有意義な批判となるための要素

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有意義な批判となるための要素

質問:あらゆる事柄に関してより良いものを追求するための重要な手段となる、発展的な批判を行うにあたって、それがより効果的かつ有意義なものとなるために注意すべき点はなんですか?批判する者、される者の双方が守るべき重要な点はなんでしょうか?

答え:ある発言や振る舞いを批評し、その長所・短所を明らかにし、実際の状態と望ましい形の比較を行うことを意味する批判は、理想に向かっての向上を促進する上で欠かせない学問的要素の一つです。このことから批評はイスラーム初期の世代から用いられてきました。例えばハディースの方法論として、ある伝承について、その本文と伝承者の鎖の信頼性に関しては批判的なアプローチによって見極めがなされたものでした。実に批評は、アッラーの命令に由来する正しい意味を探し当てたりそれを正確に解釈するといった事柄にあたって真実を明るみに出す目的で、当初からイスラームにおける学問の方法論としてしかるべき地位を占めていました。こうした学問の領域があったおかげで非常に信頼のおけるフィルターが形成され、イスラームと相容れない外からの思想の前に立ちはだかることとなったのです。「ムナーザラ」(考えを比較し議論すること)とよばれる領域も発達したおかげで、有益な議論の結果生み出された新しい解釈についても、批判にさらされ、既存の確立された基準と照らし合わせた上で、最終的に真実のきらめきが得られるものでした。

特に、ハディースの分野で伝承者の鎖の信頼性を問うことに関して相当量の文献の蓄積がなされました。莫大な量の書物が著され、ハディースと称される発言が本当に預言者様(彼に祝福と平安あれ)に帰属するかどうかを判断する材料とされたのです。しかし学者たちは、こうした重要な事柄を判断し評価する際にも、行き過ぎた見解を出さないよう細心の注意を払っていたものでした。例えば、批評(ナクド)の題目を初めて体系化した古典期の重要な学者であるシュウバ・イブン・ハッジャージュの、伝承者を厳しく批評することに関してある興味深い発言があります。仲間の学者に向かって彼は「さあ、アッラーの道でちょっと中傷しようじゃないか」と言ったそうです。かくして彼は、この重要な任務を行う必要性と、その作業がただアッラーのためだけになされなければならないことの両方に注意を引き付けているのです。

批評・批判の手法は特にイスラーム暦における最初の5世紀の間、最も適切なものに到達するという目的で、宗教・実証的科学の両分野においてよく用いられていました。ですから我々の時代でも、公正さ、尊敬の念、配慮というものが保たれるのであれば、この学問的手法を同様に採用することできるでしょう。この点に関して、批判の礼節とやり方について手短に見てみましょう。

公正な態度と柔らかな方法を用いる

批判の対象となる事柄は理に適ったやり方で提示され、それについて述べるときは最大限の配慮を払い丁重なやり方で行うべきです。つまり、批判は否定的な反応を引き起こさせるのではなく、気楽に喜んで迎えられるようにすべきです。ある種の事柄を解決するために自らの代替案や妥当なアプローチを示す際、感じよく丁寧な物腰でそれを行えば、敬意を示されるでしょう。例えば、あるテーマについてあなたが自分の意見を述べていて、話しかけている相手は反対の考えを持っているとしましょう。「このことについて私はこのように理解していました。ですがあなたの仰ったことを見てみると違った側面もあるようですね」という風にあなたが言えば相手の方もしばらくしてあなたに歩み寄り、あなたの意見のほうがより適当だと言ってくるかもしれません。そこであなたは相手の方に、公明正大であってくれたことに感謝の意で返すことができるでしょう。この点に関して、正しさを維持するためには(ある程度)自分のエゴや経験、知識といったものを退ける方法を知らなければなりません。別の言い方をするなら、妥当なものが妥当に受け入れられることを期待するのなら、他者のそれほど妥当的でない考えでさえも彼らの考える妥当性の中で評価してあげるべきであり、好意的な態度を示すべきであり、人々が真実に対して友好的となれるような誠実な雰囲気を醸し出すようにしなければなりません。

