赦しを請うこと―2

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質問:信者にとって浄化の方法でもあるイスティグファールの礼節について何をお勧めされますか?

答え:イスティグファールを始める際、まずアッラーの偉大さを思い起こし、タクビール(アッラーフアクバル、アッラーは偉大なりと言うこと)や、タスビーフ(スブハーナッラー、アッラーに栄光あれと言うこと)によってその偉大さを称えるべきです。これに関して教友たちが預言者様(彼に祝福と平安あれ)について多くのことを伝えていますが、その伝承に従い、以下の表現でイスティグファールを始めることができるでしょう。

اَللهُ أَكْبَرُ كَبِيرًا وَالْحَمْدُ لِلهِ كَثِيرًا فَسُبْحَانَ اللهِ بُكْرَةً وَأَصِيلًا لَا إِلٰـهَ إِلَّا اللهُ وَحْدَهُ نَصَرَ عَبْدَهُ وَهَزَمَ الْأَحْزَابَ وَحْدَهُ لَا شَرِيكَ لَهُ

「アッラーは偉大なり、アッラーを限りなく称えます。朝に夕にアッラーを称えます。アッラー以外に神はいません。唯一のお方です。しもべを援助し、おひとりで敵の軍隊を敗走させました。かれに並ぶものはありません」

アッラーの偉大さをこの言葉によって表明したあと、愛すべき預言者様にサラワート(祝福祈願)を送ることはイスティグファールが受け入れられる上で非常に重要となります。それはサラワートがアッラーが必ず受け入れられるドゥアーだからです。ご存知のように、サラワートは人類の誉れであられるお方との絆を結ぶための非常に重要な手段となります。祈りによって常にアッラーに向かわれた預言者様を執成者としてアッラーに向かうことは、アッラーへの近づきを得るための特別な方法ともなります。

また、サラート=ル=ハージャ(必要性が生じた際に行う礼拝)の前に行っているように、イスティグファールの前に、全ムスリムのために赦しを請うことも可能です。「アブダール[1]」として知られる聖人たちが行った祈りにも含まれているように、以下の言葉を朝夕のドゥアーに加えて習慣的に唱えることもできます。

اَللّٰهُمَّ اغْفِرْ لِأُمَّةِ مُحَمَّدٍ اَللّٰهُمَّ ارْحَمْ أُمَّةَ مُحَمَّدٍ

「アッラーよ、ムハンマドに従う者たちをお赦しください。アッラーよ、ムハンマドに従う者たちに慈悲をお与えください」

このようにして全ムスリムに対して善いことを行ったことになると同時に、こうした全てがイスティグファールがアッラーに受け入れられるものとなるための序文となるのです。さらには自分自身をムスリム全体の中でも最も罪深い人間の部類であると謙虚に見なしてこの祈りに自分自身を加え、

اَللّٰهُمَّ اغْفِرْ لِي وَاغْفِرْ لِأُمَّةِ مُحَمَّدٍ اَللّٰهُمَّ ارْحَمْنِي وَارْحَمْ أُمَّةَ مُحَمَّدٍ

「アッラーよ、私とムハンマドに従う者たちをお赦しください。アッラーよ、私とムハンマドに従う者たちに慈悲をお与えください」と言うこともできます。

最も美しい言葉で赦しを請うこと

こうした前置きのあと、過ちや罪が赦されることを願い、クルアーンでドゥアーの形で表現されている聖なるアーヤ(節)を唱えながらアッラーに向き合うべきです。

لَا إِلٰهَ إِلَّا أَنْتَ سُبْحَانَكَ إِنِّي كُنْتُ مِنَ الظَّالِمِينَ

「あなたの外に神はありません。あなたの栄光を讃えます。本当にわたしは不義な者でした」(預言者章21:87)

أَنِّي مَسَّنِيَ الضُّرُّ وَأَنْتَ أَرْحَمُ الرَّاحِمِينَ

「本当に災厄がわたしに降りかかりました。だがあなたは、慈悲深いうえにも慈悲深い方であられます」(預言者章21:83)

رَبِّ اغْفِرْ وَارْحَمْ وَأَنْتَ خَيْرُ الرَّاحِمِينَ

「主よ、御赦しを与え、慈悲を与えて下さい。あなたは最も優れた慈悲を与える方であられます」(信者たち章23:118)

رَبِّ إِنِّي ظَلَمْتُ نَفْسِي فَاغْفِرْ لِي

「主よ、本当にわたしは自ら不義を犯しました。どうかわたしを御赦し下さい」(物語章28:16)

