事退職まで勤めたとしよう。しかし、それから一年が過ぎた後では、もはや年金は受け取れない。なぜなら、働いて年金をもらう権利を得たあなたは、一年後のあなたではないからである。

この袋小路から出て、年金は、変化を続ける肉体以上に、変わることのない魂に、肉体という衣装をすり切らせたことへの取り分として与えられるということを述べ、救済を得よう。

人を単に変化し続ける細胞や、物質から成り立つものと認識するのであれば、毎年母親を変える必要に迫られたのではないだろうか。私たちの母は、私たちを産んでから六ヵ月後には母であるという特質を失ったことになるのではないだろうか。しかし我々にとって母は、常に同じ母である。なぜならその細胞は半年ごとに替わったとしても、替わらない部分で、そう、その偉大な魂で、『天国がその足の下にある』[i]母であり続けているのだ。母性、父性、子供であること、兄弟であること、これらは変化する物質や細胞ではなく、変化しない魂によるものなのだ。

4.人が単に物質的な存在であったとしたら、品性、性格、能力なども、変化する細胞と 共に変わっていっただろう

我々の細胞が替わっていく時、我々の品性、性質、能力、性格、主義、習慣、思想、考え、感覚、感情、知識、後天性の特質、地位、職業、名声などが共に変化してしまうことはない。もしこれらがすべて物質的なものに依存していたとしたら、変化する物質的側面と共に、これらも別のものに取り替えられているはずではなかっただろうか。

何年も会わなかった友達に、あなたは「全然変わっていないね」と言う。しかし彼は半年ごとに変わっているのだ。ここで、変わっていないのはどこであろうか?

おそらく品性が変わっていないのだろう。変わったとしても、それは段階的に、向上ないしは低下という形でのものであろう。概して、獲得されたよい品性、悪い品性、特に経験から獲得されたものは、容易には喪失されない。習慣というものもまた同様である。人が物質的なものに依存しているならば、毎年品性が変わってくることになるのではないだろうか。

何年も続いている手の慣れ、発達した能力は、なぜ細胞と共に変わってしまわないのだろうか? 一つの能力を発達させるためにはなぜ長年の苦労が必要なのだろうか? そして獲得された芸術性、熟練さ、字の美しさ、工芸品を製作する能力などはなぜ忘れ去られることがないのであろうか。

個人的な思想や考えなどは、生まれつきのものや、細胞の変化などとは関係なく、時間と共に変わったり、発展していったりする事があり得る。しかし、人それぞれが各自にとって不動のもの、変わらないものと認識している主義は、簡単には変化しない。細胞が入れ替わるときもそれらは同じままである。それならば、主義を決めるもの、思考を調えるものはいかなる力なのであろうか。

学習によって習得された知識は、時と共に一部が忘れられることがあったとしても、毎年根底から更新されてしまうことはない。称号を得て、医者なり教授などになった人に「あなたの細胞はもう入れ替わってしまったのだからあなたの知識も称号も失われた。白衣を脱いでその地位から去りなさい」と言うことができるだろうか?

あるいは、人が習得した知識、獲得した品性、習慣などは、新しい細胞たちに古い細胞が教えるのだろうか? 前の細胞が死んで、去ろうとする間際に「遺言」として、化学の込み入った等式や定理、宇宙における神秘的な動き、とてつもない医学の世界、法学における何千もの規律などを、新しく創られた細胞たちの頭に吹き込んでいるのだろうか?

5.人々は皆似たような細胞と脳の機能を持つが、違いは何であろうか

全ての人々において、おそらくは同じ細胞があり同じ脳の機能があるのにも関わらず、一人一人の知能、意志、意識などが異なったあり方であること、人々の間に思考や思想の大きな違いがあること、知識や能力に大きな差があること、これらを脳の微粒子や常に入れ替わっている細胞に帰することはできるだろうか? 同じ条件で、同じ材料を使う機織り機は同じ製品を作り出す。布の工場はセメントを製造しない。化学実験室でパンを焼いたりもしない。だから脳という製造工場で、異なる結果がもたらされないはずである。しかし人々の多様さは見てのとおりである。

つまり、それぞれの人をそれぞれに特性づけるものは、魂の特質のみなのである。脳も、その働きも同じであるが、その司令官が異なるのだ。そして、全ての人々において、全体的法則として脳細胞が常に入れ替わるのにも関わらず人によって異なる思想や能力は、細胞に依存するものではなく、魂から由来する要素による違いを示しているのである。

