運命の諸段階

1.アッラーの知という観点からの運命

アッラーの知という観点から、運命とは最後の審判の日までに発生するあらゆる物事および出来事の計画やプログラムが、アッラーによって確定され、それらに知という存在が付与されることである。世界が創造される以前は[i]、ハディースの言葉を借りると「アッラーは存在し、それ以外は何も存在しなかった」あらゆるものが創造されるより以前に、アッラーはその無限の英知で全てを確定された。あらゆることが、アッラーの英知において確定され、定められていた。[ii]

アッラーは、考え付くあらゆる事物のその背後の、背後の、背後におられる。そしていかなる形であれ、そのしもべに似られることはない。ただ、アッラーの英知の観点から運命を説明するために次のような例をあげることができよう―誤りでないことを願う―。

人は、やろうとしている何かについて、まずそれを思考の上で組み立て、考え、想像する。それから計画や案、企画という段階に入る。そのようにして、その事項について徐々に実体を獲得させていく。そしてこれが、人が行ない、物質世界において作り出す事物の、ある意味での知による存在である。

2.記帳という観点からの運命

知識としての計画において確定された計画や企画は、明確な書に記される。クルアーンでこの明確な書に、少々の差異はあっても「明瞭な記録簿(イマーム・ムビーン)」[iii]「明瞭な天の書(キターブ・ムビーン)」[iv]と言った名称が与えられている。そして、起こるであろうあらゆる出来事があらかじめ記されていること[v]、その書で記されていないことは何もないということ[vi]を語っている。これは基盤の書であり、そこに書かれたことについて変化が加えられることはない。アッラーの英知の被造物に関わる部分の名称である「守護された碑板(ラウフ・マフフーズ)」は、もし表現が適当であるならば、原簿、啓典の母体のようなものである。この書が基本とされ、あたかも複写がとられ、他の碑板や帳面や本などといった形で複製がつくられていくのだ。アッラーには、さらに、「取り消しと確認の碑板(ラウフ・マフブ)」という名の書[vii]があり、取り消しや変更はこの書において行われる。

アッラーには、様々な段階における異なる記帳がある。啓典の母体からとられた版による碑板、書冊、目録は複製という形で小さな帳面に謄写される。―比喩に誤りがないことを願うが―例えば、住民登録課には戸籍原本があり、この原本から、それぞれが所持できるような形で戸籍謄本が作られる。このように、各人がその生涯において行なう全てが、その原本から謄写され、その首にかけられるのだ。

ここでの謄写とは、全ての人がその生涯で行なう事柄が天使たちによって原本から抜き出され、書き出されると言う意味である。この件についてクルアーンでは「本当にわれは、あなたがたの行なったことを書き留めさせておいた」(跪く時章45/29)と記されている。

人々の首にかけられる書と、常に人間と共にいて彼が行なった善行や悪行を記している天使(ハファザ、または、キラーマン・カーティビン天使)が書き留めた記録の間には相違点がない。守護された碑板における啓典の母体からとられた謄本である。人の首に結びつけられた書[viii]、あるいは複製には、外的な実体は存在せず、ただ、見えざる知としての存在がある。この世界において、人の意志が活動し、外的な実体であるその行動が一冊の書として記される。このようにして、人が起こしたことも過去に行なったことも、一切が残らず記されていく。

この二冊の書は、お互いを比較した際、全く相違点がなく、完全な一致と相似性があることが見られる。天使たちが「私たちが記録したのはこのとおりです、アッラーよ」と言うと、アッラーも「私もこれらを記していた」と仰せられる。ラマダーン月において、クルアーンの暗唱者と、それを追っている人々が同じものを見るように、アッラーが守護された碑板から記された、知としての存在である書と、天使たちが人間の行動を記録した記録簿との間には合致が見られる。これもまた、人の生涯で起こるあらゆる出来事が、あらかじめ守護された碑板で確定されていたことを示している。ただし、運命に関する次の点は、よく把握しておかなければならない。すなわち、人は、守護された碑板であらかじめ確定され、記帳されているから、そのように振舞うのではないと言うことである。その反対で、この世界においてその意志を用いつつ、何を行なうかということがあらかじめ知られ、記されているのである。このことを、わかりやすい形でまとめるとするなら、以下のようになる。