رَبَّنَا اغْفِرْ لِي وَلِوَالِدَيَّ وَلِلْمُؤْمِنِينَ يَوْمَ يَقُومُ الْحِسَابُ

「主よ、清算が確定する日には、わたしと両親そして(凡ての)信者たちを、御赦し下さい」(イブラーヒーム章14:41)

رَبَّنَا اغْفِرْ لَنَا ذُنُوبَنَا وَإِسْرَافَنَا فِي أَمْرِنَا وَثَبِّتْ أَقْدَامَنَا وَانْصُرْنَا عَلَى الْقَوْمِ الْكَافِرِينَ

「主よ、わたしたちの様々な罪や行き過ぎた行いを赦して下さい。わたしたちの足場を固め、不信心な者たちに対して力を与え助けて下さい。」(イムラーン家章3:147)

クルアーンで述べられているドゥアーの他にも、イスティグファールの言葉として唱えられる美しい言葉の数々があります。例えば教友のアブー・バクル様は預言者様に、日々の礼拝で唱えることのできるドゥアーについて尋ねました。そこで預言者様は次のドゥアーを教えてくださいました。

اَللّٰهُمَّ إِنّـِي ظَلَمْتُ نَفْسِي ظُلْمًا كَثِيرًا وَلَا يَغْفِرُ الذُّنُوبَ إِلَّا أَنْتَ فَاغْفِرْ لِي مَغْفِرَةً مِنْ عِنْدِكَ وَارْحَمْنِي إِنَّكَ أَنْتَ الْغَفُورُ الرَّحِيمُ

「アッラーよ、私は大きな過ちを犯しております。あなた以外にその罪を赦せる方はおられません。どうか、私にあなたの赦しを賜り、慈悲をお与えください。あなたは寛容者、慈悲者であられます[2]

このドゥアーは礼拝でサジダ(跪拝)をしているとき、またはタヒーヤート(左右にサラームを述べる直前)の後に唱えることができますが、アッラーの赦しを請う重要な手段として最適なドゥアーであります。

別のドゥアーとして「サイード=ル=イスティグファール(イスティグファールの長)」として良く知られるものがあり、これもイスティグファールのために非常に重要なドゥアーで朝晩読むことが勧められます。

اَللّهُمَّ أَنْتَ رَبِّي لَا إِلٰهَ إِلَّا أَنْتَ خَلَقْتَنِي وَأَنَا عَبْدُكَ وَأَنَا عَلَى عَهْدِكَ وَوَعْدِكَ مَا اسْتَطَعْتُ أَعُوذُ بِكَ مِنْ شَرِّ مَا صَنَعْتُ أَبُوءُ لَكَ بِنِعْمَتِكَ عَلَيَّ وَأَبُوءُ لَكَ بِذَنْبِي فَاغْفِرْ لِي فَإِنَّهُ لَا يَغْفِرُ الذُّنُوبَ إِلَّا أَنْتَ

「おお、アッラー、あなたはわたしの主であり、わたしを創ったあなたの他に神はなく、わたしはあなたの僕として出来うる限りあなたの契約と約束を守り、わたしの行った悪に対してあなたに助けを求めます。わたしはあなたのお恵みを認め、またわたしの罪を認めます。どうぞ罪をお赦し下さい。あなたの他に罪を赦す者は居ません」

預言者様(彼に祝福と平安あれ)はこう仰っています。「その報奨を確信してこの言葉を昼間唱える者は、たとえその日の夕方死んでも、天国に入るであろう。またその報奨を確信してこの言葉を夜唱える者は、たとえ夜になる前に死んだとしても、天国に入る[3]」と。

浄化されたと実感するまで請い続けなさい!

また人は内心で充実感を感じたり浄化されたのを実感するまで、額づいて次の言葉を唱えることができるでしょう。

يَا حَيُّ يَا قَيُّومُ بِرَحْمَتِكَ أَسْتَغِيثُ أَصْلِحْ لِي شَأْنِي كُلَّهُ وَلَا تَكِلْنِي إِلَى نَفْسِي طَرْفَةَ عَيْنٍ

「生きるお方よ、自存するお方よ、あなたの慈悲を求めてあなたの助けを請います。私のあらゆる状況を正してください、そして瞬きほどの間さえも私を自我に任せきりにしないでください」

一部の伝承では「・・それより短い時間さえも」との付け加えがあり、つまり「瞬きより短い瞬間でさえも私を自我に任せきりにしないでください」ということを意味しています。

