魂、天使、悪魔と幽精の存在

私たちの知覚能力は限られたものである。だから、私たちの知覚を超越した領域の存在を否定することは、賢明とは言えない。私たちが存在について知っていることは、私たちが知らないことよりもはるかに少ない.私たちの科学はまだ「少年期」にあり、将来は、科学のさらなる発見と発展を目撃するだろう。

科学は、理論に支えられ、理論の証明や調査における、挑戦と失敗を通して発達する。かつて真実だと考えられていた無数の「事実」が、今では真実ではないと判明されている。私たちは疑いの余地がなく、科学の裏づけのない、多くの物事の存在を受け入れている。昔から、多くの人々はそれぞれの特質が若干異なっても、魂(ルーフ)や天使(マラーク)、悪魔(シャイターン)そして幽精(ジン)の存在を信じていた。だから、まずそれらの存在を受け入れ、それから調査をしていくという方法のほうがより科学的と言えよう。具体的な根拠に基づくことなく、これらの存在を否定してしまうことは、科学的ではない。誰も、目には見えない領域の存在についてそれが存在しないと立証し、科学的に主張することはできないのだ。

イスラームにおいて魂、天使、悪魔、そして幽精の意味や特性の説明を後にして、まずこのような創造物の存在について説明しよう。

1.物質の非物理的な側面

多くの物理的な状態(熱さ、冷たさなど)、また多くの抽象的な状態(美、魅力、喜び、悲しみ、愛)は、容易に体験できるものであり、また程度付けもされやすい。唯物主義者は、それらを脳の中の生化学的なプロセスによるものだとし、また一部の科学者(心理学者や精神医学者など)は、それを自然や物理の摂理によって説明しようとする。しかし、私たちの非物理的な側面、すなわち、個々人の感覚、信条、可能性、願望などは、物理や化学や生物によって説明するにはあまりに深遠なものと言えよう。

2.見ることができないということは、これらが存在しないということの証明にはならない

人が見ることのできるものは、全被造物と比べるなら非常に限られたものである。だから人は、自分の見ることができないものについて「そんなものはない」と言い捨てることはできない。我々が存在を知っているのに、我々の眼には見えないものはたくさんある。昨日まで知らなかった多くのことが、今日我々の知るところとなっている。我々が知ったものは、多くの知らない事項への扉を開くものである。ここでのテーマに関する存在についても、同じことを述べるのに差し障りはないであろう。

3.我々の経験や知識、観察の範疇には収まらない

魂、天使、悪魔と幽精は、我々と同じ範疇に収まっているものではないので見ることができない。我々は、自分たちにある器官を使って、同じ範疇にあるものだけを見聞きすることができるのだ。事実、計量の単位さえ、被造物の特質によって異なってくるのである。例えば、距離、重さ、濃度の計量単位はそれぞれ異なる。火の熱さを、そこに手をかざしたり、熱さを測定する器具を使ったりせずに知ろうとする人の状況と、物理の範疇を超え、物質ではない存在を物質的な手段で見て、確認しようとすることはお互いに似ているといえよう。双方とも、目標を達成する上で誤った道をたどっているのである。

4.小宇宙である人間において魂とは、宇宙における天使のようである

宇宙を統治しているのは精神と魂である。物質的なものではない。そして、最初に創造されたものも、物質ではない。まず、光、魂、そして物質のための型となる特性が、創造されたのである。これは、最も小さなものから最も大きなものにいたるまで、すべての存在においてこのとおりである。存在は、後から、一定の時間のうちに、その型にあわせて形成されていったのである。

存在しているものにおいては、一定の宿命、数学的基準、計画、プログラムがそれを支配している。摂理や、変わらずに続いていく原理のおかげで、そしてこの原理の統治のもとで、すべては見守られ、監視され、守られながら、起こっていくのだ。ここにおいて、目に見えるものの背後には、目に見えない力が感じられるのである。

例えば、もし我々が種子の言葉を理解でき、種子も我々の言葉を理解できたとしたら(おそらくは理解しているのかもしれない)「あなたは何になりたいですか」という問いに対して種子は「木に」と答えるだろう。そして結果として、木になるであろう。

季節の移ろい、様々な時期を経ること、他の場所へ移されること、これらはこの種子の言葉の実現を妨げない。なぜならそれが木になるということは一つの法則であるからである。ここで我々は、この種子が木になるという法則について説明することができるだろうか? いや、できない。それなら、それを否定するのだろうか? これも当然できないことである。

目に見えない美しさを持つ風は、木々を根こそぎ引っこ抜き、屋根を吹き飛ばす力と強さを持つ。毎年何度も何度も目撃するこの種の出来事に反して、我々は風における力と強さを、ただ目に見えないからといって否定するのだろうか?

