宇宙の本来のあり方と存在に関する中世ヨーロッパの概念は、カトリック教会の権威によって支持された。時がたつにつれて変化させられた啓典(聖書)を拠り所とし、近代科学は権威への脅威であると考え、そのため教会は、近代科学に対して激しい敵意を持っていた。その結果、科学と宗教の間の裂け目は広がり、それらは対立した。結局、宗教は、科学によって異質であると見なされる盲目的信念と慰めの儀式の領域に追いやられた。したがって、もはや科学は啓典の権威に従わなくなっていた。ダーウィンの進化論は、被造物が自らを起源とし自ら持続する、それはいつの日か完全に解き明かされるであろう法則に従い、それ自体が展開している一つの過程であるという考えを普及させた。

全ての科学者が、自然的要因もしくはいわゆる自然選択説がすべての現象について説明できると主張しているわけではない。この問題について議論する前に、私たちは、全ての預言者たちが、その活動した場所や時代にかかわらず、被造物の起源やその維持、そして人間と存在に関係する他のあらゆる重要な問題に関して、同じことを言っている点にも注目すべきであろう。多数の科学者が預言者たちと意見を共にしているのに対し、自然主義と唯物論を支持する科学者と哲学者は、彼らの説において大きく意見を異にしている。ある者は、命や意識と同様、創造性や永遠性をも物質によるものと見なす。他の人々が生命の起源を説明できず、機会や必要性といった概念に退くのにもかかわらず、一部の人々は、自然は永遠に自立自存していて、自然の要因と法則によって全てのことに説明がつけられると主張する。

次の部分では、神の存在と唯一性を明言することなく被造物について解き明かすことの不可能性について論じたい。

1.宇宙は自分で自分を造り出すことができない

存在が必須であるということは、存在しないことが不可能ということを意味する。存在が必須な事項であるもの以外はすべて、存在することと、存在しないことの可能性が同じである。存在が必須であることは同時に、それが始まりと終わりを持たないものであることを必要とさせる。

しかし、この世界で目にうつる全てのものは、猛スピードで終末へ向かって進んでいるのだ(脚注1を参照)。つまり、後から存在を始めたものの存在が必須であるということはないのだ。

そういう存在は、創造主を必要とする。必要とされる創造主と、必要とする被造物を同じであるとすることはただのたわごとである。創造主を必要とするものたちを創造した存在は、決して物質や物質的なものではあり得ないのだ。創造主はその存在が必須であるお方でしかあり得ず、そのお方こそがアッラーなのだ。

例えば、もし、ある物質が同時に自分自身を創造した力でもあるのならば、その力はどこに行ってしまったのであろうか。終わりのない存在ではいられないものは、始まりのない存在でもいられないということは明白である。だから、存在を超えたところで全ての存在を支配する、始まりも終わりもないあるお方がおられ、それがアッラーなのだ。

2.自然や自然の法則と原因は真の実行者または創造主になり得ない

原因と偶発性がこの宇宙を存在させることは不可能である。偶発性とは、規律に従っていないことを意味する。規律とは、確実で永続的なつながりを意味する。そこにはある計画、プログラム、秩序と規律が存在する。偶発性とは、でたらめさ、いい加減さを示すものである。学問では常に定理が用いられる。偶然の出来事は興味の対象ではなく、学問はそれと関わりあわない。学問や法則を、偶然と同等に見なすことは大きな誤りである。

言葉の上での議論はここまでとして、我々の判断に力を与えるある例を示し、このテーマを終えたい。

一人の人には六十兆の細胞が存在し、そして一つの細胞には百万程度のたんぱく質が存在する。一つのたんぱく質がそこに偶然存在するためには、1/10160程度の可能性しかない。一つのたんぱく質をもたらす理由が存在しない限り、この可能性のうちの一つが偶然実現する割合は、この数字の羅列が示すものとなり、それは不可能である。[i]

