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February 16, 2015

私の民主主義に対する立場は非常に明確です。国を転覆させようとするいかなる試みも、私たちの団結への裏切りであり、反逆です。
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フェトフッラー・ギュレン

私は50年以上にわたり、平和、相互尊重、利他主義の価値を説き、教えてきました。
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フェトフッラー・ギュレン

イスラムの信仰、礼拝、道徳、行動の基本的な原則は、時代の変化に影響されません。イスラムは特定の不変な政府形態を提案せず、それを形成しようともしません。イスラムはその名において神権政治を提供したことも、確立したこともありません。
Home » Collection for February 16, 2015

February 16, 2015

フェトフッラー・ギュレン

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1分のハディースの分析

アッラーの唯一性を説く言葉, 信者は、同じことに二度はだまされない, 正しさと偽りのもたらす結果

View 1分のハディースの分析

Japanese (日本語)

思考の高潔さ, タウヒードとアッラーへの愛情 (タウヒード=唯一の神アッラーの外には神は存在しないことを信じること), 預言者ムハンマドの潔白さ

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人生の指針

英知の観点から、愛

愛とは、物質的、精神的な美・善への傾斜である。物質的なものへの愛は物質的、肉体的なものであり、精神的なものへの愛とは魂や良心によるものである。だから外見上の美しさへの愛は、その美しさが永遠ではないために別離の悲しさを伴うものとなる。精神的なものへの愛は永続的であり、別れの悲しさを伴わない。
ある心において愛が真実なのであれば、敵意は形象にすぎず、敵意が真実なのであれば愛は形象にすぎない。」これは多くの問題を解決する、秘められた鍵である。
望まれていた喜びが手に入れられることは、その望みと同様、愛の死ともなる。望みと愛は、探し求める魂たちの翼であり、探し求めている限り彼らと共にある。
医者は、病気の影響をその徴候によって知る。病人はそれを感じ、体感する。このように、愛する者は愛を、激しく愛する者は熱情を、熱愛に我を忘れた者は無我夢中の状態を、知のある者は魂の喜びを知る。(言葉ではなく)あり方によって得られる知とはこのことを言うのだ。

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kotuluklerden sakindirma ve batili tasvir 415
こわれた壷

