ハッジとドゥアー

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質問: ハッジの恩恵を最大限得るためにはどのような点に注意すべきでしょうか?この祝福された地でアッラーに懇願する際、優先させるべき事項は何でしょうか?

答え: 「この家への巡礼は、そこに赴ける人びとに課せられたアッラーヘの義務である」(イムラーン家章 3:97)というクルアーンの節に従い、財力、体力などのあるムスリムはハッジへと赴かなければなりません。我々の時代、旅をめぐる状況は非常に快適なものとなり、ハッジの遂行はより容易となり、必要な儀式を全うするためにより良い手段を確保できるようになりました。しかしながらさらに重要なのは、過去数世紀に渡って眠った状態のようであったムスリム世界が、ついに信仰の実践に目覚めたことにあります。毎年、ハッジに赴く400~500万人の人々以外にも、許可が出るのを待っている人々の数は決して少なくありません。ハッジの申込所に出かけていったものの許可が下りず落胆して引き返してくる人々の様子を見るにつけ、人々が宗教的感情や思考に再び目覚め、つながろうとしていることに気づくでしょう。

人々における変化は、地面に蒔かれた種が小麦へと成長していく過程に似て、急速に起こるものではありません。人々になされた投資が実を結ぶまでには何年もかかります。ですから、信仰の復活というこの前向きな進展はさらに拡大し続けていくものと信じています。恐らく近い将来には1,000万人もの人々がアラファで同時にアッラーに懇願し祈るときが訪れるでしょう。ひいてはアッラーのお恵みが我々に降り注がれ、信者たちは今一度、自らの足で立ち上がり、確固たる信仰、平安、充実感、そして信頼というものを獲得していくでしょう。

何年分もの価値が数秒に凝縮される

ハッジは、アッラーがそれを命ずるがゆえに行われるべき崇拝行為です。崇拝行為の対象となる絶対的なお方、そのご満悦を求める対象である正当なお方であられる我々の寛大な主に崇拝行為を捧げるのは、本質的にかれの権利であり、我々にとっては義務となります。このことから信者はまず、その恵みの雨を我々に降らせてくださる全能のアッラーの命令に従う形でハッジの遂行義務を果たさなくてはなりません。ニーヤ(意図)をこの上なく純粋なものとしてアッラーに対峙し、この聖なる土地から大いに、豊かに恩恵を受けられるよう努めなくてはなりません。

特にこの点からまず、目的とする地の意味合いを認識する必要があります。巡礼へと出発する際には、最果てのスィドラの木(スィドラ・アル=ムンタハー)が地上に投射された地である、アッラーが好まれた世界へと旅立つのだということ、そして人類を創造主に向かわせる人類にとっての究極的な神殿へと向かって歩を進めていくのだということを意識しなければなりません。巡礼者の心はこの感情で満たされるべきなのです。そして同時に、巡礼の儀式はファルドからワージブ、スンナ、ムスタハッブ、そして礼節まできちんと遵守しながら全うしようと努めるべきであり、全身全霊で服従して常にアッラーに向き合うべきです。言い換えれば、ハッジの務めを行う間中ずっと、人は立つ、座る、歩くといったあらゆる行いを、アッラーのために行っているのだという意識を持って取り組まなければなりません。カアバ神殿の前で手を広げること、悔悟の扉(ムルタザム)に顔を押し当てること、黒石に挨拶し口付けすること、ミナーに向かうこと、アラファに逗留すること、そしてムズダリファに向かうこと、こうしたすべてを行う間、アッラーのためにという意識を保持し続けなければならないのです。つまり、定められた行為の一つ一つをアッラーのために行い、数秒間の中に数年分の価値を凝縮させることをしなければなりません。

加えて、この神聖な旅路において人は不注意でのんきな振る舞いにつながりかねない状況を避ける必要があります。このことを常に意識し続けるために、自分自身をどうでもいい用事や我々の時間を取る人々から遠ざけるようにしたほうが良いでしょう。特別な地へと向かうのですから、くだらないおしゃべりに興じる代わりに、そこに行けば心が和らぎ、涙が流れ落ちる、そういった土地への切望で満たされるべきです。私がマディーナにいたとき、高貴なる預言者様への深い愛に満ちたある人の言葉に胸を貫かれたことがあります。その方はこのように仰っていました。「使徒様よ、私はここに何日もおりますがあなたのお声を聞くことができません。これからカアバに向かって出発するところですが、ここから何を持ってきたかと尋ねられたらなんと答えればよいでしょう?」そのほかにも同じような事柄をいくつも仰っていましたが、感動を覚えずにはいられませんでした。ですからこうした心を動かすような経験を捜し求め、自分自身に、こうした旅路のような機会は二度と訪れないかもしれないということを思い出させるようにしたほうがいいでしょう。

