アッラーの存在を示す主要ないくつかの論証

Home » Japanese (日本語) » 彼の作品 » イスラームの信仰の元で » 創造主の存在の論証および創造の意図 » アッラーの存在を示す主要ないくつかの論証

存在することを証明することは、存在しないことを証明することよりもたやすい。りんごというものがこの世界に存在することを証明するには、りんごを一つ示すだけで事足りる。しかし、それが存在しないと主張するならば、世界中を、さらには宇宙をも巡り、それでやっとそれが存在しないことを証明できるのだ。これは不可能と言ってもいいほどに困難なことである。だから、存在しないということを証明することはできないといえるかもしれない。

証明できる者が二人いれば、それには何千人もの否定者よりも重きがおかれる。二人が同じ事実に到達したとすれば、何千人もの人が狭い視野で個人的に考え、それを否定したとしても意味がないのである。

神の存在はどんな議論も必要としないほど明白である。聖人的な学者たちの中には、神こそは最も明白な存在であり、洞察を欠く人々が見ることができないのだとさえ述べたもいた。他の人たちは、神の明示の強さが、ご自身を直接的な認識から覆い隠すのだと述べた。しかし、実証主義と唯物論は、ここ数世紀に渡って科学と人々に大きな影響を与えてきたので、神の存在のようなテーマについての議論が必要とされている。現代において普遍的となっている「科学的な」世界観は、存在を直接的に知覚できるものごとに限定し、はるかに広大な規模で目に見えないものごとを覆う。その結果生じる覆いを取り除くため、不可欠である神の存在について、伝統的な例示を再確認してみたい。

その前に、一つのシンプルな史実を考察してみよう。人類の誕生以来、圧倒的大多数の人々は、神が存在すると信じてきた。これだけでも、神の存在を証明するために十分である。信じない人は、信者より賢いと主張することはできない。これまで、最も優秀な学者、科学者、研究者の一部分は信者であったし、今でもそうである。全ての預言者や聖人たちがそれぞれの分野での専門家であったように。

加えて、「何かの存在を承認しないこと」と、「存在しないことを承認すること」は、往々にして混同される。前者は否定や拒絶に過ぎないが、後者は論拠を必要とする判断である。今まで誰も神の非存在を証明したことはないし、それは不可能である。無数の議論がその存在を立証するのである。この点は、以下の比喩によって説明される。

宮殿の扉のうち九百九十九ヶ所が開いていて、一ヶ所だけ閉まっていたとしたら、その宮殿に入ることは不可能だと主張することはできない。否定する者たちは、いつでも閉まっているその唯一の扉に注目を集め、見せ付けようとしている。そもそもその扉も、彼らの眼を覆う覆いのために、彼らの精神世界に対して閉ざされているだけである。眼を閉じなければそれで十分なはずなのだ。九百九十九ヶ所は開いているのだから。しかもいっぱいに開かれているのだから。

神の存在への扉は、心からそこに入ろうと思うのであれば、誰に対しても開かれている。ここで、それらの扉、論証のうちいくつかを示そう。

1.存在を確定するお方

存在と無は、同じ可能性においてあり得る。この世界はそういう可能性を包含するのだ。存在し得るのと同様、無でもあり得る。存在する場合も、その存在状況が無数にある中で、そのうちのどれであれ適用となる可能性がある。つまり、存在するものと同じくらい、存在していないものにも、存在する機会はあるのだ。全てのそういった可能性は、外部からの要因に依存する。だからまず、存在すること、それからそのあり方、状態を、存在しないこと、他のあり方と状態に対して選んでいる誰かがいるのだ。だから、存在することとそのあり方と状態を決める誰かがいるのだ。

2.変化するものは最初から存在し得ない

この世界は、常に変化していくものである。変化するもの全てに始まりがあり、最初から存在していたものではない。熱力学の法則によるならば[i]物質が常に無の方向に進んでいくこと、宇宙が常に膨張していること、太陽が猛スピードで過ぎさって消滅へと向かっていること、などといった事実は、存在に始まりがあることを示している。後から存在し始めたものには全て、それらを創造したものがある。要因のない結果、作り手のない芸術は存在しない。要因は鎖のようにつながって限りがない。だから、常に変化し、無期限ではなく、後から存在し始めた、そして最初の要因を必要とするこの現象界にはある主が存在する。