過ちに引き付けるような言葉を使うことなくその警告を行うこと

質問:過ちの内容について詳細な説明を受けると、人々は誘惑で精神が汚されてしまうことがあると言われています。一方で人々が過ちを回避するために警告しなければならないことがあります。ここでどのようにバランスを築くことができるでしょうか?
答え:まず、何か良くないことについて警告することと、それについて人を引き付けるような詳細な説明を行うことは異なるということを知る必要があります。個人や社会を害する態度や振る舞いを回避させ、人々がそうしたものを嫌悪するよう仕向けるためには、それに関して警告を行うことが当然必要となります。しかしながらそうした警告は、人々の頭の中でその過ちが明瞭な像を結ぶようなやり方で詳しく説明しすぎてはなりません。ある種の行為について鮮明な像があることによって一部の人はそれに対する誘惑に駆られる可能性があるのです。ですから、意図した効果と反対のことが起こらないよう、過ちについては簡潔に述べるに留め、その害やこの世と来世で引き起こされる悪い結末について話すのが良いでしょう。例えば、罪に耽っている人に警告を与える際には、精神的な恵みに対する感受性を失ってしまうこと、崇拝行為に歓びを感じられなくなってしまうこと、洞察力が鈍ること、心に備わる潜在的かつ繊細な機能を働かせられなくなってしまうこと、もしくはそういう機能に全く気付かなくなってしまうこと、宗教の形骸化から救われないこと、アッラーをただ理論のみで捉えてしまうこと、アッラーの御前にいるという畏敬を感じられなくなってしまうこと、などを思い起こさせてあげることができます。つまり、罪について詳しく描写するより、その罪がもたらす悪い結果に注意を引き付けるほうが賢明だといえるでしょう。
良くない含蓄がもつ破壊的効果
ご存知のように、シャイターンは人間性に備わるある種のマイナスの感情に抜け目なくつけこみ悪用します。ですからそうした感情を呼び覚まさないこと、作動させないことが非常に重要となります。過ちをこと細かく説明すると潜在的なマイナス感情を活性化させる誘発要因として働き、シャイターンに人々を堕落させる好機を与えてしまうことになりかねません。
この問題となっている事柄を我々は性欲と結び付けてしまいがちですが、それに限定することは誤りです。ここで述べたポイントは、.人々気持ちをそそられてしまうあらゆる過ちに当てはまります。例えばあなたは偽善がいかに醜いかを説明しようとしているとしましょう。もしあなたがそれを芸術的才能と捉えられるような話し方をするなら、図らずもこの不道徳を気に入るような気持ちを引き起こしてしまうかもしれません。したがって、過ちの範疇に入るあらゆる態度や振る舞いについては、抑止効果を期待できるようなやり方を用いながら、道を踏み外した人々が審判の日に直面する懲罰がいかに恐ろしいかを話すべきです。
この点においてアッラーに同位者をおくことについても非常な繊細さをもって扱われる必要があります。例えば、アッラーではない何か神と見なされているものの名前を繰り返し挙げることに意味はありません。必要であればその名称に全く言及しなくても良いのです。そのこと自体には簡単に触れて、それよりも、永遠の至福の人生を失い永遠の地獄の人生に直面するかもしれないという事実を強調するべきです。
同じことが親不孝や偽証、窃盗、中傷や陰口といった事柄にも当てはまります。我々は人々に、こうした事柄に対する抵抗感を抱かせるようにしないとなりません。
実際、この手段は預言者様(彼に祝福と平安あれ)が取られた方法です。舌がもたらす災禍や不倫関係を回避することがいかに大きな利益を獲得することになるのかを説明するために、彼はこうおっしゃいました。「私のために、顎の間にあるものと、両足の間にあるものを制しなさい。その者のために私は天国を保証します」[1]。お分かりになるように、問題の中身は控えめかつ簡潔に表現され、きちんと振舞えた場合に得られる報奨へと関心を引いています。
また、過ちについて詳細すぎる説明を聞いた人の頭の中は、数日間さらには数週間にも渡って不純物が混ざった状態となる場合があることを知らなければなりません。ある種のマイナスの事柄は、崇拝行為を行っているときでさえ頭の中をざわつかせることがあります。ですから人は最初から、こうした良くないものに対して確固たる強い姿勢をとるようにしなければなりません。そうしないと、頭に美しい良いものを満たすために骨を折り続けることとなります。大脳皮質にあるファイルを開けたとしたら、どこからでも良い言葉、良い思考、良い光景が飛び出してくるような状態にしなければならないということです。もし何かによって目や耳、頭の中が汚されたり、不本意にもマイナスな何かが心に思い浮かんできたら、罪が永らえる隙を与えることなく、すぐに近くの礼拝用絨毯に駆け寄り、浄化を願って礼拝し庇護を求めるべきです。
清純な精神と良い結末

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faydali tenkidin esaslari 765
こわれた壷