電気は、一定のシステムに接続されると、スイッチを押すのが誰であれ、広大な工場、大きな機械を動かす。しかし私たちは、そこに蓄えられた力を、それが成し遂げた成果においてのみ見ることができるのである。電気におけるその力は、誰も見たことがないのだ。それでも、目に見えないものなら否定する単純な思考の持ち主以外は、誰もその力を否定した者はいないのだ。

微粒分子から天体にいたるまで、その存在が皆に認められている、作用・反作用の法則もまたそうである。この法則によって、この世界の秩序と均衡は継続する。ここで、私たちはそれが及ぼす結果を見ているが、その力そのものは見ていないからといって、この法則を否定できるだろうか?

このような例は他にも多くあげることができる。しかし結果として、そういった存在、事項が私たちに伝えるのは、次のことである。

「友よ。あなたは私たちに惑わされてしまっている。私たちはただ、見かけのきれいな覆いに過ぎないのです。私たちは、自分たちに与えられた命令に従っているのです。私たちの上にもある存在はあり、それらは魂と天使です。あなたは、あなた自身の世界に一部をのぞく私たちを見ているのです。しかし、本体、本来の力は、魂や天使に帰されるもの、そこに見られるものはアッラーに帰されるものなのです。そう、忘れないでください。小さな宇宙である人間は魂が管理していて、大きな人間でもあるこの世界は、天使がそれを行なっているのです」

5.全世界は、生命と意識を持つ存在のために創造された

生命が、物質的な肉体に仕えているのではない。物質的な肉体が、生命に仕えているのである。大地から空気へ、太陽へ、風へ、それからこの世界に現れるあらゆる摂理、法則、そしてこの法則と秩序によって確保される均衡にいたるまで、すべてを各々に、そして全体的に綿密に調べるなら、私たちは次の事実を見ることができる。すなわち、これらはすべて、地上で生物たちが、特に意識を持ったものたちが生きるための基礎を整えるためのものだということである。

宇宙に無駄はない。もし、生命という結果がもたらされないのであれば、これらはすべて無駄、無用なこととなってしまう。

なぜなら、生命がなければどんな存在も、あるいはその存在の特質も、意味がなくなってしまうからである。生命を持ち、意識を持っていないのならすべては色あせ、暗いものになってしまう。だからすべての宇宙は、生命と意識を持つ存在のために準備されたのだ。そしてこの地球は、これほど小さいにも関わらず、これほどの意識と生命を持つ存在で満ちている。我々の地球よりもずっと大きい星においては、当然それぞれの条件に適合する、生命や意識を持つ存在で満ちているはずである。そう、それらこそが天使であり、幽精であり、霊的存在なのである。

6.生命は物質に結び付けられているのではない

もし、生命が物質に結び付けられたとしたら、生命体の完璧さは大きさに正比例でなければならない。象やサイなどはノミよりももっとすばやく、繊細で敏感でなければならない。最も鋭敏な感覚はハエでなくて山が持っていなければならなかっただろう。エベレストがじっとし続けているのに、一羽の鳥が世界を自在に飛び回ることはできなかったであろう。つまり、物質は固定的で受身であり、これに対して精神的なものである生命は活発で活動的である。生命とは中身、真髄であり、物質は皮、殻である。物質とは、ただ、生命に仕えるものに過ぎないのだ。だから、本質的なものは、目に見える部分ではなく、見えない部分なのである。

7.この世界で起こる出来事を、想像的な法則に帰することはできない

仮定的で、名目上のものである引力の法則は、巨大な物体である天球を背負うことはできない。何千ものことについてサインがある、脳の働きは、脳のその驚くべき機能を見る限り、外見上の要因である科学的反応に帰すことはできない。

