思考の高潔さ

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思考の高潔さ

質問: 時々言及なさっている「思考の純粋さ」もしくは「思考の高潔さ」について説明してくださいますか?

答え: 思考と行動は我々にとって、真の存在に至る道筋を見せ、凄まじい嵐に直面しても我々自身でいるための力となり、前向きな意味での変化を促してくれる、最も重要な原動力です。一般的に思考は行動の前に来るものですが、複雑で細かい意味を伴うある種の思考は行動の過程において発展を見せます。人はまず最初にある事柄に意識を集中させ、それについて思考を巡らせ、正しく理解しようと努めるでしょう。しかしそれについてさらなる洞察を得たり、受容し、自らを適応させ、堅固な基礎のもとに打ち立てるには、その事柄を実生活での実践に移してからでないとできません。なぜなら考えたことを実行に移すことによって人は新たな局面に遭遇し、ひいてはその事柄についてより考えが深まって、結果的に当初の考えが確固たる基盤の上に落ち着くこととなるからです。よって一般的な文脈であれ、多くの詳細を伴う具体的な文脈であれ、あらゆる意図や思考に関して我々が追い求めるべき最も重要な要素は、「思考の純粋さ」となります。この点から我々は思考の純粋さに忠実であるべきであり、我々自身の性格に必要な一部とすべきであり、そして大きな困難をものともせずに保護する必要があるのです。

健全な思考は健全な振る舞いを生み出す

一部の人々が我々に対して否定的な意見を持ったりそうした振る舞いを見せることもあるかもしれません。しかし他者が誤った振る舞いをしているからといって我々も似通った態度で返していいということでは決してありません。我々の本質的価値観という点について、我々の立ち位置がどこであろうとも、どのような困難が待ち受けていようとも、その土台となる価値観と強く結びついていなければならないのです。いったん、他者の態度や振る舞いによって我々の思考、感情がぐらつき始めてしまうと、心は揺らぎ続け、ゆくゆくは正しい道筋から外れてしまうことでしょう。我々がなすべきは、他者に我々の気を散らしたり忙しくさせたりすることを許さず-道を外させることも言うまでもありませんが-、我々の道、思考の方向性にとって挑発的な要素となりかねないあらゆる影響を排除するよう心がけることです。挑発行為の本当の目的は、何らかの目的を成し遂げることではく、崇高な理想に向かって献身する人々の邪魔をし、道を変えさせることにあるからです。

このことから、健全な思考の持ち主は、一貫性の無い、事実無根の主張に直面しても一切変わるべきではなく-もちろん、名誉毀損に対して己の評判を守るために不服を申し立て、異議を唱えて法に訴えたり、名誉毀損やその他の権利侵害で訴訟を起こして法的権利を行使することは例外となりますが-絶えず自らの純粋さ、潔白さを維持し続けるよう努力すべきです。そうです、我々は常に正当な考え方をしなければなりません。その土台の上に作り上げる行為が正しく健全となるために。暴風が吹くたびに自らも吹いた方向に飛ばされていたら、進路を誤り、小道に入り込んで彷徨うことになりかねません。

前向きに考える人は人生に歓びを見出す

預言者様(彼に祝福と平安あれ)はある時、信者にとって沈黙は熟考(タファックル)であり、話すことは英知であるべきだと仰いました[1]。この光り輝く叙述をよく考えるなら、良いことを考え、想像し、それに向かって頑張ることは信者にとってのイバーダ(崇拝行為)となります。実現が困難に思われるような事柄を考えてばかりいることも、普通ならエネルギーの無駄遣いとなるところですが、「この世界の色や模様をもっと美しく、もっと鮮やかに変えることができたなら」といった考え、熟考を持つのであれば、そうした夢や想像もイバーダの色合いを帯びるようになってくるのではないかと私は思います。であれば信者がすべきことは、自らをそうした美しい考えに向かわせ、その考えに沿った人生を送ることです。ベディウッザマン師もその著書「手紙」の最後のほうで「物事の良い側面を見る者は良いことを考える。良いことを考える者は人生に歓びを見出す」と仰っています。つまり、人生を心地よいメロディーに変え、天国の通路を歩いているかのような人生を歩むことは、良い考え方をすることと関わりがあるのです。

しかしながら人は肯定的な考え方をしないのであれば、その思考力によって享楽主義や自由奔放主義といった否定的な方向へも行く可能性があります。さらには善へと向かっていないことを想像したり概念として持つこともマイナス思考をもたらすことがあり得ます。ですから信者は信仰する価値観に根ざした感情や考えで頭をいっぱいにし、満ち満ちて、常に読んだり考えたりしながら人生にちょっとした隙間も与えず、絶えずそうした必要不可欠な源から栄養を吸収するべきです。同時に、良心からビザの下りないような感情や思考に対して常に閉ざされているよう、意志の力を正当に行使しなければなりません。こうしたあらゆる努力にも関わらずマイナスの風に傾いてしまうのであれば、預言者様がアドバイスされているように、直ちにその雰囲気から抜け出すよう努めるべきです。そうでなければ、思考の純粋さを駄目にするような夢に向かって船出する人は沖に出すぎて(安全という)岸に戻る機会を失ってしまうことがあるからです。それゆえ、わだかまり、嫌悪、復讐心、欲望といった感情をコントロールしないと、障壁を叩き壊して自らを間違った決断へと運び、悪い行いをさせるようになりかねないのです。