法則とその法則を定めた存在は同じではない。自然の法則を定めたのも自然の法則ということはあり得ない。そして、自然が自らにないものを他のものに与えることも不可能である。たとえば、人に見られる何千もの感情は、自然にはない。自然は、自らにないものをどうやって人に与えたであろうか。こんな可能性を誰が認められるであろうか。

自らよりも完成度の高いものを創造できない石や、土や、空気や熱や光からなる自然が、どうやって人間を創造できるであろうか。

(ア) 法則や原因といったものは事象と共に成り立つものであり、それと切り離して考えることはできない。物質を伴わずに存在することは不可能である。こういった原因を、事象の根本、真髄、創造主と見なすことはぺてんや詭弁そのものである。事象や作用を生み出すものは摂理や原因ではない。逆に、自然の法則や原因は、存在している事象からそしてその作用から、生じるものなのだ。
 星や惑星は、軌道上を確実な定理に従って移動する。しかし、ニュートンがそのことを発見したからといってこれが行われるのではない。創造され、そういう形で定められているからこそ、それを続けているのだ。ニュートンや、彼のような人々が行なったことは、この世界に事象と共に設けられた摂理を見出し、それに名をつけたということにとどまるのだ。

(イ) 摂理や原因群については、その存在も不在も、同程度の可能性をもつ。被造物を物質とする条件は、ここでも通用するのだ。物質は、その存在を決める理由なしで存在することができないことと同様に、摂理や原因も、それらをうながす理由がないかぎり存在はしない。これは存在し得ることの必須条件である。このように自分が存在することさえ理由を必要とするものが、それ自体創造者となることはあり得ない。なぜならそれ自体が創造主を必要としているからである。

(ウ) 摂理や原因は後に発生したものである。だから、始まりを持つものは終わりなしではいられないという言葉は、摂理や原因においても通用する。被造物が他の被造物によって創造されたと考えることは、被造物が連鎖しているとすることであり、これは迷信じみた思考である。
 摂理や原因は、物質と同様、無に向かって進んでいく。学者たちは物質が分散し、星が爆発し散ってしまい、そして最後の審判が実現するという結果をもたらす多くの理由を示す。有限であり、崩壊せざるを得ないような存在は、創造者ではあり得ない。

(エ) 摂理や原因の存在は、他の原因を必要とする。自らの存在の原因に自らがなることはできない、そしてそれ故にそれぞれが何かの結果である。この摂理や原因は、常に他の原因を必要としている。無限につながっていくことのない原因は、どこかで止まらざるを得ない。これは以下のような例で表すことができよう。すなわち、木の原因となっているものは種であるが、種の原因は何か?
また、鶏はその原因である卵に結び付けられる。卵はどの原因に結び付けられるべきか?
 あるいは、一つのりんごを考えてみよう。りんごの原因として花と種、花と種の原因として枝と幹、それらは種を原因とし、種は土の原因をうけ、土はそこに含まれる要素や熱、光、空気を原因とし、さらには地球と、地球の傾きを原因とする。こうして繰り返していくと重力の法則にも行き着くことができよう。しかしそれでも問いはそこで終わることはない。「それは何を原因とするのか?」という問いは続くであろう。しかし結果としてどこかでとどまる必要を我々は感じる。それこそが、創世以来の最初の原因なのだ。「で、その人は誰に?」と聞く必要のないお方である。そうでなければ、すべての原因にそれぞれの神を考えなければならず、それはあり得ないことなのである。