アラファの日、祈りに没頭すること

この聖なる地で過ごす日々は全能のアッラーに懇願を行うかけがえのないチャンスとして受け止めるべきです。そして全ムスリムの心の代弁者となるべく努力し続け、その熱意を込めて祈らなければなりません。例えば、カアバ神殿を初めて見る瞬間とは神秘の瞬間です。ですからその瞬間は祈りを捧げるために大切に活用されるべきです。同様に、ミナーに行く際には、そこがアラファに赴く前に通過する最初の浄化地点であると考え、一秒も無駄にすることなくアッラーに向かって心を開かなくてはなりません。

高徳な方々の仰られたことによると、全能のアッラーはアラファでなされた祈り-その割合を挙げるのは適当でないかもしれませんが、受け入れられる度合いの大きさを表すためにあえて申し上げましょう-の99%を受け入れられます。さらにアッラーはそこでご自身に全身全霊で向き合う人々を尊重するがゆえに、それに値しない人々の祈りさえも受け入れられるのだと言うことができます。

ご存知のように、人類を指導される魂であられるお方(彼に何百万もの平安と祝福がありますように)はアラファでいつもウンマのためにドゥアーを捧げておられました。他人の権利を侵した者たちのためにさえも震えながら赦しを請われておられました。これは何らかの英知から受け入れられなかったと伝えられています。しかし憐れみ深く慈悲深い預言者様は意気消沈してムズダリファを訪れ、そこでも手を広げて一睡もすることなしに朝までウンマのために祈られたそうです。イブン・アッバースの伝承によれば、祈りの間彼が近くにいたところ、祈りが終わりに近づくにつれ、預言者様の顔に微笑が浮かんできたそうです。イブン・アッバースはそれが、愛する預言者様が祈られた内容に関して吉報が訪れた印だと受け取ったと述べています。それが真実であればどれほど良いことでしょう。それは我々にとっても罪の贖いを意味することとなるのですから。

カアバ、ミナー、アラファ、そしてムズダリファは祈りを捧げ、全能のアッラーに懇願するために開かれた天の窓のようなものです。アッラーはこの地に滞在し心から信仰する者の懇願を退けることはなさりません。人はこのことを真摯に信じる必要があります。しかしながら人類の誉れであられるお方は、信じつつ祈りを捧げ、祈りが受け入れられることを願うよう我々に助言されています。それゆえ、「私は手を広げて祈りを捧げました。その後どうなろうと構いません」と言うのではなく、以下のような自覚をもった言葉を使いながら心から祈りを捧げることに専念すべきです。「主よ、あなたを見つけました!私はあなたの扉に立ち、あなたの偉大さと無限の慈悲に庇護を求めます。アッラーよ、私を醜い行いをするがままに放置しないでください。アッラーよ、私はここに浄化されるためにやってきたのです!主よどうか私を清めてください!」。