当事者を標的とすることなく一般的に述べる

分野のいかんに関わらず、他者の考えに敬意を示さず価値がないと却下してしまう人々は、気づかぬうちに多くの価値ある物事を台無しにしてしまうのだということを歴史が証言しています。ゆえに、我々の目の前にある要素がどういった性質のものであれ、すべてに対してある一定の敬意を持って接するという原則に従うべきです。対面する人々が我々の提示する真実を受け入れるようになるにはこの方法が非常に適しています。提案した企画がどれほど優れていようと、頭ごなしに投げつけられた発言が受け入れられるはずがありません。批判は丁重な伝え方でなされなければ、たとえ批判の対象となる事柄が明白かつ確立された宗教の教えに矛盾し明らかに間違いであったとしても、否定的に取られることに疑いはありません。例えばあなたは友人が何か見てはいけないものを注視しているところを目撃したとしましょう。突然、面と向かって直接的にその恥ずべき過ちのことに言及しとがめようものなら、その友人は言い訳して悪い考えを正当化しようとするかもしれません。アッラーがそうさせないよう祈りますが・・・。特に相手方に態度や振る舞いに関する批判を受け入れる用意がないのであれば、あなたがどんな指摘をしようとそれは反動的振る舞い、真実に対する無礼を引き起こすでしょうし、さらにはその方に自分自身の価値観に対して敵意を抱かせてしまうことすらあるかもしれません。そうした方々は言われていることが正しいと分かっていても、頭上にくらった強烈な一撃のごとき批判にさらされたトラウマのせいで、なんとかして別の議論を作り出して目の前にいる人物を打ち負かそうとするものです。そして自らに向けられた批判に対する最高の返答を考え続けるでしょう、夜ベッドに入ってからでさえも。

ですから物事は個々人を標的とするのではなく、間接的に言及する必要があります。実際、預言者様(彼に祝福と平安あれ)が誰かの間違いを目撃された際、その者を直接的に批判することはされませんでした。そうではなく、人々を集められ、その行いについて一般的に話すことによって、それを行った人物が教訓を得られるようにしたのでした。例えばある時、徴税の任務のためある地域に派遣した者が民衆から集めてきた税金を引き渡す際、「これはあなたのもので、こちらは私に贈られたものです」と言ったことがありました。これを聞いて預言者様はミンバル(説教壇)に上って人々に話しかけ、ある者をアッラーから委ねられた一つの任務に就けたこと、するとその者がやってきて、一部は国家のもので残りは自分に与えられた贈り物だと述べたことを話しました。預言者様はこの考えがとんでもない間違いであることを示すため、もし彼が両親の家で座っていたらその贈り物はあっただろうか、と問いかけたのでした[1]

批判を誰が行うかも非常に重要です。誰かに何かが告げられる必要があるとき、「ぜひ自分が」と意気込んですべきではなく、その批判を受けることになる人が好きな誰かに任せたほうがよいのです。こうした状況では、好きな友人からであれば批判さえも褒め言葉として受け入れられるでしょう。あなたの批判が反発を招きそうであるなら誰か別の人に委ねるべきです。なぜなら大切なのは真実を伝えるのが誰かではなく、その真実が心の底から受け入れられることだからです。