6.細胞が常に入れ替わるのに、私たちの容貌が変わらずにあることは、それぞれの固有の魂の存在を示す

壁のレンガが入れ替えられるように、我々の細胞も常に入れ替わる。にも関わらず、私たちの顔はなぜ変わらないのだろうか? 眉、目、鼻、口、肌の状態は、どういったプログラムがあって、変わらず同じままでいるのだろうか? それから、打ち身や傷で皮膚が剥離してしまった後でも、指紋がその形を保つことができるのはなぜだろうか? 科学者たちはもはや、指紋と並んで「人の目のつくりもそれぞれに固有のものである」として人物の識別のシステムに利用し始めている。これら全てが、全ての人に固有の魂があること、アッラーのお力によってこの魂が人の容貌や、指紋や目のつくりを守っているということを示しているのではないだろうか。

7.容貌は魂の不変の鏡である

容貌は、不変である魂の鏡であり、だからそれ自身も変わらずにいる。そう、顔は人の魂の世界に開かれた窓である。あなたの顔のつくりは、少々見る目がある人に、あなたがどれほどの価値をもつ魂の持ち主で、どの程度有意義な人であるかを示している。人の生理学的なつくり、容貌とは、その人の魂のあり方、魂の装いの覆いのようなものなのだ。

あなたがたは「騒音」を表現するために「騒音」とか「ゴーゴー」などの言葉を用いる。言葉はその意義の鋳型であるという事実に、あなたがたの注意を引こうとしているのだ。それと同様に、あなたの体、顔のつくりもまた、あなたの魂、性格の型である。繊細な思考の持ち主なら、あなたの顔を見て、あなたの価値を理解するのだ。そう、容貌は、創造に関する文が記された一冊の書のようである。

行動心理学者は、人の書いたもの、あるいは咳、鼻をかむしぐさすらも、その人の性格を示しているという。この件に関しては非常にしっかりした法則が見出されており、誰かの顔を見て、完全ではないにしろその人がどういった人物かを理解できそうである。

美容整形手術を受ける人は、天性のあり方に干渉するという罪を犯すと共に、魂との一致性をも壊していることになる。さらに、相手の人をだましたことにもなる。だからこの問題は、追及するに値する重要なものである。

8.人が、その感情と意志によって深い真実へとはばたくことは、構造上の微粒子や物質 によっては説明できない

人が、ものや出来事においてその完成された美しさを瞬時に感じ取ること、それらを概念という蒸留器に投げ入れ、新たな形成に価値を見出すこと、時には一つの言葉や一つの文章から、何冊もの本にも収まらないほどの真実の雄大な地平線に向かってはばたいていけること、外部世界に対する熟考によって新たな自己形成に至ること、内面世界においても深みを増し、新たな水平線を見出すこと、ただ書いたり読んだりする者だけでなく、体験したり聞いたりする者が至ることのできる状態や雰囲気の中でアッラーの御名、その特性を唱えること、一つの世界から外へと抜け出し、何千もの世界を旅すること、その旅によって獲得した知識や理解の源によって信仰の網を織り上げること…。これら全てはどんな微粒子によって解明されるものであろうか?

私たちが耳にする何千もの種類の音、味わっている多くの美味、目にしている多くの美、心地よいもの、苦いもの、美しいもの、醜いもの、悪いもの、素敵なものと私たちが見なす性質、愛すること、気に入ること、ぞっとすること、恐れること、驚くこと、はしゃぐこと、後悔すること、熱狂すること、興奮することといったような感情や精神的活動を、どうやって命のない微粒子に帰することができるだろう。

時に人は、この広い世界が狭く窮屈に感じられたり、皆が、さらには全世界が嘆き悲しんでいるかのように感じられるような精神状態になることがある。時には、家の中で壁に囲まれていながら、あたかも天国にいるかのように感じる。そして子供や家族や隣人、さらには全てを忘れることもある。この世を、ボールを蹴り飛ばすように蹴り、星や銀河を階段にして天空に上っていく。時にはテーブルの一杯の酒や通りでふっと目にしたものの影響によって、それ以下はないといえるほど低いところに落ちていく。その落下には穴も追いつけないほどとなる。

人は悲しみ、泣き、苦しみ、悩みや困難さの中でのたうつ。あるいは、喜び、笑い、安らぎを感じる。孤独を感じ、窮屈さに息が詰まる。礼拝所、あるいはバラの庭園のような友人たちとの集まりに加わり、自らを覆っていた雲が晴れることで、新たに花開いたバラのようになる。こういった状況をどうやって解明すべきだろうか? やはり微粒子によってだろうか?