全ムスリムのために懇願する心

この聖なる日々にこれらの神聖な土地を訪れる人々は自分自身のため、また家族のために祈ることができます。しかしながら、ムスリムが置かれた状況、特に今日の状況は我々の個人的問題よりはるかに重要であるといえます。ムスリムの住む土地でみられる状況は明らかでありはっきりしています。イスラームの歴史上、これほど惨めな時代に陥ったことはありません。自らの足で立つことができず、他者が持ち込んだものの上に立って(彼らがそれを使って何をしようとしているのか知ることもできないまま)足を踏ん張ろうとしています。しかしたいていの場合、この手の基礎は我々の足元から根こそぎにされ、ひっくり返らされるのが落ちというものです。こうした状況に苦悩していたベディウッザマン師は、ムスリム世界を考えると自分自身のことなど考えられなくなる、と仰っていました。ですからハッジに赴く機会、そしてカアバを初めて見る機会を得たムスリムは、手を広げて全能であるお方に、「我が主よ、あなたの使徒に従う者たちに解放をお授けください、そして慈悲を与え、赦しを授けたまえ!」と請い、祈りに没頭すべきです。ミナに歩いていく間、またはもしそこで一晩過ごすのであればその間も、ひれ伏して同様に全ムスリムのために祈るべきです。そもそもミナは格別な意義を持つ聖なる土地の名前です。考えてみてください、イスラーム初期の時代、人類の誉れであられるお方(彼に祝福と平安あれ)は、メッカやその他の場所で語りかけた人々から得られなかった好意的な反応を、まさにその特別の場所で得ることとなったのです。つまり、預言者様が支援を得た土地だったのです。ですから、支援という意味でミナには特別な価値が備わっています。だからこそ、アッラーが非常に好まれるそうした特別な地に滞在する間、アッラーの助けを見出すという希望を持って手を広げ、「主よ、ムスリムがその苦難を払いのけ、再生のプロセスを獲得できるよう、どうぞお助けください!」と祈るべきです。

アラファに向かって歩いていくときは、その目的地の重要性を自覚する必要があります。ひょっとすると、地上のあらゆる場所のうち、そこがアッラーに最も近づける場所のひとつであるかもしれないからです。聖人ではない人でさえも、その場所の貴重さを感じ取れるのです。アッラーはそこに滞在する人々に、格別の恵みを授けられるのかもしれません。ですから、天界への最大限の近づきを得られるこの地で、アッラーに向かって心を開くチャンスをつかんですべての信者のためにアッラーに懇願すべきです。巡礼者は訪問の期間中、飲食で時間を無駄遣いすべきではありません。空腹感を押さえ、気絶しない程度に一口二口食べるにとどめて、アラファでの黄金の時間を一秒たりとも無駄にしないよう努力しなければなりません。日が沈むまでの間ずっと、アッラーを切望し、請い願いながら時間を過ごし、その祝福された土地に相応しい誠実さや忠実さを示すべきです。

一点、繰り返し述べますが、その特別な地で自分自身や親戚のために祈ることは間違いではありません。ですが、「我が主よ、私はこの瞬間、私自身を消し去りました。私と言う人間を×印で消しました。視線を完全に預言者様のウンマに向けました。ウンマのことしか考えておりません。ウンマのために祈っています・・」と言いながらすべてのムスリムのために祈れることが、自己犠牲や利他的な態度を保持するといった観点から非常に重要だといえるでしょう。

物事をアッラーに任せること

一方で、世界中に散らばる信仰を持つ人々のために祈るのに加えて、信者たちに敵対し迫害する人々のためにも祈ることができます。例えば、「アッラーよ、彼らに導きを与え、良くなり得るのであれば彼らを正してください。良くなり得ないのであれば当然の報いをお与えください」というように言うこともできます。今日でもムスリム世界には、過去と比べてより冷酷で不正もはなはだしい抑圧者や暴君が存在します。人々が礼拝したりモスクが一杯になるのに我慢がならず、スカーフをかぶった女性を見ると発作的な怒りで苛立ち、あらゆる手段を使ってイスラームを攻撃することに全力を注ぐ、不幸な人々です。こういう人々をアッラーにお任せするのもイスラームに忠実であるために必要なことです。信仰を実践する人々を見て激怒する宗教の敵対者については祈りの中で名前を挙げることができます。ムスリム諸国には、自らを宗教に敵対する者ではないと主張しながらも実際にはちょっとした事柄でもイスラーム的なものは容認しない偽善者が存在します。自国で信者たちが民主的権利を享受するのを望まないこうした偽善者たちはアッラーに委ねられるべきです。こうしたドゥアーをすることも、この祝福された土地を最大限に活用するということの一部となります。

この点に関して、誰もが同じように同じレベルで悩みや苦しみを感じられるわけではないかもしれません。言い換えれば、他者の人生における重要性を認識できないために、同じような感受性を持ち得ないかもしれないということです。それでもなお、この祝福された土地を100人、200人の人々と一緒に訪れ、祈りの輪を築くことができるのであれば、心の底から湧き起こる嘆きやドゥアーを人々と分かち合うことはできます。人々の胸に火を灯し、心が燃え盛る炎となった信者たちの悲しみと一緒にアッラーにウンマの再生を請い願い、共に「アーミーン」と言ってもらうことは可能なのです。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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