有意義な批判となるための要素

質問:あらゆる事柄に関してより良いものを追求するための重要な手段となる、発展的な批判を行うにあたって、それがより効果的かつ有意義なものとなるために注意すべき点はなんですか?批判する者、される者の双方が守るべき重要な点はなんでしょうか?
答え:ある発言や振る舞いを批評し、その長所・短所を明らかにし、実際の状態と望ましい形の比較を行うことを意味する批判は、理想に向かっての向上を促進する上で欠かせない学問的要素の一つです。このことから批評はイスラーム初期の世代から用いられてきました。例えばハディースの方法論として、ある伝承について、その本文と伝承者の鎖の信頼性に関しては批判的なアプローチによって見極めがなされたものでした。実に批評は、アッラーの命令に由来する正しい意味を探し当てたりそれを正確に解釈するといった事柄にあたって真実を明るみに出す目的で、当初からイスラームにおける学問の方法論としてしかるべき地位を占めていました。こうした学問の領域があったおかげで非常に信頼のおけるフィルターが形成され、イスラームと相容れない外からの思想の前に立ちはだかることとなったのです。「ムナーザラ」(考えを比較し議論すること)とよばれる領域も発達したおかげで、有益な議論の結果生み出された新しい解釈についても、批判にさらされ、既存の確立された基準と照らし合わせた上で、最終的に真実のきらめきが得られるものでした。
特に、ハディースの分野で伝承者の鎖の信頼性を問うことに関して相当量の文献の蓄積がなされました。莫大な量の書物が著され、ハディースと称される発言が本当に預言者様(彼に祝福と平安あれ)に帰属するかどうかを判断する材料とされたのです。しかし学者たちは、こうした重要な事柄を判断し評価する際にも、行き過ぎた見解を出さないよう細心の注意を払っていたものでした。例えば、批評(ナクド)の題目を初めて体系化した古典期の重要な学者であるシュウバ・イブン・ハッジャージュの、伝承者を厳しく批評することに関してある興味深い発言があります。仲間の学者に向かって彼は「さあ、アッラーの道でちょっと中傷しようじゃないか」と言ったそうです。かくして彼は、この重要な任務を行う必要性と、その作業がただアッラーのためだけになされなければならないことの両方に注意を引き付けているのです。
批評・批判の手法は特にイスラーム暦における最初の5世紀の間、最も適切なものに到達するという目的で、宗教・実証的科学の両分野においてよく用いられていました。ですから我々の時代でも、公正さ、尊敬の念、配慮というものが保たれるのであれば、この学問的手法を同様に採用することできるでしょう。この点に関して、批判の礼節とやり方について手短に見てみましょう。
公正な態度と柔らかな方法を用いる
批判の対象となる事柄は理に適ったやり方で提示され、それについて述べるときは最大限の配慮を払い丁重なやり方で行うべきです。つまり、批判は否定的な反応を引き起こさせるのではなく、気楽に喜んで迎えられるようにすべきです。ある種の事柄を解決するために自らの代替案や妥当なアプローチを示す際、感じよく丁寧な物腰でそれを行えば、敬意を示されるでしょう。例えば、あるテーマについてあなたが自分の意見を述べていて、話しかけている相手は反対の考えを持っているとしましょう。「このことについて私はこのように理解していました。ですがあなたの仰ったことを見てみると違った側面もあるようですね」という風にあなたが言えば相手の方もしばらくしてあなたに歩み寄り、あなたの意見のほうがより適当だと言ってくるかもしれません。そこであなたは相手の方に、公明正大であってくれたことに感謝の意で返すことができるでしょう。この点に関して、正しさを維持するためには(ある程度)自分のエゴや経験、知識といったものを退ける方法を知らなければなりません。別の言い方をするなら、妥当なものが妥当に受け入れられることを期待するのなら、他者のそれほど妥当的でない考えでさえも彼らの考える妥当性の中で評価してあげるべきであり、好意的な態度を示すべきであり、人々が真実に対して友好的となれるような誠実な雰囲気を醸し出すようにしなければなりません。
