まわりを見渡してみよう。

いたるところで「明白なるイスラームのディーン」に対する攻撃がある。これに対し胸に刀が刺されたように傷の痛みを感じない者たち、さらに死にそうに感じない者たちはその教え ( ディーン)を心に引きつけて捉えなおさなければならない。「アッラーが機会を御与えにならなかった」と言いながら、脇に退く者や、悲しみ悩む事もなく気軽な生活を続ける者たちに尋ねてみたい。そのようなことばで、貴方はアッラーに対する信頼を言い表そうとしているのだろうか?それに対し否と私は答える。真理の主が恵みを与え給う人々はこのようには言わない。彼のために今まで何をしてきたのだろうか?真夜中に何滴の涙を流しながら、サッジャーダ(礼拝用の敷物)の上で時を過ごしただろうか?「明白なるイスラームのディーン」のためにどれほどうめき苦しんだだろうか?何度、真から心が張り裂けそうになっただろうか?

アッラーは、尽きることのない英知を、必要としている者には、彼自身の存在を否定する者たちにさえ、その可能性を与え給う。豊かさと裕福さの中で生活しつづける者達(になること)を望むこともできる。彼らを羨ましく思い、「私達にも御与え下さい」と言うことは、アッラーに対し、そして私達が導かれた教え(ディーン)に対し、そして教えの考え方に対し不敬であるといえる。自分自身を振り返ってみよう。そして私達は彼に相応しい、彼の御恵み恩恵に相応しいしもべになろうと努めよう。

さらに私達がしっかりしていないのに、国際間の均衡やら、それらの統治に関係する者であるか否かなどを語ることができるだろうか?生半可のムスリムさでは、(到着地点は見えて来ず)どこにも至ることはできない。中途半端のムスリムさではなかっただろうか、オスマン帝国を崩壊に追いやったのは・・・真実を愛するムスリムでなければならない。アッラーから善きことを望む前に、それら善きことに相応しい人間にならなければならない。「アッラーフンマ アフスィン アキーバタナー フィー ウムーリー クッリハー : アッラーよ、すべての行いにおいて、結果を善きものと為し給え。」

私は私達が誠実であるとは思えない。いたるところで、偽善が見られる。私達の行動はすべて見せかけだらけだ。自我が欲する数多くの空白が心の中に見出せる。私達は限りなく弱い存在だ。だが悔悟の扉はラッパが吹かれるその時まで開かれている。アッラーが赦し給わぬことはない。

そうであるなら、私達は状態を立て直し、悪しきことに対し自責の念を感じながら、もう一度、悔悟し、アッラーに許しを請い、私たちを正しく方向付けよう。自分自身がどのような状況下であっても、方向付けたように生きるために、何をためらう事があろう?

どうして敵対心という窓から、他の人の顔を眺めているのだろう?仲たがいの徴を心の中に潜ませているのだろうか?

今まで語った言葉は、私の自我の欲するままに述べたものではない。わたしは自我の欲するところにより、諌める事はしない。が、真のイーマーンに対しての無関心さを消化できない。イーマーンを深めるというような思いがなぜ生まれてこないのだろう?なぜ手の中にある宝のような作品から遠のいているのだろう。なぜそれらを読む時見知らぬ者のように口ごもるのだろうか。なぜ崇拝行為を為す時、迂闊さが生じるのだろうか。なぜ読み、考え、想念するとき、強制労働のように受け入れるのだろうか。なぜ行為に見せかけが生じるのだろうか。なぜ私たちの心は覆い隠され真っ暗なのだろうか。なぜ?なぜ?私はこれらの問いに答えを見出せないでいる。

これらの悩みが私を忙しくさせている。みんなのほとんどは私をよくご存知だろうが、私は少々物事を深く感じてしまうのかもしれない。実際、私の顔を叩かれなくても、ある者の見せかけの行いが、私を悲しませ、まるで叩かれたみたいに私は痛みを感じる。

たとえば誰かが理由もなく声を高くして礼拝したり、タスビーフ(アッラーへの称讃)をしているとしよう。(声を大きくするのに気を取られて)実は、彼は声の中に心が込められていないのだ。それが行為を台無しにしていることにも気がつかない。あなたがたも(真実を)言えない。語るのは意識的でも、感じることや分かることというのは無意識的なものだ。(そのように)私にも起こる事が起きている。

人まね、必要以上の強い望み、ねたみ、疎外感、アッラーのお望みにならない感情、小さなことでも罪のある言葉を口にすること、行動の品位を考えないこと、不真面目さ、あつかましい態度などが気がかりの点であり、キズはこれらすべてといえる。目に見える傷ならば時とともに回復するが、目に見えないものなら?心の中の傷は?これらはそう簡単には治らないもので、大変難しい外科手術が必要となる。師が「私たちの中身と外見をひっくり返すとすれば、聖アイユーブ( a.s )よりもより悩み多き者であることを知るであろう。」とおっしゃられた(が、まさにそのとおり)。