だから、法則や摂理をその手にしている天使、そして脳の司令官である魂の存在を認めなければならない。天使や魂の存在をさしおいて、これらすべてを想像上の法則や崩れ去ってしまう物質に帰すことは、論理的な説明ではない。

8.魂、天使、悪魔と幽精に関する問題に解明をもたらす多くの出来事がある

この世界は生命体で満ちている。それぞれの生命体は、それ自体の生活条件にふさわしい機能を備えている。陸で生きるもの、海で生きるもの、全ての生命体はそれぞれの世界にふさわしい機能を備えているのだ。これら生命体は、自らがいる条件の外部に抜け出して異なる世界で生きることができない。人間はどれほどの装備で飾り立てても、針ほどの小ささの魚ほどにも生きることができない。装置をつけて、一時的に彼らの世界を訪問できるだけである。

我々の周囲は、何千もの種類の被造物に囲まれている。氷河で生きるもの、砂漠で生きるもの、酸素を空気中から吸収するもの、水から確保するもの、土から生えるものを食べるもの、土そのものを食べるもの、地を這うもの、天空で翼をはためかせるもの、水中で泳ぐもの、他にもどれほどの種類があることだろう。

そう、この小さな世界において他のシステムとは比べものにもならないほどに、何千もの種類の生命とその生存方法が存在する。地上においてこういった状況があるならば、地球よりもずっと大きい星の世界や太陽や惑星群において、そこの条件に適した住人はいないものだろうか? 「いない」という返事は当然誤りである。なぜなら我々人類は、そういった地点における条件に入っていって確かめたわけではないのだ。大海に潜っていき、そこに生きる生物を見たことがないことからくる、そこの生物への否定と他の世界に生きる生物の存在との否定の間には相違点はないのだ。海でもおぼれずに生きる生物がいるように、火に焼かれることのない生物がいるかもしれない。そしてそういった生物にとって最上の住処は、おそらくは地球ではなく、太陽やそれに類した星であろう。地球においてさえ、魂の力や天分によって火で焼くことのできない人々がいるのである。だから、生活条件を自分たちの世界とだけ比較して、他の星における意志をもつ生命体の存在について、無意味なものだと決め付けることは、決して正しいことではないのである。

あなた方が化学者と話をなさったなら、物理学者や宇宙物理学者と語り合われたなら、生物学者と動物学者と考古学者と交流をされたなら、そして医学の世界において少々深い知識を獲得されたなら、あなたの目の前には信じられないような世界、信じられないような生活条件、そして冒険に満ちた旅が広がることだろう。あなたが知らないこと、あるいは少なくとも目に見えることのないこういった項目について説明された事項を認識することができなかったとしても、すぐに否定には走らないというのが最も道理に適った道であろう。なぜならそこで説明をしているのはその分野の専門家なのである。

話をここでのテーマに結びつけるなら、天使について説明し、幽精の生き方を語り、魂の問題に答えをもたらす、何千もの何十万ものその道の専門家がいるのである。私たちは天使や幽精や魂を自らが見たあるいは見た人から聞いた彼らから伝えられた何百もの出来事を知っている。語られている話は非常に多数であり、このテーマに確実性を獲得させていると見ることができる。この場合、ここで語られていることについて信じること、あるいは少なくとも否定しないことが必要とされるのではないだろうか。

9.他の星にも、また異なった種類の生物が存在することは、常にありえることである

このテーマには、例え話から入っていこう。類を見ないような、また無数の宝物、比類なき美術の持ち主である皇帝を考えてみよう。この皇帝が宮殿群から一つの街を作り、その雄大な街の片隅には、小さな小屋が作られている。この小さな小屋で、大きな仕事がなされ、様々な生活条件が存在し、様々な食物で器が満たされ、空っぽにされるのを我々は見ている。それから我々の目をその堂々たる街のほうに移す。しかしそこでは誰も見当たらない。ここで、私たちが誰をも見ることができなかったという事実を、いかなる要因に結びつけるべきだろうか? 目の無力さだろうか? そこの住人たちが隠れていることだろうか? あるいはそこに誰もいないということにだろうか?