3.命という神秘

命は神秘だ。それは、目に見えるものだけでは説明がつかないほど、考えさせられるものであり、創造主の力を証明するという点からも、明瞭な存在である。それは直接、創造主を示し、明らかにする。謎であることによって学者達を、そして明瞭であることによって一般の人々をも魅惑する魔法のようなものである。命は、まるで「私を創造し存在させるのはただ全能の神である」と語っているようである。

4.物事の均衡と完全性

全ての被造物は、自らがその構成要素において均衡と完全性をもっている。それと同様に、全世界もそれらを構成する様々な存在群において均衡と完全性を持っているのだ。これは、秩序や規律といったものの存在を知らせる間違いのない証拠である。そしてそれは、規律を与えているある存在を示すのだ。

全ての被造物、そして宇宙全体は、それら自体とその相互関係において、すばらしい調和と命令を明らかに示している。一部分の存在は全体の存在を必要とする。そして、全体も、その存在のために、すべての部分部分の存在を必要とする。例えば、変形してしまった一つの細胞が、全体を破滅させうるように、一つのざくろはその存在のために、空気、水、土、そして太陽の、互助的な、そしてバランスの取れた協力を必要とする。この調和と協力は命令を出す存在を明示する。その創造者は、全ての関係と特性を知って、あらゆる事柄を命令することができる。この命令の創造者が神なのだ。

5.作品の芸術性

原子から人間まで、細胞から惑星まで、全宇宙には人を圧倒するほどの芸術性がある。この世界に存在する全ての作品は、大きな芸術的価値を持ち、非常に貴重であり、非常に短時間で容易に成し遂げられ、

非常に多数存在し、複雑で、非常に種類が多くて、継続的である。

一般的に、短時間で、たくさん、簡単に、そして複雑な状態で作られた作品には芸術性は存在しないものである。ただ、それを作られるのが全知全能アッラーであれば状況は一変する。相反すべきものが同時に存在するようになるのだ。

6.意識的な事象とその目的

全ての創造されたものには、何らかの意図がある。環境に関する例をあげてみよう。どんなに無意味に思えるものにも、重要な役割と目的が存在する。あらゆる事項、活動、および出来事には、多くの意図がある。不合理で、何の目的もなく、無意味で、無駄と見なされるような状態を示すことは、全くないのである。植物であれ、動物の世界であれ、あるいは様々なものや事象において、意識や意志を持つものはないのにも関わらず、連鎖的な目的が追及されているのだ。この事実は、創造において、目的を追求するある賢明な存在を必要とする。実のなる木の目的は果物をもたらすことであり、その生涯はその目標に向けられる。同様に、「創造の木」は最終的で最も包括的な果物として人類をもたらす。人類の創造までのチェーンは、明らかに最終的な目的に方向付けられる。創造における英知と意図は、明らかに神を示している。

7.恵みと糧の授与

全ての創造物、特に人間が必要とするものは無限にある。しかしその力は、無といっていいほどである。創造物は必要とする物を思いもかけなかったところから、思いもかけなかった形で、どのような必要性であれその通りのあり方で与えられる。こういった助けが与えられること、要求に応じられることは、次の事項を証明する。すなわち、全ての必要性に慈悲の手が応じているのである。宇宙全体で実行され、今後も無限に実行されていく、この慈悲と慈愛と恵みの授与、これらを行なうことができる資質を持たれ、不足という資質からは遥か遠い存在であられる聖なる存在を示し、証明しているのである。

8.相互援助

お互いに近いものから遠いものまで、全ての被造物はお互いの援護に駆けつける。この相互援助は非常に包括的であり、ほとんど全てのもの、水、火、および土、太陽、空、植物、動物は、実によく調えられた方法で相互援助において、あたかもある完全体の一部であるかのようにお互いを補完しあう。

バクテリア、みみず、そして土、空気、水、熱は協力し合い、同じ目的のもとに集い、植物を援護している。そしてこの支援関係は継続されているのである。私たちの身体の細胞、器官は、私たちを生かすために一緒に機能する。