当事者を標的とすることなく一般的に述べる
分野のいかんに関わらず、他者の考えに敬意を示さず価値がないと却下してしまう人々は、気づかぬうちに多くの価値ある物事を台無しにしてしまうのだということを歴史が証言しています。ゆえに、我々の目の前にある要素がどういった性質のものであれ、すべてに対してある一定の敬意を持って接するという原則に従うべきです。対面する人々が我々の提示する真実を受け入れるようになるにはこの方法が非常に適しています。提案した企画がどれほど優れていようと、頭ごなしに投げつけられた発言が受け入れられるはずがありません。批判は丁重な伝え方でなされなければ、たとえ批判の対象となる事柄が明白かつ確立された宗教の教えに矛盾し明らかに間違いであったとしても、否定的に取られることに疑いはありません。例えばあなたは友人が何か見てはいけないものを注視しているところを目撃したとしましょう。突然、面と向かって直接的にその恥ずべき過ちのことに言及しとがめようものなら、その友人は言い訳して悪い考えを正当化しようとするかもしれません。アッラーがそうさせないよう祈りますが・・・。特に相手方に態度や振る舞いに関する批判を受け入れる用意がないのであれば、あなたがどんな指摘をしようとそれは反動的振る舞い、真実に対する無礼を引き起こすでしょうし、さらにはその方に自分自身の価値観に対して敵意を抱かせてしまうことすらあるかもしれません。そうした方々は言われていることが正しいと分かっていても、頭上にくらった強烈な一撃のごとき批判にさらされたトラウマのせいで、なんとかして別の議論を作り出して目の前にいる人物を打ち負かそうとするものです。そして自らに向けられた批判に対する最高の返答を考え続けるでしょう、夜ベッドに入ってからでさえも。
ですから物事は個々人を標的とするのではなく、間接的に言及する必要があります。実際、預言者様(彼に祝福と平安あれ)が誰かの間違いを目撃された際、その者を直接的に批判することはされませんでした。そうではなく、人々を集められ、その行いについて一般的に話すことによって、それを行った人物が教訓を得られるようにしたのでした。例えばある時、徴税の任務のためある地域に派遣した者が民衆から集めてきた税金を引き渡す際、「これはあなたのもので、こちらは私に贈られたものです」と言ったことがありました。これを聞いて預言者様はミンバル(説教壇)に上って人々に話しかけ、ある者をアッラーから委ねられた一つの任務に就けたこと、するとその者がやってきて、一部は国家のもので残りは自分に与えられた贈り物だと述べたことを話しました。預言者様はこの考えがとんでもない間違いであることを示すため、もし彼が両親の家で座っていたらその贈り物はあっただろうか、と問いかけたのでした[1]。
批判を誰が行うかも非常に重要です。誰かに何かが告げられる必要があるとき、「ぜひ自分が」と意気込んですべきではなく、その批判を受けることになる人が好きな誰かに任せたほうがよいのです。こうした状況では、好きな友人からであれば批判さえも褒め言葉として受け入れられるでしょう。あなたの批判が反発を招きそうであるなら誰か別の人に委ねるべきです。なぜなら大切なのは真実を伝えるのが誰かではなく、その真実が心の底から受け入れられることだからです。