アッラーは、その無限の知で、人が何を行なうかということをあらかじめ知られ、それを守護された碑板に記され、その複写を、その人の首に結びつけられた。人は、この複写の記帳事項を、その意志によって実行する。アッラーは、人が望むことを創造される。天使たちも、人が行なったことを一つ一つ記録する。

天使たちは記録を行なう。なぜなら、人の言葉や行動や意志による振る舞いが記録された書、あるいは生きざまのフィルムがあの世で彼の前に開かれ「あなたがたの記録を読みなさい」[ix]と言われ、人は自らを写した生きざまのフィルムを自ら見ることになり、反対することができないのである。

良心への記帳

魂の世界、あるいは模擬的世界、あるいは微粒子の世界に存在する際、私たちから約束をとりつけるという形で、アッラーによって記されたこの書の見えない文字を私たちは良心においてあたかも心の目で見出し、感じる。まだ精液や微粒子の世界に移る前に、私たちの全ての微粒子に指令を与える魂が、その固有の世界で、固有の耳で聞き、固有の言葉で返事をした、良心に記録されたこの記帳は、「私はあなたがたの神ではないのか?」という問いに「はい、私たちの神であられます」と答えた世界において施行される記帳なのである。クルアーンで最初の人間アーダムと妻のイーブがこの世界に来るずっと前に全ての人間の魂とアッラーの間にあった次の会話を述べられている。[x]

時について次のように述べている。

「あなたがたの主が、アーダムの子孫の腰からかれらの子孫を取り出され、かれらを自らの証人となされた時を思え。(その時かれは仰せられた。)『われは、あなたがたの主ではないか』。かれらは申し上げた。『はい、わたしたちは証言いたします』。これは復活の日にあなたがたに、『わたしたちは、このことを本当に注意しませんでした』と言わせないためである」(高壁章7/172)

胎児のための記帳

人が、母の胎内に宿った瞬間に、天使によって別の記帳と複写が行われる。天使たちは、大いなる書である守護された碑板から、その人に関する部分を「こういう人になる」という形で書くのである。(ブハーリーとムスリムハディース集)

3.神的意志という観点からの運命

ここでの神的意志(マシャアート)とは、アッラーが望まれること、望まれたことを事物に関連付けられること、関連付けられた時にはその事象が発生することを意味する。先に述べた二つの項目が、アッラーが全てを知における計画において確定され、様々な形で記されることを望まれることによって起こるのと同様に、この次の段階である「創造」もまた、望まれること、つまり意志が結び付けられることによって起こる。

クルアーンにおいて、またこの世界において、私たちはこの神的意志を明瞭な形で見て感じる。クルアーンで最も多く使われる語句の一つは「シャア」であり(五六回)、またその未完了形の「ヤシャーウ」である(百十六回)。これらの言葉によって示されるのは直接望むという意味であり、また創造に関するあらゆる段階も、アッラーのご意志の結果として出現していることがきわめて明白に語られている。将来行なうべき事について私たちが使うべき表現である[xi]「インシャアッラー」も「アッラーが望まれるなら」という意味である。

先にも述べたように、クルアーンにおいては神的意志に関わるものとされる多くの章句がある。

「かれは御望みのことを、遂行なされる」(星座章85/16)

「天と地、そしてその間の凡てのものは、アッラーの大権に属する。かれは御考えになられたものを創造なされる」(食卓章5/17)

「(祈って)言え。『おおアッラー、王権の主。あなたは御望みの者に王権を授け、御望みの者から王権を取り上げられる。また御望みの者を高貴になされ、御望みの者を低くなされる』」(イムラーン家章3/26)

「かれは御望みの者を罰し、御望みの者に慈悲を垂れられる」(蜘蛛章29/21)

「だがかれは、御望みの者を迷うに任せ、また御望みの者を導かれる」(蜜蜂章16/93)

「だがアッラーが御望みにならなければ、あなたがたは欲しないであろう」(人間章76/30、包み隠す章81/29)

このように、神的意志は、人の生をすっかり取りこみ、人生のあらゆる側面、場面において、自らの存在を感じさせている。さらに、全ての預言者の言葉、そしてクルアーンの表現に見られるものもまた、常に同じ真実である。宇宙という書物から私たちが読み取っている表現や、各人の自己や我欲において見出す意義もまた、これらと異なるものではない。後でも述べることであるが、太陽の出入りに私たちが干渉できないのと同ように、心臓の拍動や、まぶたの動きにさえも干渉できずにいる。第一章で触れた、可能性、後から出現したもの、秩序、英知、意図と芸術性といったそれぞれの論拠は、お互いに支えあいながら、私たちに同じ御望みと意志を示しているのである。