人は意志の力を正しく使いつつ、アッラーのご加護を求めなければなりません。これに成功すれば人はアッラーのご加護という温室の中で人生を送ることができるでしょう。しかしここでも忘れてはいけませんが、どれほど高潔な人々であろうと転落する可能性はあり、だからこそ我々は警戒を怠るべきではありません。つまづいてバランスを失ったなら、主に向き直って我々の祖である預言者アーダムのように切に祈らなければなりません。「主よ、わたしたちは誤ちを犯しました。もしあなたの御赦しと慈悲を御受け出来ないならば、わたしたちは必ず失敗者の仲間になってしまいます」(高壁章7:23)。そして背筋を真っ直ぐ伸ばし、再びかれに向き直るべきです。

見解を装った欲望と気まぐれ

思考の高潔さということに関して注意しなければいけない事柄の一つが、欲望や気まぐれが見解のふりをして人を誤らせる可能性があるということです。欲望や気まぐれを真の見解と見分ける基準は宗教的な基準です。例えば誰かの言葉や態度で嫌な思いをさせられ、腹を立てたとして、あなたはまず、真理に反していることがあるかどうかを見なければなりません。もしそうしたことがないのであれば、あなたは自らの自我において怒っていることとなり、その立腹の反応は個人的な欲望や気まぐれから発生していることとなります。害に直面した際に用いるべき基準はクルアーンでこのように表されています。「善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え」(フッスィラ章41:34)。これに従えば、誰かがあなたに害をなしたとしたら相手に対する第一の反応は、相手の強い嫌悪感や悪意を和らげることを意図した笑顔を返すことだといえます。しかし問題となっている害が神聖な価値観や公共の利益に直接関わるものであるなら、我々には個人としてこの行為を許す権利はありません。人が許し寛容さを見せられるのはただ個人的な権利を侵害された場合のみです。アッラーはかれの権利が侵害されたときに代わりに赦すことのできる権利を誰にも与えてはおられません。明らかにアッラーの権利に対する冒涜であるそのような主張を誰も持ち出すことはできません。

話を元に戻しますと、根拠もない欲望や気まぐれは時に、シャイターンや我々の自我と共謀し、考えのように見せかけて人々を迷わせようとすることがあります。そして結果として人は何かしらの過ちを犯すことがあり得ます。ある種の討論番組で出演者が互いに相手を出し抜こうとする様子にそれをはっきり見て取ることができるでしょう。論争に固定されたかのように、それが正しいか正しくないかには構わず、ただただ相手方の言ったことに反論しようとしています。討論参加者の1人が「アッラーのお許しのものと、天国に続く道をお見せしましょう」と言ったとしましょう。突如として奇跡的に天国への門が目の前に大きく開かれ、想像を絶する素晴らしい恵みが目の前に広がったとしても、彼はなおも「いやいや、我々は天国に入りたくはない。我々はここで勝とうとしているのに、あなた方は我々を止め、怠惰に追い込もうとしているのだ」と言うでしょう。つまりこういう人は、この上なく妥当な言葉、考えに対してさえも扇動的な反応を示そうとするでしょう。こうした言葉は実際、欲望や気まぐれから生じ、シャイターンの影響のもとで発せられます。しかし人は、これらが自らの考えや着想から生じているのだと誤解してしまうのです。

時に、信者でさえもこうしたシャイターンと自我の罠にはまってしまうことがあります。こうした人に死が思い起こされると、家族と過ごす時間をもっと持ったりこの世の生活を楽しみたいという欲求を利他主義で覆い隠そうとして、「私はここにとどまってより多くの人々に真理を伝えなければならない」などと言うかもしれません。本当のところ、真摯な信者であればアッラーとの再会の願いに燃え、高貴な預言者様にお会いしたいという想いで溢れ、正しく導かれた四大カリフと同じテーブルにつきその雰囲気の仲間入りをしたいと願うものです。しかしその一方で、「アッラーよ、私はこの世できちんと勤めを果たすことができたかどうか分かりません。ですから事を急いであなたに無礼を働くことを恐れます」といって慎重な行動をとらなければなりません。ここで良心はとても重要な基準点となります。人は口から出た言葉を良心で裁き、どんな選択、決断であれ、その公正な助言を求めるべきです。これを実現することができれば、人は気まぐれと導き、また自我と常識を混同することから救われるでしょう。

[1] ダイラミー、アル=ムスナド、1/421

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ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

dun irtica bugun camia 44f

恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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