この点に関しては、預言者様(彼に祝福と平安あれ)の二人のお孫さんにまつわるある寓話を説明するのが役立つかもしれません。ハサン様とフセイン様に関するこの寓話は信頼できるハディースが出典となっているわけではありませんが、重要な教訓が含まれています。それによると、ある時二人の少年はウドゥー(小浄)をしに訪れた場所で、バシャバシャとあちこちに水を跳ね上げているにも関わらずウドゥーが有効となるのに必要なやり方できちんと手足を洗っていない人を見かけます。この深い洞察力を持つ二人の才能溢れる若者は、その人に恥をかかせることなくやり方を示すことのできる方法を考えます。この意図を持った上で、二人はその人に、どちらが正しくウドゥーを行っているか見て欲しいと頼みます。そして父親のアリー様(彼にアッラーのご満悦あれ)から習ったとおりにウドゥーを行います。やり終えると、二人はどちらがより優れていたかと尋ねます。するとその人は恥をかかされることなく楽な気持ちで静かに、二人ともとても素晴らしく行っていた、そして自分は間違っていたと答えます。ですから、過ちを正し正しいことを示すのに我々が用いるべきやり方が、受け入れられるという点において非常に重要であることを繰り返し申し上げたいと思います。

批判を受け入れられるよう個人を教育する

加えて、人々が批判を受け入れられるようにすること、そしてそれに敬意を示す高潔な感情を引き起こさせることは、このテーマのまた別の側面を成しています。高潔さの点で理想の域に達していた教友たちは、どんな過ちでも否定的な反応を全く起こすことなく互いに気軽に警告しあうことができていました。例えばカリフのウマル様(彼にアッラーのご満悦あれ)はある時フトバ(説教)を行う際、結婚をたやすくするためにできる方策の一部に言及し、マハル(婚資金)は支払い可能な額に抑える必要があること、そして高額を要求しないようにとくぎを刺しました。この忠告はマハルが乱用される可能性を防ぐための合理的な解決法でした。今日でも、この問題に見られる思いやりある態度は社会的問題の解決において重要な機能を果たすことは間違いありません。ウマル様がこのことに注意を引いたとき、ある老婆が声をあげ、彼に尋ねました。「ウマル様よ、この件について私たちが知らなくてあなたがご存知のクルアーンの節かハディースはありますか?クルアーンでは『あなたがたが一人の妻の代りに、他と替えようとする時は、仮令かの女に(如何に)巨額を与えていても、その中から何も取り戻してはならない』(婦人章 4:20)と書かれ、マハルの額に制限を設けてはいませんが」。当時の超大国2カ国を従わせた偉大な国家を統治するカリフであったにも関わらず、ウマル様は「ウマルよ!お前は老婆ほども己の宗教を知らないのか」と自分自身に向かって大声で仰いました[2]。ここまでの正義感を備えていたことでウマル様は「アル=ワッカーフ インダ=ル=ハック」(真実に直面して立ち止まる者)と呼ばれました。つまり、道理に適った議論に直面すると、下り坂を移動中に突然停止する車のように立ち止まることを知っている人物でした。この感情を人々に生じさせることが必要です。このことから我々はある特定の友人と取り決めをして、自分自身の態度や振る舞いの中に何か過ちが生じていたらそれを気楽に批判する権限を与える、ということをするべきです。

結論ですが、批判をしようと思う人、というよりはある事柄を正そうと思う人は、まず最初にその問題をよく理解して正しいやり方で意見を伝えるために真剣に努力しなければなりません。次に、相手の感情を考慮し、その人がこれから伝えられる事柄を受け入れる準備ができているかを推測しなければなりません。もし否定的な反応が予測されるのであれば、「この真実を伝えるのは私でなければ」という考えは捨て、その発言がより影響を与えることのできる他の誰かに批判を委ねましょう。傲慢さがあまりにも蔓延し人々がちょっとした批判でさえも容認することができない我々の時代の状況を考慮に入れると、この原則はさらに重要性を帯びてくると思われます。批判を受ける側の人々について言えば、正義感を最優先させ、批判に対しては否定的に反応するよりは感謝の気持ちで応じるようにすべきです。ベディウッザマン師はこうアドバイスされています:背中にサソリがいることを教えてくれる人(つまり、我々の過ちを警告してくれる人)がいたら、ただ感謝の気持ちで応えるべきである、これも成熟さの現れの一つなのだ、と。

[1] サヒーフ・ブハーリー、誓約、3
[2] アル=バイハキー、スナン・アル=クブラー、7/233

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ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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