アッラーの御望みと意志は、存在にもあり、無にもまたある。すなわち、アッラーが無を望まれたものは無となり、存在を望まれたものは存在する。(ヤー・スィーン章36/82)

可能性という根拠の項で説明されているように、世界や、事象の存在と非存在は同等であり、存在するものの存在、存在しないものの非存在を選択するのもまた、アッラーの御望みと意志、力なのだ。

4.創造という観点からの運命

将来行なうであろう事をまず、私たちは前もって知り、意識にとどめておく。次に、これらの考えをもとに計画や企画を行なう。頭の中にあった計画を紙の上に記し、技術者のように設計していき、もし望むならばそれを複写し、複製をたくさん作ることもできる。第三の段階としては、この計画や企画を形にしていく。例えば、一つの建物、あるいは別の何らかのものを造る事を私たちが望んだとしよう。それを造らなかった場合、私たちはその計画における思考に、外側の衣装を着せなかったことになる。第四の段階は、私たちが知るところを実行に移すことであり、石やレンガ、鉄やセメントによって、壁や屋根によって建物を建設することである。アッラーの創造は、これらのどれにも似たようなものではなく、考えつくあらゆる事象の背後に存在するものであるが、それでもアッラーの英知にはあらゆる事項の案、計画が存在し、アッラーはそれらを守護された碑板で確定されておられるのである。それから、時の流れの中、その時がくると、これらはアッラーの力と御望みに結び付けられることにより、知という状態から力へ、無から存在へと移る。無であったものが存在するようになり、啓典の母体で記されているあり方に従い、知という状態から創造の段階へと移るのである。

だから、過去に遡る時の区切りの中で創造されたあらゆる事象について、私たちは「守護された碑板でこのように定められていたのであり、それに従って創造されたということなのだ」と言う。これに対し、目や、想像や、精神等が届くことのできない、私たちの知識や情報が及ばない、未来の時間に関しても「守護された碑板でどのように定められているにしろ、そのように創造されるだろう」もしくは「どのように創造されるのであれ、守護された碑板にそのように記されているのだ」と言う。

この点で、全てのムスリム、さらには全ての人々が言うべきことは「今まで私が何を話し、どのように振舞ってきたとしても、それは全てアッラーの英知にあり、また啓典の母体にも同様に存在するものである。これから私が話すこと、行なうことも、全て、私は知らなかったとしてもこの書に記されている。私の意志を用いて何を行なうにしろ、アッラーは無限の英知によって、私の過去も未来も全てご存知であるために、「意志によってこれらをこのように行なう」と記されているのだ。私はこれらの記述の範囲から抜け出すことはできない。しかし、それがそこで記載されていることは私を強制するわけではない。なぜなら私は何を行なうにしろ私の意志で行なっているのであって、アッラーも、私の意志によって私が行なう事項を、無限の英知によって知られ、記されたのであるからだ」というものである。

ここには、二種類運命による創造がある。

人の意志が何らかの影響力も機能も持たない、宇宙における全般的な運命による創造。これはアッラーによるものである。アッラーは全ての持ち主であられ、それらを御望みのままに処理される。御望みのことを行なわれるのに力が十分であるお方であり、望まれたとおりに実行され、誰も干渉できない。
しかしアッラーは、絶対的な意味で公正なる御方かつ支配されるお方であられる。しもべたちはお互いを抑圧しあうが、アッラーは彼らをいかなる形であれ抑圧されない[xii]

このように、私たちの意志、干渉や範囲が及ばない命令や創造には、アッラーの多くの英知があり、このような強制的な創造は多くの目的、意義、効果を持つ。地球の自転には私たちが関与してないが、完全に私たちに利点をもたらすのである。我々は、太陽に「光を送るな」と言っても太陽はやはり光を送り続けるだろう。しかし私たちはその熱や光のために、燃料を使ったこともなく、支払いをしたこともなく、税を納めたこともない。つまり太陽は、まったく見返りを求めないまま、完全に私たちに利点を与えつつ機能しているのである。また、私たちが飲用したものの残りは、別のある手の支配を受けて、腎臓でこした上で外に出してしまう。これは私たちにとって益にならないことだろうか?