(オ) 摂理や原因は真の、そして独自の存在をもたず、仮想的な存在である。一部の摂理や原因は、真の意味での、そしてそれ独自の存在を持たず、仮定的で想像上のものである。たとえば先に述べた重力の法則について考えてみよう。この名称は、存在する事象の説明のためにつけられたものであり、目に見え触れることのできる、実験室で観察できるようなものではない。目に見えるもの、聞くことができるものは、それのもたらす結果に過ぎない。つまり摂理というものは実体を持たない仮想的な存在なのである。種の成長における法則、水の張力の法則、DNAの暗号の法則、磁力の法則などはすべてこの種のものである。ここで早速一つたずねてみたい。
 「摂理や原因が、真の、独自の物質的な存在ではなく、仮想的なこの存在である。それにも関わらず、摂理や原因が、この宇宙に存在する驚異的な質量を持つ無数の物体群を、この上なく細かい計算に基づいて、どのように秩序を保ったまま動かすことができようか」
 目に見えないということを神の否定の根拠として使う者たちは、存在の第一の要素だと自らが認めているこの仮想的な摂理や原因をも見ることはできないはずなのに、それを信じる。そして、偉大な創造主が持っていると認めないその力を、摂理や原因に見出す。これはもはや一つの思想としてではなく、思想の腐敗と見なすことができるであろう。

(カ) 摂理や原因は、必要なほかの摂理や原因とともに、結果がもたらされる原因というものを形成する。無から何かを存在させるといった働きは持たないのである。一つの細胞を存在させるすべての摂理や原因をまとめることはできても、それらから生命を持った一つの細胞を生み出すことは絶対に不可能である。以前述べたように、生命を持つ存在が一つ現れるためには、何千もの原因が意識を持ち、均衡を保った形で集合することが必要となる。これは、原因という存在にとって可能なことではないのである。

(キ) 摂理や原因と、それによってもたらされた結果との間に適合性はない。摂理や原因は、それ自体無力で、非力で、単純で、知能をもたず、意志もない存在であるにも関わらず、そこからもたらされた結果はこの上なく完成された芸術性をもち、価値のある貴重なものである。つまり、原因と結果の間には、原因と結果という関係はあるとしても、一致や呼応関係はない。五十キロの体重の男が五百キロのものを持ち上げたり、子供が指に結んだ紐でバスを引っ張ったりすると見る者に驚きを与える。同様に、我々の周囲で存在するものや出来事なども、そこにおける原因と結果の間の適合性といった面から見るならば、大きな違いや人を驚愕させるアンバランスさを見出すことができるだろう。
 たとえば、我々が指をドリルのように使って石や岩に穴をあけようとしたならば、ただ指がぼきぼきに折れるという結果以外何も得られない。なぜなら、石や岩に穴を開けるということと、我々の手の指の硬さの間に、適合性がないからである。しかし、絹のように細くやわらかい葉脈によって、植物は石や岩を割る。タバコの紙よりもさらに薄い葉は、激しい暑さに耐え、鮮やかな緑を保っている。果実や、花や、枝や、巨大な木のプログラムを内に秘めた種のシンプルさ、小ささを見てほしい。
 最も完成された被造物である人間について、そしてその全ての能力や才能を核に含む、しかし、イスラーム法学上けがれたものとされている故にそれがかかったところは洗わなければならないと定められている、精液について考えてみてほしい。
 甘い缶詰にも似たその果実と、イチジクの木の種について、その種が木に比べるとほとんど見えないほどに小さいものであるという点についてよく考えてみてほしい。そう、こういった多くの例を考えていくうちに我々は次のことを理解し、認識する。すなわち、摂理や原因は、それが非常に些少なものであるにも関わらず、常に完全な結果をもたらすのである。これほどに完成された堂々たる結果の源やそれを存在させるもの、その創造主が、このありきたりで単純で無力で一過性の摂理や原因であることはあり得ない。
 そもそも、原因群が、自身にない特質をほかの存在に与えられることはまったく考えられないことである。少し後には無となって消え去るのを目にしながら、人における永遠という感覚を一滴のけがれた水と結びつけるのはばかげたことではないだろうか。