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seytan ve araftakiler dbb
こわれた壷

自我、シャイターン、そして壁にまたがった者

質問:アッラーの印と啓示がもたらされたにも関わらずそれに背をそむけてシャイターンの影響下におかれ、結果として自我とシャイターンに従い道を踏み外す不幸な人物の一例がクルアーンの中で挙げられています(高壁章7:175を参照)。正しい道を歩もうとする間にも人をこうした深刻な逸脱に向かわせる原因はなんでしょうか?
答え:正しい道を行く上で他の道に逸れてしまう原因の筆頭にくるものが、この世が試練のために造られたこと、そして一瞬一瞬あらゆる試練にさらされているという事実を人が忘れてしまうことにあります。このことを忘れ、自我とシャイターン(悪魔)の策略に欺かれてしまうのです。そもそも人間は常に、自我の内部メカニズムと、いつ、どこから、どのように近づき新たな企みをしかけてくるか皆目見当がつかないシャイターンの双方に向き合っています。この二つの大敵はたいてい親しげな顔つきで我々に近づき、正しいものを誤りのように、醜いものを美しいかのように、また間違った道を正しいかのように見せかけて、我々を誤った方向へと導こうとします。ですから人は自我とシャイターンのこうした囁きに対して油断しないようにしなければなりません。そうしないと一瞬の不注意がもとで、打開するのが困難、もしくは場合によっては不可能な思い込みにつながる可能性があるのです。
我々の自我と物性に対する魅力という点において、この世の誘惑は無慈悲な詐欺師であるシャイターンが利用する錯覚のための手段だと考えることができます。シャイターンは全く予測もしないような瞬間、ある種のものを意表をつくほど魅惑的に見せかけるのです。しかしクルアーンに述べられているように、こうした一見したところ心地よいものは悲惨な結果をもたらす可能性があります。「自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる」(雌牛章2:216)。別の言い方をすれば、初め喜んで食べていた毒のある蜂蜜が程なくあなたの胃をひどく悩ませることになるようなものです。同様に、外見上は苦しくて厄介に見えてもその困難に耐えることによって無上の喜びに飛び立つことのできるようなある種の事柄にぶつかることもあります。例えばシャイターンはあなたの家の前にある川を深くて邪悪な激流のように装わせようとします。ここであなたが理に適った判断力にのっとって常識的に純粋な心で判断し、結果としてその物事についての洞察を得て足を踏み入れるなら、あなたが恐れていた川の水深は足首にさえ及ばないことに気づくだけでなく、あなたを浄化し清らかにしてくれさえするでしょう。シャイターンは錯覚によってあなたを否定的な方向に仕向けようとするように、一方ではプラスの錯覚であなたを良い行いから引き離そうともします。クルアーンで述べられているように、シャイターンは惑わせ粉飾する者であり、醜い罪を魅力的に装わせるのです。
監視者
人類の大敵であるシャイターンは、我々が弱点をさらす瞬間を虎視眈々と狙いながら攻撃する最適なタイミングを計っています。彼は色欲や恐れ、安楽さ、地位への執着、利益の追求といった弱点に付け込み、機会を見つけては人を転落させます。
クルアーンではシャイターンの人類に対する怨恨が次のように述べられています。「悪魔は答えた。『あなたがわたしを惑わされたので、わたしはあなたの正しい道の上で、人々を待ち伏せるであろう。そしてわたしは、かれらを前から、後ろから、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、(御慈悲に対し)感謝しないことが御分かりになるでしょう』」(高壁章7:16,17)。他の節でもこの制圧不可能な敵について言及されています。「かれは申し上げた。『それでは、あなたの御威光にかけて誓います。わたしはかれら(人間)凡ての者を誘惑します』」(サード章38:82)。クルアーンに書かれているこれらやその他の節を考慮すれば、人々が誤った方向に導かれること、逸脱すること、アッラーに対し反抗すること、また無頓着に気ままにしていることなどの裏には、シャイターンからの刺激や囁きが潜んでいると言うことができるでしょう。
持っているもので満足する者は欺かれた者である
こうした容赦ない敵に直面して我々がなすべきことはその辺に佇むことではなく、確固たる姿勢をとり、信じている価値観を論理的思考や判断力、そしてクルアーンとスンナに確立された原則に照らし合わせることであるのに疑いはありません。つまり「信仰して主に縋る者に対しては、(悪魔)はどんな権威も持たない」(蜂蜜章16:99)という節の吉報を獲得するために、信仰とタワックル(アッラーへの信頼)を堅固なものとし、アッラーに庇護を求める必要があるのです。育った環境の中で培ったものに満足し、熟考や探求によって信仰を深めたり信じている価値観を自分のものとすることをしない人々はシャイターンやその罠から救われることができません。
壁にまたがっている人の状況
質問で言及されているように、クルアーンでは信仰やアッラーの命令に従うことに関して明白な立場を取っていない人の例が挙げられています。「(ムハンマドよ)われが下した印を授かりながら、それを脱ぎ捨て、それで悪魔が憑いて、邪道に導く者の仲間となった者の話をかれらに告げなさい」(高壁章7:175)。