知恵や意識をもたないこれらの存在の、知能や意識を驚愕に陥れるほどのこの活動は、後ろ側で、その存在が絶対である、あるお方の英知に満ちた働きであることを示し、この相互援助という言葉で「アッラー」と訴えているのだ。

9.清潔さ

身体から地球、地球から宇宙のかなたにいたるまで、この世界における清潔さ、清らかさは、それ自体が証拠として「清らかな」という御名によって讃えられるある存在を示している。

人類が空気、水、そして土壌を汚染し始める前は、自然界は絶えず洗われ、浄化されていた。今でも、近代的な生き方がまだ及んでいない多くの地域では、まだ元の純粋さを保存している。あなたは今まで、自然がなぜこれほど清潔なのかと考えたことがあるだろうか? 多くの動物が毎日、そこで死ぬのに、森林はなぜこれほど清潔なのだろうか? 夏の間、生まれるすべてのハエが生き続けたなら、地球は完全にハエの死体の層で覆われていただろう。自然においては何も浪費されることはなく、それぞれの死には、新しい生の始まりがある。例えば、死体は、土の中で分解され、同化される。その成分は植物に還元される。植物は、動物や人間の胃で死んで、より段階の高い生が促進される。死と再生のこのサイクルは、宇宙を清潔、純粋に保つ一つの要素である。バクテリア、昆虫、風、雨、ブラックホール、有機体の中の酸素は、みな、宇宙の清潔さを保持する。この清潔さは、その属性に清潔さ、純粋さを含む完全なる神聖な存在を示す。

そう、地面をきれいにするバクテリア、小さな昆虫類、蟻や、多くの肉食の鳥たち、風、雨、雪…。海には氷山や魚、空には大気、宇宙ではブラックホール、我々の体の組織において血を清める酸素、我々の精神を苦しみから救う霊的なそよぎ、これらはみな、清らかなお方の御名を知らしめるものである。そしてその御名の背後の聖なる存在を語っているのである。

10.人の顔

最初の人間アーダムと妻のハウワー(イヴ)が創造されて以来、無数の人間が生きてきた。皆、同じ起源(精子と卵子)を持ち、またそれらも、親たちが食する同じような食物によって形成され同じような構造、要素、器官を持つにもかかわらず、全ての人が独自のな容貌を持っている。科学はこの奇跡的な独自性について説明することができない。DNAや染色体で、この点を説明することはできない。この違いは、この世界における個人の最初の分化まで遡るものである。

そのうえ、この相違は容貌だけに見られるのではない。全ての人間は、性格、願望、志、能力などにおいて独自性を持つ。同じ種に属する動物は、皆ほとんど同じであり、振舞いの違いを示さないが、人間はそれぞれが、人間性というより大きな世界において、その人自身の世界を持つ、それぞれ異なった種のようである。

本来は全ての被造物についていえることであるが、テーマを特定するために、人間、そして人間個人個人をお互いに異なるものとする上で最たる働きを持つ人間の顔について、ここでは触れたい。

誰のものであれ人の顔は、最も細かい部分にいたるまで、それ以前に現れた何十億もの人の誰であれ、その顔は似ていない。これは、それ以降に現れる人々についても同様である。

ある部分、他のものとそれぞれ同じであり、またある意味ではそれぞれ異なる何十億もの絵を小さなスペースに描き、それぞれを同じような他の何十億の絵と区別すること、あらゆる可能性が無限にある中で一つのあり方におさめること、これは当然、全ての被造物をあますところなく把握し、それぞれに形を与える力と英知をお持ちのアッラーが力強く宣言されるある布告なのだ。

ある顔にある器官を、他の顔にあるものとは異なる形で創造すること、全ての眼を完全にそれぞれ他の眼から区別させることは、例えその眼に輝きがなかったとしても、心を持つ人なら誰にでも、これら全てを創造され、無限の英知で保持されるあるお方を示し、知らしめているのだ。

11.生物の生まれつきの才能

アヒルの子は、卵からかえるやいなや泳ぐことができる。卵から出てきた蟻は、すぐに巣を掘り始める。ハチは、わずかのうちに芸術的奇跡であるその巣を作り始め、クモも刺繍のような細かさの巣を作る。

