タウヒードとシルクのバランス

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タウヒード(神の唯一性)とシルク(神と同列に他の何かを置くこと)のバランス

時々、自分にもどうにもならないことですが、自分の意志に反してあることが頭にひっかかり、「私達は無駄骨をおっているのではないだろうか?」と独り言を呟きます。

私はイーマーン(信仰)とクルアーンに奉仕することを人生の目的としている方々に対しずっと希望があると申し続けて参りました。私の身近にいらっしゃる方々から、はるか彼方、遠い地域で活躍なさっている方々に、いつの日か、成人、子どもを問わず、必ずや預言者(彼に平安と祝福あれ)の慣習(スンナ)に賛同し、みなそろって預言者(彼の上に平安あれ)に従うだろうと確信を持って伝えてきました。預言者(彼の上に平安あれ)の慣習(スンナ)を知った方々は、息絶えるまで、燃え盛る情熱と共に、生きぬくであろうこと、そして預言者(彼の上に平安あれ)に従い、聖典に明示された真髄を守りぬくであろうことを(申し上げてきました)・・・しかしながら、心にあることが引っかかり、形のみのイスラームを生き、彼の魂にも近づくことができず、その本質に達する事のできない多くの方々をまわりで見る度に、私の希望の灯火も燃え尽きてしまうような気がしています。このテーマに関して行われた試みが何の効果も、益も見出せないと知るたびに、私は打ちひしがれ、「もしかしたら、主はディーン(宗教)へ奉仕する事を私達にはお望みではあられないのではなかろうか?」と自問自答いたします。彼のディーンへ奉仕する事は、恐らく私たちにとって、妥当ではないのかもしれませんが、それに奉仕するためにふさわしくなるよう努める事、そして、それを守ることが私たちの義務(役目)です。そうなのです、些細に思われるような出来事が、実は私には気がかりなのです。それが「腐敗の始まり」と感じるからです。

何時も毎日のように機会があれば、何度でも申し上げて参りましたが、ここでもう一度繰り返したいと存じます。何方であれ、人が成し遂げ、勝ち得た成功の数々を、決して自分自身の力(手柄)とみなしてはいけません。これは、あきらかにシルク(多神崇拝、自分自身を信仰することも多神信仰の一種)です。人がこれらを自分の手柄とすることは本来、自分自身と、成し遂げられ勝ち得られた事柄を、真の力から、つまりその力の根源から切り離す事を意味します。力の源から切り離されたものは、次に、自分自身の力を地面に苗木のように植え付けようとしますが、その地面をふき抜ける夏の強風は(真の力から切り離された)人間の力を成長させることはできません。それらはただ、「アッラー以外の何者も、権能も力も持ち給わぬ。」という強い夏風の威力によってのみ、背を伸ばし、成長する事ができます。人間の力の介入が見せかけの表面的なものである場合、その夏風の力は、見せかけの人間の力から救い出してくれます。ですから、決して「私が」と思ってはなりません。「私がやった」と仰ってはいけません。アッラーの御力によって、成し遂げられた出来事の数々を、個々人が占有する事があってはなりません。もしこの種の考えが不意に頭に浮かんできてしまった時にはすぐにアッラーにお赦しをこいねがいましょう。「アッラーよ、あらゆる行動を起こし、成し遂げ給うのは貴方です。私はそれを私自身が行ったかのように、一瞬考えました。一群の雲が私の脳裏を霞め、私はこのために(自分自身を崇拝する)シルクに走ってしまいました。もし貴方がこの事を多神崇拝と見なすとおっしゃるならば私は瞬く間にムシュリク(多神崇拝する輩)と化しました。どうか、私をお守り下さい。アッラーフンマ インニー アウーズ ビカ ミンアン ウシュリカ ビカ シャイアン ワ アナ アァラム ワ アスタグフィルカ ビマー ラー アァラム。(アッラーよ、知りつつ、多神崇拝に走ることから、私は貴方に加護を求めます。そして、私が知らずに行った多神崇拝に対して私は貴方に赦しをこいねがいます。)

そうです、成功の数々は、成し遂げられた事柄を個々人の自我自讃に結びつける事によって、壊され、曇らされ、色あせ、埃まみれになってしまう事を、私は存じております。そして、これらの事はたいてい(大魚を獲る)モリのように私の心に突き刺さり、「嗚呼、アッラーよ、何が語られ、何が為されているのでしょうか?」と、私は問いかけます。アッラーの唯一性を語り、その道を示す時に、もしや、シルクに入ってしまっているのではないかという不安を私は脳裏から取り去る事ができません。

アッラーの成功を各々の自我に関連付ける捉え方は、高貴なる天使達や、我らが長である預言者(彼の上に平安あれ)そして偉大なアッラーの友たちの魂を悲しませているように私には感じられます。私のような未熟な者でさえも多神崇拝への不安のため一晩眠れぬ夜を過ごし、自我の欲望や利己主義的考え方、そして奢りと見せかけによって、不安や不快を感じます。そうであるなら、アッラーにすべてを任せ、アッラーの存在ゆえに自我を消滅させ、アッラーのうちにすべてを見、すべてを知る方々は、多神崇拝と不信仰を嫌うと同時に、成功を自我のものとする事にも嫌悪感を示します。アッラーの命に従い、アッラーへの愛と想いを持ちつづける者の嫌悪するふるまいが、(時がたったからといって、)よいとみなされることは決してありません。