9.疲労するのは魂か、肉体か

例えば、八~十時間も働いて疲れてしまったとする。そこに誰かが慌しくやってきて、とても嬉しい知らせ、あるいはとても悲しい知らせを持ってきたとする。こういうとき、あなたがたはどうするだろうか? 「ちょっと待って、ちょっと休憩したい。とても疲れているのだ」と言うだろうか? あるいは、何にもまして優先されるその出来事によって体の疲れを忘れ、その現場へ向かうだろうか? もちろん後者であろう。

ここで、肉体的疲労にも関わらず、精力的であるのは何であろうか、誰であろうか。そう、時には人は、重大な出来事に直面して二、三日眠らずにいることがある。例えるなら、イスタンブールを征服したファーティフ・スルタン・メーメットII世、もしくは預言者の叔父ハムザの到来があなた方に伝えられたなら、疲労や寝不足があなたがたの足を止め得るだろうか? 歩くことができないほど疲労して、重くなってしまった体を瞬時にして立ち上がらせ、力強く歩かせる、疲れきった頭をも働かせるのは何だろうか?

先の恐ろしい戦いで、兵士たちは何ヶ月も眠らずにいた。二、三人でも担ぐことができないような爆弾を、一人で肩に担いで投げ飛ばしていた。体は疲れきっていたが、魂はこの上なく活力に溢れていたのである。

10.人を動物と区別する点の一つが、その魂が時間を把握するというものである

人間を動物界から区別する多くの点のうち一つは、過去や未来に対する結びつき、関わりである。動物は今いる瞬間の快楽によって生き、喜びを味わう。過去の出来事から影響を受けず、将来に関することについて悲しんだり、不安を感じたり、喜んだり、また計画をたてたりする特性は持っていないのである。一人の人を、ただ殴るためでさえ、隅に連れてくるためには彼を欺かなければならない。動物は、鼻先に迫っている死にさえ気が付かない。もし動物が屠られることを知っていたら、屠殺場で動物を見かけることはなかっただろう。動物は、宗教上の命に従う義務を負ってはいない存在であり、土となってしまい、あの世では復活しないのである。つまり人は、物質的な面で動物に似ていたとしても、この二つの存在の間には良心、知能、意識、意志といった重要な相違点があるのだ。これらと同様、無限という思想、無限でありたいという願望、消滅することへの恐れ、そして時間の把握、過去の影響を受け未来に対して喜びや悲しみを味わうといった事柄も、人間に特有の動物には見られない特性である。

11.魂が現象界と接触することは、物質的な媒介によって可能となる

それぞれの段階が、特定の状態を要する。命令世界から来た魂が現象界と接触するためには、物質的媒介が必要となる。なぜなら、ものや出来事と接触するためには魂だけでは十分ではないからである。肉体がそれだけで祖型世界と接触することが不可能であるように、私たちが生きる現象界においても、魂は手や腕、舌や目、足のような物質的な要因を必要とする。そして、現象界に伸ばされたこの器官の媒介によって、ものや出来事との結びつきをもつのである。

魂は、中心的な発電所としての義務を負っており、これらの器官のどれか一つで発生する不具合の結果として、その器官のコードが魂のコンセントに差し込まれなくなった場合、接触が保てなくなる。そして魂は外部に繋がれたこの器官を作動させられなくなる。例えば、脳の右半分を支配するコードが外れると、その点において魂との接触が途絶えることになり、麻痺といった症状が起こる。そしてもはや魂はその部位を支配できなくなる。その状態で脳ができることは何もない。

脳に関して行われてきた研究の結果として、いくつかの部位に刺激を与えると指や手が大雑把な動きを取り戻すことはあるが、それはボタンをはめることもできないほどの大雑把で意識的ではない動き以上のものにはなりえない。

これはちょうど、ピアノの鍵盤に触れて、楽譜もなく、意味もなく、混じりあった音をたてるようなものである。脳はピアノのように、それ自身を意味のある一つの意図に応じて動かす、意志をもった存在、すなわち魂を必要とするのだ。

12.魂は自らを立証する根拠と共にその創造主を証明し、その存在を声高に訴えているのである

魂を証明し、見えざるものを示している事象として、私たちがいまだ解明できずにいる多くの存在がある。そう、魂はこれらの根拠全てと共に、創造主を証明し、明らかに示し、解き明かしている。フセイン・ジスィリ師(一八四五~一九〇九)は次のように魂とアッラーの擬似を述べている。

(ア) 肉体は、それ自身におけるメカニズムを動かし、統治する魂を必要としている。それと同様に、この世界におけるあらゆる事象もまた、全ての被造物の世界、そして魂を創造され、統治されるアッラーを必要としている。人間にある全ての事象が、宇宙にも存在するのである。

(イ) 肉体には、一つだけの魂が存在する。二つ以上ではない。同様に、私たちの神も唯一であられ、比べ得るものは何もない。

(ウ) 魂は、肉体において「ここにある」と言えるべき場所を持たない。しかし魂は肉体のあらゆる部分でその支配を感じさせる。肉や骨、そして時間といった次元の制限を受けず、肉体を残して望む地点にいることもできる。対比が誤りでないことを望むが、アッラーもまたあらゆるところを目にされ、統治され、時間や空間の拘束を受けられない。