(ク) 法則や原因は創造主ではありえない。なぜならそれらには相反するものが存在する。そもそもこの世界では、あらゆる存在にそれに相反する存在がある。ある意味、ものはその対である存在によって認識されるのだ。引くと押す、プラスとマイナス極、冷たさと熱さ、美と醜、夜と昼、物質的と精神的、これらはすべて対になるがゆえに認識される。認識されるために対であるものが必要であるようなものは、創造主でも神でもありえないのだ。
 芸術家は、その作品と同じ種類ではできていない。家を造る人と家は、同じ類ではない。そうでないと、すべてが自生しかつ自生しない、といったような、論理的に破綻した話になってしまう。

(ケ) 時には、すべての原因が整っているのに結果がもたらされないことがあり、これは、結果をもたらす力が原因群からのものではないことを示している。時には、原因が形成されていないのに結果がもたらされることもある。これらはすべて、そのことが行われるかどうかという点において必要性と意志がご自身にあり、その力にゆだねられているある存在を示す。その存在とは他の何者でもなく、ただアッラーであられる。

(コ) 原因群において最も優れ、能力のあるものは人である。物事や出来事などは従的な存在とされている。人は、知恵と、意識と、意志によって特性づけられる存在である。しかしこれらにも関わらず、最も無力で、非力で、多くの必要性を抱えているのもまた人間である。たった一つの菌に負けるし、この上なく些細な原因に対して降参してしまう。必要とするものは限りなく、その力は無に等しい。こうした特質を持つ人間は、どの原因に対して手を広げて祈るのだろうか? 必要としている無限のものを誰から求めるのだろうか? しかも、原因群の中で最も優れているのが人間自身であるならば。
 そう、人間にも、手を広げて祈ることのできるお方が存在する。そのお方とは、原因群の力を数珠の玉のように自由に動かされるお方、アッラーであられる。

3.創造主の唯一さにはどうして容易さが伴うのか?

すべてのものをある創造主の創造物とするのが、一つのものがすべてのものによって造られたとするよりとても筋の通った説明である。一つの微粒分子創造のためには全宇宙が必要である。全宇宙を創造できない存在であれば、たった一つ微粒分子でも創造することはできない。なぜなら存在するものの間にはお互いに必要性やつながりがあるからである。

管理という点で、ある軍隊を一人の司令官の命令の元に置くことは非常に容易である。逆に、軍隊の軍人の数だけ、同じ数の司令官に従わせるなら、作業も管理も困難となる。

全宇宙の創造をアッラーによるものとすることと、一つの分子の創造をアッラーによるものとすることには違いはないのだ。逆から表現しても同じことが言える。つまり、一つの分子を創造したのが誰であれ、全宇宙もその方が創造されたのである。もっと明白に言うなら、創造という点において、分子と天体、細胞と鯨、しずくと大海、一部と全体、などの間に差はないのである。天体を創造できないものは分子を、鯨を創造できないものは細胞、大海を創造できないものはしずくを、全体を創造できないものはその一部を支配し操ることができないのである。


[i]訳者注 硬貨を10個用意して、それらに1から10までの記号をつけるとする。ポケットにそれらを入れてみよう。そして、それらをよく混ぜよう。今度は、それらをポケットから出してみよう。一回出すごとに、出した硬貨はポケットに戻す。ナンバー1を取り出す可能性は1/10となる。ナンバー1とナンバー2を連続して取り出す可能性は1/102(百分の一)である。続けて1,2,3を取り出す可能性は1/103である。1から10までを連続して取り出す可能性は1/1010(百億分の一)というありえない数字になる。

とても簡単な問題を扱うこの例は、いかにこの数字が大きなものとなっていくかを示すものである。

私たちがこの世界で生きていくためには、非常に多くの条件が必要不可欠である。これらの全てが、この世界で、偶然に、同時に、それぞれ適切な形で存在することは数学的に不可能である。したがって、この世界には何らかの形での英知による指示があるに違いない。もしそうであるならば、それには何らかの目的があるに違いない。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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