預言者様が眠りから覚めたときに唱えたこのドゥアーも心の声として舌で表現することができるでしょう。

سُبْحَانَكَ اللّٰهُمَّ أَسْتَغْفِرُكَ لِذَنْبِي وَأَسْأَلُكَ رَحْمَتَكَ،

اَللّٰهُمَّ زِدْنِي عِلْمًا وَلَا تُزِغْ قَلْبِي بَعْدَ إِذْ هَدَيْتَنِي

وَهَبْ لِي مِنْ لَدُنْكَ رَحْمَةً إِنَّكَ أَنْتَ الْوَهَّابُ

「アッラーに栄光あれ、私の犯した罪の赦しを請います。そしてあなたの慈悲を願います。アッラーよ、私の知識を増やしてください、そして導きのあと私の心を迷わせないでください。あなたは私を導かれ、慈悲を授けてくださいました。あなたは本当に与えるお方です[4]

さらには、皆、自らの犯した過ち、失敗、そして罪を考えながら「アスタグフィルッラー」、「スブハーナッラー」と毎日何千回も唱えるべきです。教友のアブー・フライラは毎日12,000回、スブハーナッラーと唱えていたと伝えられています。他の人々が、それは多すぎるのではないかと問うと、「罪の数だけ唱えているのだ」と答えたそうです[5]。アブー・フライラはダウス族[6]出身で、アスハーブ・アル=スッファ(長椅子の人々)と呼ばれる、愛すべき預言者様のお近くに長い間とどまっていた知識を求める人々の集団に仲間入りしました。彼はどの教友よりも多くハディースを伝え、預言者様亡き後は大いに参考とされた、ダウス族の獅子ともいえる人物でした。このような人に罪があったとは思えません。しかし彼はその高次の敬虔さゆえに、それを必要と見なしていました。我々は罪で汚染された自らの人生を考えるなら、日に30,000回のイスティグファールでさえ多いとはいえないでしょう。

また「アル=クルーブ・アッ=ダーリア(懇願する心)」という編纂物に含められている、偉大な精神的指導者たちのイスティグファールを唱えることもできます。ハサン・アル=バスリーは目まいのするような深い精神性を持ち自らの魂を厳しく批判した人物でした。可能であれば彼が各曜日に振り当てたイスティグファールをあなた方も同じように唱えることができます。彼のやり方は預言者様への祝福祈願に始まり、犯した罪を数え上げては溢れさせ、最後は同じように預言者様への祝福祈願でドゥアーを締めくくるというものです。彼の生きた時代も彼個人の気質も共に彼が罪を犯すのを許すようなものではありませんでした。昼夜を崇拝行為に費やし、高徳な道における奮闘に人生を捧げたこのような人物が、祈りの中で述べられているような罪に陥ることはあり得ないことです。それでもなお、彼は頭に思い浮かんだり想像に入ってきたかもしれない事柄についてまで悔悟し赦しを願っているのです。我々の宗教面における生き方は彼を超えるものではありませんから、罪に関しても彼に劣ってはいません。よって彼が夜に捧げたドゥアーを我々が毎晩2回繰り返したとしても、それは少ないのではないでしょうか。

心から舌へと溢れ出てくる懇願の言葉を締めくくるには、始める際と同様に預言者様への祝福祈願(サラワート)で終えるべきです。受け入れられる2つのドゥアーの間に挟まれたドゥアーも同様に受け入れられることを鑑みれば、我々のイスティグファールも前後のサラワートで挟み込んでより受け入れられやすくするのが良いでしょう。

最後に一つの点について申し上げますが、イスティグファールのために発せられる言葉はその意識を伴って述べられるべきです。無頓着に発せられる言葉はアッラーに対する無礼となるばかりか嘘となる可能性があるからです。それゆえ一語一語は心の奥底から出てくるべきであり、それが通ってきた場所には痕跡が残るべきです。人はこの意識を持ちながらアッラーに内心を吐露して赦しを求めるなら、犯した罪を恥じていてもたってもいられず、後悔で震え、あたかも心臓が止まらんばかりの状態になるはずです。

[1] 「アブダール」(バダールの複数形)という言葉は一般的に「代理人」と訳されます。この言葉は「不可視の人」すなわちアッラーについてのある一定の知識があり、アッラーの援助を受けており、洗練された心と清らかな魂のおかげである種のアッラーの神秘に対して開かれている人のことを言い表しています。こうした「代理人」は純粋で誠実な聖人で、見られることなく他の人々を助け、アッラーの御業がなされる際の覆いとして機能しています。こうした代理人が亡くなると、別の聖人がその人に取って代わります。
[2] サヒーフ・ブハーリー、ダーワート 17、サヒーフ・ムスリム、ズィクル、48
[3] サヒーフ・ブハーリー、ダーワート、2
[4] サヒーフ・ブハーリー、ダーワート、7-8、サヒーフ・ムスリム、ズィクル、59
[5] イブン・アビー・シャイバ、アル=ムサンナフ、5/345
[6] マッカ南方に住んでいたアラブの部族の一つ。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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