(エ) 意志や力といった観点から、一と千、遠さと近さは対等である。太陽は、一片のガラスのかけらにおいても、また千のガラスのかけらにおいても自らを示している。ガラスのかけらは太陽自体から非常に遠いにも関わらず、太陽はその一つ一つにとってそれら自体よりもなお近い存在である。同様に魂の一つの細胞と何十億もの細胞、一つの組織と全ての組織に対する関わりは同等である。この大雑把な象徴と同様に、アッラーもまた、あらゆる事象を一つの事象であるかのように扱われる。私たちはアッラーから無限に遠い存在であるが、アッラーは私たちにとって大動脈よりもなお近い存在であられる。さらに、私たちのことをわれわれ自身よりもよくご存知であられ、よく理解しておられるのだ。

(オ) 魂が、肉体で起こっているあらゆることを知っているように、そして魂にとって隠されたことが何も存在しないのと同じように、(いい対比ではないが)あらゆる事象が、アッラーの英知の中で存在しているのである。

(カ) 善をなすこと、悪をなすこと、人を殺すこと、人々の心を信仰によって蘇生させること、善行や悪事などにおいて要因となるのは、脳や器官の司令官である魂である。同様に、良いことも悪いこともその創造主はアッラーであられる。

(キ) 魂は、肉体より前、そして肉体より後の世界に始まりも終わりもないことを示すことによって、その存在に始まりも終わりもない、真に永遠であられるアッラーを証明している。

(ク) 魂は目には見えず、その実体も知ることはできない。同様にアッラーもまた、思いつくあらゆる事象の背後の、その背後の、その背後に存在されるのである。

(ケ) 魂の能力、その完全性、この現象界におけるその顕示は、アッラーの御名、特性、御業、そしてアッラーの権限を思い起こさせるものである。

(コ) 外見や実体を理解することは不可能であるがために、私たちは魂の存在をその作用によって把握し、その存在を認めている。

13.魂はなぜ知られず、目にも見えないものとされたのか

アッラーの「ハイイ(その生命に始まりも終わりもなく、他者を必要としない御方)」という御名に拠っており、まただからこそ命と命の基盤である魂は、一切の要因に結び付けられないものである。それは「在れ」という命令と神聖なる息吹によって、命令世界から、要因や媒介が支配しているように見える、この現象界に移る。魂のあり方として、その存在の基盤においても、その前においても、物質的な要因や媒介を持たないものであり、だからこそ、人間によって理解されえるものではないのだ。

要因・媒介群とこの現象界は、それ以前とそれ以降における無限の状態の間で蒸発しようとしている一滴の水のようである。殊に時間という観点からは、この世界の重要性はただ一つの影、流れる川の一瞬のきらめき、砂漠のなかの一つの輪っか程度である。理解されえるのは肉体であり、知られざるものを象徴するのは知られざるもの以外にないのである。

14.天性の状態を喪失していない人の良心は、神を見出し、神を知る

良心と天性 (フィトラ)は決して偽りを語らない。創造のままの法則は偽らない。そのものがもつ特性、特質は人を欺かない。地球が「私は自転している」といえばそれは自転しているのである。種が「土に蒔いてください。条件が整えば芽をだし、木になって果実を実らせるでしょう」といえば、そうなるのである。水が「冷気が私に触れれば私は凍る」といえば、そうなる。火が「焼く」といい、引力が「空間にいてはいけない、私が引いて地に衝突させる」といい、ナイチンゲールが「私はさえずる」といい、蛇が「かんでやる」といえば、それらはたがわずにそれを実行する。そう、創造された特質は決して真実と異なることを告げないのである。

責任を負うべき魂や良心を持たないにも関わらず、植物や動物は偽りを語らない。良心を持ち、それによって理解と意識を持つ人間の本質は偽りを語りえるのだろうか。意識が、調整を行なう存在としてある場合、良心も天性の特質 に適した形で働く。神経や意識や感情に方向性と意味を獲得させる、重要で秘められた貯蔵庫、一つの潜在的可能性である良心の貴重な要素は心(カルブ)、それによって力を得る司令官が魂なのである。

そう、人の天性の特性が損なわれていなければ、そしてその意思がその任務を果たしていれば、その場合、人は書物や自然というページに書かれた根拠などを読まなかったとしても(多くの思想家が語っているように)、なお、偽りを知らない痛みと共に、良心はその神を見出し、知るのである。魂を考えに入れることなく、良心を不明な メカニズムの中で受け入れることは、一種の良心の欠如である。


[i] ハディース Muttaki Kanzul Ummal 45439

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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