罪を容易に捉える者たちがある。彼らは凝り固まっている性質の上に役立たずのようにあぐらをかく。ある者は金銭に弱く、ある者たちは飲食のようにごく日常的なことに対して弱く、ある者たちは違った種類の自我の欲望を持つ。又さらに言えば、アッラーが非合法となし給うものに「ああ、合法であればよかったのに」と言うものもあり、「不信仰の囲い(制限)がなければよかったのに」という者も出てくる。

本来なら人間は自分自身をある形で見出すというか見出すべきだ。預言者(彼の上に平安あれ)や高貴なる教友達や、彼らを模範として見習う者たちと見比べて、空白を見出せるだろう。その反対に、この弱さ、空白に気づかず本性丸出しの状態にもなり得る。これは心に封印をする原因となり得る。悪魔の状態はこのようである。悪魔は真実と真理を知らないわけでない。預言者(彼の上に平安あれ)についての知識は持っている。「貴方の偉大さに誓って貴方は勝利者であられます。」と悪魔は言う。彼の偉大さに誓っている。だが、クルアーンに反対しアッラーの命に背いた。光明の傍ら暗黒の世界で自分自身を守ろうとする。悪魔はこのように振舞おうとする。なぜならそのような振る舞いが本性となってしまった。その悲惨な状態で彼自身を保っており、そこから離れる事ができない。完全に鍵をかけてしまっている。人間もこのようである。ある者に閉じ込められるとそれに反して最も柔軟なものに対してさえ反発する。さよう、悪魔も、不信仰の中に閉じ込められてしまい、罪を犯す事が本性となってしまった。

さよう、アッラーは私たちの中身を外見のように、外見を中身のように知り給う。そのためこの弱さと空白が本性となる前に自らを教育しなければならない。時には悪魔は右から近づく事もあり、それを赦してはならない。人間は明らかな事、たとえば礼拝のような明白な崇拝行為の原因を知らずに、それから喜びを感じる、しかしこれはもしかしたら試験(試練)かもしれない。感じたその特別な感覚が人間の自我への信頼を増す原因となる事もある。そう言う意味でこれは試練でもあり、欺きでもあり得る。このように今までも多くの人々が騙され足を踏み外してしまった。

不信仰における欺きとはこのようである。考えてみよう。ダッジャール(終末に現れるとされる偽救世主)が人間に影響を与える力のような心を捉える得体の知れない力が存在する。まわりの雰囲気に身を任せる者たちはこれを増大させ、しばらくすると望んでもその世界から出られなくなる。清らかな力を持つ事によって、ここから救われるように・・・だが、人間は自分自身が清らかで欺かれないと思ってはならない。いろいろな物に惑わされずただアッラーに身をお任せしよう。お任せし、そしてアッラーに対し誠実であろう。人間は心から誠実さという性質で満たされなければ、又しもべの中に他の何かが混同しているとしたら、その時は人間の持っている善きことでも、実は見せかけであり偽善の中で埋没していくことになる。

生半可な見せかけのイーマーンが存在する。それは(ムスリムには)相応しくなく、身につけた衣服(イスラーム)の役割を果たさないので、アッラーはその者からイーマーンを取り去り給う。

善きものに対してだけではなく、悪い事柄に対してもこのように感じたことを言い表せない場合もある。突然、何の理由もなく人間は心に悪が生まれる。貴方がたの見たものが貴方がたを危い方向へ追いやり、貴方がたの足を踏みはずさせてしまう。人間を岸壁に追い詰め、ついに後戻りができないような岸に至らせる。その為に預言者(彼の上に平安あれ)は「あなたを悪に呼ぶ者に出会ったとき、気をつけてお待ちなさい。そしてアッラーに悔悟し、アッラーに戻りなさい。」とおっしゃられる。心理学においても同様に、心理学者たちは悪に出会ったときは状態や環境を変えることにより悪から守られると述べている。

さよう、「わたしは反抗と言う大海に帆を上げてしまったようだ、私はもう海辺には戻られない。」と言われるように、反抗の大海に帆を揚げる者達は皆このように始まる。始め帆の角度が小さくて気がつかない。足の指先で立つのも難しい状態だ。が次第に足の裏までつける広さができそして1歩入るような幅ができ・・・と言っているうちに、みるみる思いもかけないほど大きな角になり、さて留まろうと思うときにはもう遅い、遠い遠いところまで来てしまい戻る事も望んでも戻れなくなってしまう。これよりもっと危険なのはこのように最初は意識していても、ある時から何が起きているのかを気にかけなくなってしまうことだ。