人の自由意志に繋がっている運命とその結果として起こる創造。礼拝、断食、アッラーの道で奮闘すること、そして姦淫を行なわないことなど。

アッラーの御望みと創造は、この二つの運命と命令双方に関わる。つまり、アッラーは、私たちの意志の範囲外でこの世界に発生する事象を創造されることも、また人間の意志を視野に入れた上で命じられた事象を、人間自身が行なった結果として創造されることも御望みになられ、そして創造される。ただ、アッラーは、この二番目における行為のうち、一部の行為を好んで創造するのに対して、もう一部の行為を好まない。例えば礼拝を命じられ、それを創造することを望まれる。そしてしもべがその意志によって実行すれば、お喜びになられる。しかし憎悪や罪は好まれない。それでも人間が意志によってその方面に進んだとしたら、御望みはそれらに結びつき、創造される。しかしお喜びにはなられない。このように、アッラーは邪悪や残虐を好まれない。しかし人が、その意志によってこれらの方に進み行なおうとすれば、お喜びにはなられないがそれらをもまた創造なされる。だから、善と並んで、見かけ上あるいは真の意味での悪と見られる事象をも、創造されるのはアッラーであられる。

そう、私たちが自ら目にし、また章句からも理解できるように、アッラーは全ての事象の創造主であられる。しかし、私たちを完全に囲まれ、強制の中にいるとは感じないようにしよう、要因や私たちの意志の範囲外で発生する法則や出来事による圧迫や攻撃に対して窒息してしまわないようにしよう、私たちの意志を感じようと、私たちに一つの開かれた窓を残された。私たちを、手が縛られ、希望もなく抑圧された存在としてこの世界に放り投げられたわけではないのだ。そして、ボタンを押すと私たちの周囲を明るく照らしてくれる希望の灯明、あるいは私たちを暗闇から明かりの中へ、地から天へと高めてくれるエレベーターのスイッチ、あるいは巨大な工場を稼動させる歯車を動かし電灯を灯すスイッチとして、私たちに与えられたこの開かれた窓の名が、選択を行なえる自由意志なのである。

私たちに無償で与えられた二十四枚の金の価値を持つ二十四時間のうち、ほんの一部を私たちは金を与えてくれた存在に対し使う。しかしその代価として、この世界においては天使がうらやむほどの優位性に満ちた性質、そしてあの世における永遠の天国のあずまやを手に入れているのだ。いかに大きな恵みであろうか。20世紀の嵐の中で、良き者たちの中で、幸福の天空の星たちの後を走っている。なんとすばらしい運命だろうか。

5.運命に関する原則論

「カダー」は、守護された碑板、つまり啓典の母体でアッラーが認識された定めが、その時期が来るとしもべの意志と共に実現、実行されること、つまり決定の実行を意味する。

「アター」は「与える」というアラビア語の単語であり、アッラーが与えられること、お恵み、慈恵を意味する。

守護された碑板の他、アッラーには、取り消しと確認の碑板という名の書がある。守護された碑板とは、前にも述べたように啓典の母体であり、そこでは変更も削除もなされない。取り消しと確認の碑板とは、「アッラーは、御好みのものを取り消し、または確認なされる。啓典の母体はかれの御許にある」(雷電章13/39)という章句でも明らかにされているように、アッラーのアターの原則によって決定の一部が変更され、実行されない書の名称である。

アターは、カダーを変える。例えば、彼についての決定が実行に移される、つまりカダーとされる可能性のある一人のしもべが、自らの感情を用いてアッラーへの結びつきを持ち、近しさを獲得する。あるいは祈りや施しのようなアッラーのお気に召す行為を行ない、アッラーに近づき、彼が獲得したこの近しさのために、アッラーは彼に対して特別なお恵みを与えられ、彼に関するカダーを実行なさらず、彼にとって良い形に変更される。