現代を生きる方々は、通常の私たちの文化とあまりにも相違がみられる生き方をなさっていますので、これらの事をご説明する事は難しいですが、本来、トルコの民衆は歴史的にイスラーム文化やイスラーム信仰、イスラーム的な風習や慣習に逆行する事には抵抗を示してきた民です。しかしながら、現代の方々は同化することを望んでいるように私には見えます。中国やルーマニアや日本に行った方が、5-6ヶ月後に、ムスリムとしてのアイデンティティーを失い、中国の方や、ルーマニアの方そして日本の方に同化した形で、あなたの目の前にあらわれます。

しかしながら、とらわれを持つ人間は、正しい道を歩む自由な方々のようには、真にイスラームのために人々に尽くすことはできません。とらわれが多ければ多いほど、貴方がたの自由も、同じように貴方がたの手から逃げ去ってしまうのです。ムウミン(善き信仰者)はなにものにも囚われることがありません、いえ、囚われるべきではありません。飲食のように自然の必然的要求においても、囚われることはありません。食するのは、必要最低限生命を保つためにだけです。

家族は人間にとって、必要不可欠なものです。その家族の妻にとって夫、あるいは夫にとっての妻はなくてはならないかけがえのない人生の友です。来世への旅路の道連れです。時には道を歩み進む時私達はクッベの石のように、うでをくみ、肩を寄せ合いながらお互いに頼りあいます。とは申しても、私達は家族中心主義者ではありません。もしそうであるなら、人は従属(とらわれ)によりアッラーの御望みになる行動や活動ができなくなることもあります。 

とらわれ(従属)とは本来、魂に生じる弱さを示すものです。それは心のむなしさです。人は実のところ妻や夫であったとしても、又母親や父親であったとしても、(これらの人間的関係には尊敬をはらいますが同時に)とらわれずに、それらから完全に自由であると示す事も必要です。『私はただアッラーのしもべです。』と言いきる事が必要です。アッラーのしもべは、アッラーのご命令と禁止の他、何事からも束縛を受ける事はありません。

これらはすべて私達のイスラーム文化が示すものです。その文化圏外にいらっしゃる時、他の文化に同化するのであれば、さらに相違のみられる場所においては、より多くの変化が生じる可能性があります。というのは、ある種の変化を生じた者は、他の面でも変化していきますから。同化と言うのは、特定の文化への束縛、その束縛に縛られる事を意味します。束縛される人々は自由ではなく、とらわれる人となるでしょう。アッラー以外の何かに捕われるのであれば、完璧なアッラーのしもべとなる事は不可能です。

これらの事は私が最近見聞きした事から、感じた事です。時々私の心臓に血が一脈一脈流れこむように、したたり、しみこんできます。時には針のように私の心を刺します。このような状態に、影響に、見真似に、光景に、アッラーを口先だけで唱える事に、心ない音に、そして音に現れる口論に、私は大変不安を抱いております。「みんな素晴らしい、わたしは取るに足らぬ者。みんなは小麦、わたしは麦藁。」(注1)と言う考えが、私の原則です。とは申し上げるものの、再び取るに足らぬ事柄にひっかかってしまうこともあります。もし私達がムスリムとして生きているとするならば、アッラーの御望みになられる生き方(イスラームの生き方)を貫くべきだと私は考えます。

そうです。「・・・インナマー アムワールクム ワ アウラードゥクム フィトゥナ・・・クルアーン 8 章 28 節(あなたがたの財産と子女とは一つの試みであり)」

この世で、この試みに負けて失う母親達や父親達、そして子女達がみられます。一方で、勝ち得る母親達や父親達、そして子女達がいらっしゃいます。試みに勝ち得る集団、損失する集団、又勝ち得るムジャーヒド(神の道で奮闘努力する者)、損失するムジャーヒド、勝ち得るムハージル(神の道を歩むべく移住する者)、損失するムハージルがいらっしゃいます。

1つ1つがアッラーからの試みです。変化について申し上げるなら、もし私達が変化するとするならば、精神世界の階梯を昇っていくたびにおいて、向上する方々のように変わるべきでしょう。私達にとってこれ以外、良き変化はありえません、いえ、あってはなりません。これ以外の変化は退行を意味します。クルアーンの中のご説明にあるように、「タザブ(フ?)ズブ」です。あちらこちら戻る事、変わる事はムナーフィク(偽善者)的な振る舞いです。人は一度変わるべきですが、その後は、変化のひとつひとつがアッラーに近づくために為されなければなりません。「私の首にかけられた首輪の持ち主はアッラーであられ、私はアッラーのみに固く結びつく彼のしもべです」と心に明記すべきでしょう。価値あることは、すべてこのことに(アッラーに固く結びつく、アッラーのしもべであること)に基づきます。

そうです、時は最終の時代。顕われることはそのしるし。お助け下さい、我が主よ!


(注1):(エフェアズレトレリの言葉)

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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