不法なことが自分自身をどこへ引きずりこむかを知ることができなくなる。そのため目をそらし、耳に綿をつめこみ、口を閉じることが必要なことについて気にかけない。たとえば自我の感情の赴くがままに話したり話させたりすることやアッラーの怒り給うことに目を開く時、悪賢いメロディーがいっぱいの耳で色々なことを聞いた時など・・・

アッラーよ、私たち皆に限り無い御許しと深い深い御赦しと完全なる慈悲を恵み給え。礼拝、祈り、断食において小さな罪を軽視する者たちに知恵と思考力と情け深さを与えたまえ。「小さな罪と言い張ると大きな罪となる。悔悟の時大きな罪は赦される。」という真の意味は大きな罪といわれているのは実は小さな罪であるということであろう。というのは、大きな罪はそれが重大であると知られている点において大きいとは言えない。罪の重さを知るなら、悔悟に急ぎアッラーに赦しをこい、その情況から救われる。だが、小さな罪とは知らずに又は知ってはいても重視しなければ、「もう1つ、もう1つそしてこれは最後のひとつ」と言いながらやめようとしない。これが悪魔の戦略なのである。罪人を美しく見せ、自我を欺く。ユ-スフ章で「(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。」(12章53節)と明示されているように、人間は罪を飾る。催眠をかけられ人間の目を束縛する。しかし、一方、人間とはこのような些細なことに犠牲になるほど下等な創造物でもない。人間は最も美しく良い形で造られた。世界に十分通用する良い特質を持っている。だから、これら小さな出来事で沈没してはいけない。目指す目的はアッラーのみでなければならない。またはこのようにも申し上げられる。人間は生まれながらに自我の欲望を持つが、合法なよろこびや楽しみで満足させ、その(合法の)外に出ないよう努めなければならない。歯を食いしばり、唇をかみしめ、「ラー ハウラ・・・(アッラーによるほか完璧に物事をおこなう力はありません、の意のドゥアー)」を唱えなければならない。

決して「私は大丈夫、沈没しない。」と言わぬように、悪を命じる自我は(貴方を踏みつぶす)残酷な車輪である。偉大な人々を跪かせてきたのだ。預言者ユースフ(彼に平安あれ)のような預言者でさえ「(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。(12章53節)」と伝えているが、この節で、それ(自我)が信頼できないことを私達に知らせているのではなかろうか?

ある神の友がこのようなお話をなさっている。「二人の兄弟がいたそうだ。一人は町で、もう一人は山の畑の中に住んでいる。町で住んでいる兄(または弟)は正直さ、清らかさ、耳、目、口、舌・・・を罪から守っている。彼は町で生活しているときでも、自らを神聖な仕事(イスラームへの奉仕)に身を捧げているため、アッラーが彼を御守り下さっている。またはイスラームに殉じ、自己中心さを消し去り、「この振る舞いは私にはふさわしくない」と言いながら自分を守っている。この家の入り口の前に、水入れの皮袋がつる下げられている。中には水が溢れるほど入っているのに不思議にも一滴も垂れていない。山の中に独りで住み、いつもアッラーと固く結ばれていたもう一方の兄弟が、ある日、町を訪れた。彼も水入れの皮袋を持っていた。山にいるときに全く水はこぼれなかった。町にやって来ると、彼の兄弟の皮袋のとなりに、自分のもつるしたそうだ。すると、何分か後に水が垂れ始めた。おみごと、町に住む者よ、町で、つまり危険な場所で、自分自身を見失わずにアッラーとの結びつきを忠実に保ち続けさせるとは、なんと見事な手腕であることよ。

さよう、限られた環境の中で、罪から遠く、世捨て人の生活をし、ただ崇拝行為に忙しくするときでさえ、人の口に悪魔がくつわをはめるのなら・・・罪が耳の穴から、目の裂け目から道を探して入りこむのなら・・・自我が彼自身を毎日違ったガイヤ(地獄にあるとみなされている井戸の名)にひきずりこむなら・・・そのような危険な状態で人は立ち続けることはできず、転がり落ちてしまうことだろう。

しかし、このように諌める権利が私にあるだろうか?又、あなたがたが妥当と認めてくださるかどうか私には分からない。が、私の無作法にもかかわらず、打ち明ける必要があることを皆さんは認めてくださるかもしれない。もしよろしければ、毎日、あなたがたが必要となさる分銅(比喩的に道徳価値を理解するのに役に立つ教訓)としてお使いいただき、秤の皿にのせて(道徳を)計っていただければ幸いである。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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