この雄大な街で、何千もの宮廷が空っぽで無人であり、ただこの小さな小屋にだけ何千もの生命体に満たされているという認識を意味するこの最後の見方は、当然知性ある人が取るべきものではない。すなわち、私たちの目の無力さがその宮殿の住人を見ることを妨げているか、あるいは我々が知らないある英知によって、我々から隠れているかのどちらかなのである。

地球は、この例え話における小屋であり、宇宙はその雄大な街、星たちはその街の壮麗な宮殿群である。この地球という小屋においてこれほどの光、色彩、音響の宴を見た人が、なぜ、その雄大で壮麗な星の宮殿が空っぽであることを認められようか。そこにも生命は存在し、意識をもつ住人がいるのである。私たちがそれらを見ることができないということは、彼らが存在しないということにはならない。これは私たちの目の無力さ故であるか、あるいはそれらが身を隠している故である。

そもそも我々は、地球そのものをも生命をもつ存在としてみている。そう、人の肉体を魂が支配しているように、地球は、司令者という意味では天使たちが支配している。この法則は天空の全ての物質にもいえることである。

10.地球という庭園のナイチンゲールのように、宇宙の全ての美を歌いあげる

ナイチンゲールたちがいる

宇宙の美を歌いあげるナイチンゲールたちがいる。このナイチンゲールたちは、私たちの地球という庭園のナイチンゲールのように、宇宙という庭園の星という花々について、感謝をあらわす賛歌を歌いあげる。時には物質からなる何らかの存在を住処にし、神の力の物質における顕示を見て、驚く。時には巨大な銀河の唱念をアッラーに伝える。それらは永遠にしもべとしての任務にあり、ただしもべとして成り立ち、生きる。そう、それが霊的存在であり、天使たちなのだ。

11. これらの存在を預言者たちおよび聖人たちが伝え、哲学者や知識人がそれを証明する

魂、天使、幽精といった存在について、どれか一つに関する立証は、その全てに関する立証を意味する。ここでは部分は全体を示すのだ。数人の体に腎臓があるのを確認すれば、全ての人において腎臓を確かめるまでもなく、私たちは全ての人に腎臓があるという結論に達する。そして私たちは、示されている一つの動物から、その種が地上に存在するという結論を導き出す。

しかし、ここでのテーマである天使、魂、幽精といった存在は、その何千もが、何千人もの人々によって伝えられているのだ。生涯嘘を付くことのなかった十二万四千人の預言者たち、何百万もの聖人たち、同じくらいの数のその他の人たちが、何千回となく天使や霊的存在を目にし、出会い、彼らとの出会いを他の人々に伝え、これらの伝えられた事柄を記録し、我々にまで至らせたのである。嘘などありえない人々、また嘘において一致することなど考えられない何十万、何百万もの人々が、様々に異なる時代、場所において何かの問題について一致している場合、そこに疑いの余地は残るだろうか?

さらに、知恵という足で歩くとされる何百もの哲学者や、知識人たちが自ら見出し、あるいは聞いて、このテーマを承認していることもまた、この立証という観点から重きを置くに値する事実であろう。

12.人間の特性における善と悪の力を象徴する二つの極があり、それが天使と悪魔である

この宇宙において全てが、自らをその対極によって明らかにし、対極によってそれを感じさせるということは先にも述べた。そこで言えることは、宇宙において善を奨励し応援する存在である天使の対極に、災いと悪の見掛けを繕い、それらを行なうように人を励ます悪魔(シャイターン)が存在するのであり、またそれが必要なのである。

アッラーは善と美、意義のある事項を愛され、絶対的な完全さと美の持ち主であられる。それに対し、災いや悪の創造主がご自身である上でなお、災いや悪に対して決して好むお気持ちやお悦びは抱かれない。悪の源であり、真髄であり、奨励者であり、飾り立てる者であり、人の心に疑念という形で忍び込ませ、その意志により人を迷わせることによってアッラーが悪を創造される原因であって、地獄の魂を持つある存在があり、それこそが悪魔である。悪魔は何も創造しない。創造できない。善も悪も、創造されるのはアッラーである。ただ、アッラーは悪を悦ばれない、しもべたちを弾圧されるお方ではない。つまり、しもべの手を縛られ、無理やり罪を犯させられることもない。アッラーが、正しく健やかという性質を与えられて創造された人間は、悪魔の計略や装飾にごまかされ、その意志と天性の性質を失い損ない、悪事を犯す。アッラーが創造される悪とは、このように人が犯し、実行者となる悪なのである。