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人生の指針

他者を優先する精神

人それぞれの努力は、その価値によって決まる。自分のことのみを考える人は人ではないか、何かが不足した存在である。人間性へと至る道は、他者を思うあまり自分を忘れてしまうというところを通過する。
人は、自らの恥に対しては検察官のように、他者の欠点に対しては弁護士のようにあるべきである。
成熟した人、そして真の親友とは、地獄からの出で、そして天国への入りですら、「どうぞ。」と言うことができる人である。
真に人である人とは、どのような条件であろうと、自分の桶に乳を搾りいれる時、他の人の桶をもからのまま放ってはおかない人である。
あなたは種を蒔いて、去りなさい。誰が収穫しても、それでよいのだ。

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asude mekanlar ve okuma programlari 231
こわれた壷

一時的に静かな場所に引きこもることと読書プログラム

質問:慌ただしい日常生活に息が詰まりそうな現代の人々は、逃避することのできる静かな片隅、安らかな安息の地の必要性を感じています。信仰する魂は心と精神のリフレッシュを得るために時折穏やかな場所に引きこもるのを好みます。こうした引きこもりを最大限活用するためのアドバイスをお願いします。
答え:誰であれ、社会の中で果たすべきある種の責任を負っています。信者の願いがもし、社会の役に立ち、話しかける相手をある種の崇高な地平に導き、人々に己に備わっている価値を心から感じてほしいという気持ちあれば、人々の中に交じって生活すべきです。アッラーと最後の審判を堅固に信じる人はその社会の人々の中で生き、真実と公正さのコンパスとなるべきです。人類の誉れであられる預言者ムハンマドは、社会の中で生活し、他人からもたらされる問題に耐えるムスリムは、そうしない者よりも優れていると述べています[1]。すなわち、恒久的な引きこもりは社会で果たすべき責任から逃避していることを意味するのです。このことから、個人的な精神的発展のためとは言えこうした責任から逃げ出してしまう人は罪を犯すことになると言えます。イスラームで大切なのは他の人に囲まれながらも全能のアッラーとの関係を保ち、努力して人類に奉仕することにあるからです。
しかしながら、崇高な理想のためにとはいうものの他の人々に交じっての生活では時に望ましくない状況に直面することも事実です。あたかも知らぬ間に泥の上を歩いていて裾に泥が跳ねかかってしまうかのように、です。無意識のうちに目や耳は社会の生活の中で汚染されているかもしれません。不適切な状況によって我々の精神世界は純粋さを侵されているかもしれないのです。
それゆえ、高い理想のために多くのマイナスの影響を耐え忍んでいる人々は、社会生活で被った汚染からの浄化が必要となります。(一定期間を静かな場所で過ごして心と精神性のリフレッシュを図る必要性があり、)澄んだ大気の中に退き、肺を新鮮な空気で満たして再充電する必要があるのです。私の考えでは、この目的のためになされる議論や読書の集いはすべて、一種の崇拝行為といえると思います。
しかし注意すべき点が一点あります。こうした静かな待避所に退くことはある種の問題や一定の出費を伴うものですが、これを行う人は一瞬も無駄にすることなく、この引きこもりを最大限活用すべきです。規律正しい読書プログラムを組織し、アッラーへのズィクルや賛美で活気づくべきなのです。集団の意識が合わさって、心からのズィクルや賛美が織り成すコーラス、シンフォニーは天地をも振動させ、天国の住人たちさえもこの集まりに参加したいと願うでしょう。
精神性に開かれた空気
何年も前に夏のプログラムが開催された際、友人たちが夜な夜な隅に下がっては朗唱したクルアーンやドゥアーに私は非常に感動させられました。同時に彼らは昼間には信仰の真実に関する本を毎日平均200~300ページも読み、様々な事柄に関して議論を重ねていました。加えてとても質素な環境で、例えばわらで編んだマットの上で睡眠をとっていました。食事は卑しいしもべであるこの私が作り、私が給仕しました。あるとき、ある大切なお客様がその雰囲気を目撃し、こうおっしゃりました。「ここは真の精神性を感じるには世界で最良の地である」と。彼は翌年も同じようにそのプログラムに参加してくれました。
同時にこの純粋な環境下で我々は、自らに向かい合い、アッラーのために奉仕するという意図のもとにそれまで行ってきた事柄について批判的に見ることがさらによく出来ていました。我々は自らの犯した過ちを見て、我々の立ち位置、そしてどこに立つべきかについて自己批判する必要があります。そして物性や動物的な側面に背を向け、心と精神の軌道に乗って旅する決意をし、霊性の方向へと向かって進むべく努力すべきです。この点について分かりやすくするために私の意見を述べさせてください。先に述べた夏に行われたプログラムの際、友人たちに、毎晩100ラカートの義務以上の礼拝を行うよう伝えようかと思いました。しかし非常に困難であるかもしれないと思い、それをためらっていました。しかしながら、偉大な聖人たちの生涯を見てみると、100ラカートの礼拝を毎晩、それも非常に若い頃から行っていたのです。これを鑑みるなら、それをできる人は可能なら毎晩100ラカートの礼拝を行うべきです。夜の神秘的かつ厳粛な静寂の時間を、アッラーの許しを懇願したり祈りやズィクルをしながら最善の方法で過ごすことで、その恩恵を得ることができるのは間違いないでしょう。
無関心の犠牲となる偉大な作品と、比較による読解の効果
こうした一時的な退避を活用するために、可能なら宗教的な本を一日300ページ読むことに取り組むべきです。この目標が達成されれば、15日間のプログラムに参加した人は合計4,500ページ読んだことになります。こうしたプログラムが1年に2回実施されるなら、イスラーム関連書籍により育まれるという観点から少なからぬ量の読書を行ったことになります。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

  • December 25, 2015
イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。 勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。 言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。 テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。 同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。 先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。 民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法 我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。 ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。 我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。 歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。 こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。 ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。
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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

  • September 7, 2015
テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する 自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。 暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。 まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。 次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。 我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。 三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。 四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。 五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。 最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。 テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。 暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。 ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。
tr haber 16281 pakistan deprem 87a

心の病

  • March 11, 2015
真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。
akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

  • March 11, 2015
世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。
dun irtica bugun camia 44f

恵み多い人生を生きる人たち

  • March 11, 2015
最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。
verslaafd aan gemakzucht eb1

泣く時・笑う時

  • March 10, 2015
年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。
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