例えば、しもべが何らかの罪の場に行く意志とそちらへの傾斜と共に、家を出る。彼がそういう希望によって意志のスイッチを押した為、アッラーもその傾向に対する結果を創造され、彼をその意図した場所へ行かせられるだろう。しかし、そのしもべには素晴らしいあり方、アッラーのお気に召すような一面、例えば夜の闇の中で流した涙、あるいはその車で何人かの友人を説話の会に運んだなどがある。これらはアッラーの慈しみをわき起こさせる。アッラーはそのしもべが行く道の途上で、彼を罪の場ではなくバラの庭園に連れていくような一人の友人に、彼を出会わせられる。そしてしもべがその意志に応じて受ける定めを変更される。このようにアッラーが、要因によって、あるいはよることなく、しもべに関する定め、もしくはカダーを彼にとって良いように変更されることも、アッラーの一つのアター(お与えになること)である。

この変更に対し、アッラーに「そういう意志を持ったにも関わらず、なぜそのしもべを酒場に行かせなかったのか。なぜ彼のカダーを、アターによって変更したのか」と問う権利は私たちにはない。アッラーは、お望みのものを、お望みの相手に、望まれただけ与えられる。お望みの者を導かれ、お望みの者を逸脱させられる。だから、私たちに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、私たちに起こるどんな災厄も、私たち自身からなのである.(婦人章4/79)しかし、しばしばアッラーは、悪や罪によって私たちが頭を下にして転落しようとしている際、私たちの手をとって救ってくださる。これはお恵みなのだ.このお恵みによって災いや難を取り除かれるように、教えへの憎悪や罪へ落ちていってしまうことをも許されないのだ。これらは、彼らにはそんな権利もなく、それに相応しくもないにも関わらず一部のしもべたちへ与えられる、王としての恵みである。

アッラーがアター(お与えになること)によってカダーを変更されず、意志を用いて行なおうとした事象を創造されたとしたら、それはまさに公正なものであり、これに対してやはり誰も何もいうことはできない。創造されない、と言うことが特別なお恵みなのである。クルアーンでしばしば述べられているように、アッラーは様々の種族、民族の滅亡を、教えへの憎悪、アッラー以外のものをアッラーに配する行為、残虐行為、反抗などの結果としてもたらされてこられた。しかしユーヌスの一族は、当然として与えられるところであった災いや破滅が訪れ始めた際、お祈りし、その結果アッラーもその災いを取り除かれた。つまりアター(お与えになること)は、ユーヌスの一族のカダーを取り消したのである。


[i] 訳者注 「予知」や「物事が起こる前に記録されること」といったものは被造物にのみ適用される。アッラーは過去と未来と現在を同時に見られるので、かれには通用しないし、されない。

[ii] 訳者注 イスラームは、「神は世界を創造したが、世界はそれ自体で活動している」という理神論を受け入れない。アッラーは宇宙を保持され、お望みのままにそれを支配される。

[iii] 聖クルアーン「本当にわれは死者を甦らせ、またかれらが予め行なったこと、そして後に残した足跡を記録する。われは一切を、明瞭な記録簿の中に数え上げている」(ヤー・スィーン章36/12)

[iv] 聖クルアーン「幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである」(家畜章6/59)

[v] 聖クルアーン「言ってやるがいい。「アッラーが、わたしたちに定められる(運命の)外には、何もわたしたちにふりかからない」(悔悟章9/51)

[vi] 聖クルアーン「啓典の中には一事でも、われが疎かにしたものはない」(家畜章6/38)

[vii] 聖クルアーン「アッラーは、御好みのものを取り消し、または確認なされる。啓典の母体はかれの御許にある」(雷電章13/39)

[viii] 聖クルアーン「一人びとりに、われはその運命を首に結び付けた。そして復活の日には、(行ないの)記録された一巻が突き付けられ、かれは開いて見る」(夜の旅章17/13

[ix]「(かれは仰せられよう)『あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは、あなた自身が自分の精算者である』」(夜の旅章17/14)

[x] あるハディースによると、人の魂は6週間目の胎児である時期にその人に入れられるとされている。

[xi] 聖クルアーン「何事でも、「わたしは明日それをするのです」と断言してはならない。「アッラーが御好みになられるなら」と付け加えずには。あなたが忘れた時は主を念じて、「わたしの主は、これよりも正しい道に近付くよう御導き下さるでしょう」と言え」(洞窟章18/23~24)

[xii] 聖クルアーン 「本当にアッラーは決して人間を害されない。だが人間は自らを害する」(ユーヌス章10/44)

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

fethullah gulen 52 b70 scaled

ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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