その善良さ、品性のよさ、美徳によって称えられる人を「天使のような」と表現する。それと同じように、その凶暴さでハイエナを凌ぎ、常に品性がこの上なく悪く、人を裏切り、ずる賢さを持ち、残虐で、人を制圧することに喜びを感じ、全ての悪の導き者となるような人のことを「悪魔のような」と表現する。この似せ方は何を意味するのだろうか? 単に空想的な似せ方であろうか? 人間は、自分たちと動物たちの間においてさえ、多くの共通点を見出し、これらは慣用句や概念という形で人の口に上る。アレクシス・カレル(一八七三~一九四四、フランス)がヨーロッパの人々のために作り出した「人間…!」の定理を研究してみてほしい。そして、言葉の王であられるある御方(サイド・ヌルシ)がおっしゃられたように、この時代において、仕立て屋が服を裏返す行為が人々においてされたとしたら、私たちの前には非常に変わった動物の光景が広がることだろう。

そう、人の魂において揺れ動き、心や知性の世界で戦い合う、競い合う何千もの崇高なあるいは劣悪な感情や思いや同様の感情や性格とともに、それらを象徴する善い、あるいは悪い魂がもたらす、品性に関わる振る舞いは、常にぶつかり合う二つの力を我々の目の前に示している。そして、常に発達させ、飾り立て、奨励し、それらが象徴する概念を人々に反映させる二つの極、それが天使と悪魔である。

人間はこの世界の小さな目録のようである。片方が種であり、片方が木である。一方にあるものはもう一方にもある。血管に対して川。心に対して至高の玉座。脳に対して霊的階位。記憶に対してアッラーの定められた全事項が記されたもの。愛情に対して引力。憎しみや激しい怒りに対して嵐や高波。楽しさや喜びに対して太陽や春。同様に、魂で感じることや崇高な感情やそして善良さと天使に対して、疑念や醜い考えや劣悪さと悪魔! つまりこれらは人間におけるこういった感情、思考、疑念を象徴しているのである。普遍的に知られている比喩表現がある。天使のような人に対して、悪魔のような人…。

13.クルアーンや預言者ムハンマドの説明によって確定されている

聖クルアーンがアッラーの御言葉であることを証明しているすべての根拠や、預言者ムハンマドが預言者であられることを証明するすべてのしるしは、同時に魂、天使、悪魔、そして幽精の存在の根拠であり、しるしである。それらを否定することができない人には、これらの存在も否定できない。なぜならこれらについては、聖クルアーンにおいても、預言者ムハンマドの聖なる御言葉においても、様々な形で取り上げられ、詳細が語られ、その存在はこれらのお方自らによって認められているのである。そう、魂や天使や悪魔や幽精に関しては、こういったしっかりした根拠によって確証が与えられているのだ。

多くの項目においてそうであるように、ここでも、これらの存在に関わる、それ以外の根拠が何もなかったとしても、預言者ムハンマドと聖クルアーンは根拠として十分である。14世紀の間、聖クルアーンや預言者ムハンマドの御言葉が一つであれ否定されたことがなかったのと同様、それに対抗するものも持ち出されることはなかったからである。

学問として、確実で不変なものと認められる定理がどれほど見出されたとしても、そのほとんどすべてはその真髄の部分が聖クルアーンですでに見られ、14世紀前に知らされたことであることを我々は見てきた。だから天使、魂、天使、悪魔と幽精の存在は我々自身の存在と同様に絶対で、聖クルアーンや預言者の正しさがはっきりしているのと同等にはっきりしたものである。それらを信じずに否定という道へ迷う者は、ただ誇りやうぬぼれ、頑固さ、先入観、そして聖クルアーンやイスラームへの敵対心があるがゆえに、この理解しがたい状態に陥っているのだ。

Share:

More Posts

fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

fethullah gulen 52 b70 scaled

ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

tr haber 16281 pakistan deprem 87a

心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

dun irtica bugun camia 44f

恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

verslaafd aan gemakzucht eb1

泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

philip clayton 1 a74

名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

hasbi gulen19

不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

Send Us A Message