これらから我々は次のことを知ることができる。すなわち、こういったものたちは、別の世界で身につけた知識、天性の才能によってこれらをこなしているのである。しかし、人間は知性の面で全ての被造物の中で最も完成されたものであるにも関わらず、全てをこの世で学ばなければならないのである。

つまり、彼らにこういった能力を与えているのは彼ら自身ではなく、全てを英知によって行われるお方であり、彼らにこのような恵みを与えられておられるのである。

何キロも先の地点で卵を産み、それを残して元の地点に戻る習性のあるウナギの幼魚たちは、卵から孵るやいなやその場から出発し、その親を見つける。これを神聖な導きという以外に何と表現できるだろうか? 動物達に見られるこの絶妙さは、アッラーが与えられた才能と見なすことこそが最も論理的で知性的な解釈となろう。それ以外の解釈は見せかけの真実からできているものに過ぎない。

12.魂と良心

本質について知ってはいないものの、その存在を誰も疑っていない魂(ルーフ)や、それが我々の体に及ぼす作用のあり方もまた、アッラーを知らしめる論拠の一つである(魂についてパート2第2部を参照)。

魂はこの現象界へただ発達し、そして成熟するためにやってきたのだ。この英知が結果にもたらす影響についてはここでのテーマではないため、私たちはここではただそしてそれが証明している点について触れるのみでよしとしたい。

現象界の本質的部分とは一切つながりを持たない魂が、その固有の世界からこの世界に送られてきたということ、ここで成熟させられるということそれが明らかな計画に沿って進められること、これらは疑いもなくアッラーを示す最も重要な根拠の一つである。

さらに、人における内面的直感、一見理由もないような状況で人が神へ向き直りそちらへ進んでいくこと、こういった出来事が無数に繰り返されてきたこともまた、次のことを明らかに証明している。すなわち、人においてその創造の時から存在する良心というもの、真実の神を見い出すために最も重要な手段の一つでもある良心というものは、自らの創造主に従うほどにそれに感じ入り、それに結びついているのである。

13.善に対しての愛情と悪に対しての憎悪

どの人にも、善や美に対して愛情を抱き、逆に悪や醜さに対して憎悪を抱く感情があることは、反対意見を思いつく人もいないであろうほどに明らかな真実である。

こういった感情は、道徳的に振る舞うことや善いことを行なうことへの傾向をもたらし、また徳に反する醜い振る舞いに対して嫌悪を抱き、それを避けることを助けるものである。このあり方は、次のことを証明している。人に善や美を命じ、人を悪や醜い行動から遠ざけるしくみを保持しておられるのが誰であれ、人のそういった感情を与えられるのもまた、そのお方なのだ。そのお方というのがアッラーであられることは疑うべくもない。

宗教史は、人がいつの時代であれ宗教をもたずにいたことはない、ということの証人である。迷信的なものであれ、おかしいものであれ、ほとんど全ての時代で人は何かの教えを信じ、それのもたらす精神的システムに従ったのである。更に、信じることは一つの必要事項でもあるのだ。それが人間の天性のものであるからである。人の生まれながらの性質にこのような特徴を与えられたお方と、我々に信じることを命じられたお方とは同じ存在であられる。それが、アッラーなのだ。

14.永遠への思い

人は、何千もの感情を備えている。全ての感情は、物質を超えたある世界からのメッセージという本質を持っている。ただ、人はもう一つの感情を持っている。それは、直接アッラーを知らしめるものである。その感情とは、人が持つ永遠への思いである。

この感情によって人は常に永遠を求めて努力を続けるのだ。有限であるものは何であれ、人に真の喜びを与えることはない。

そしてこの感情は、有限である何かの存在が人に与えたものではあり得ない。限界を持つ存在は決して、永遠という感覚を与えられないのだ。

この感情の存在は事実であり、否定はできない。だからこの感情を我々に与えられたのは、我々をこの感情とともに創造されたお方なのである。そして、永遠の命をもまたこのお方がお与えになるのである。

15.一致

十人の嘘つきな人たちが次々とやってきて、家が火事だと伝えた場合、彼らがそれまでの生涯で正しいことを語っているのを聞いた覚えがなかったとしてもなお「もしかしたら」と、我々はそれを信じるだろう。なぜならそこには一致、というものが存在しているからである。

ここで我々がテーマとしている一致は、何千人もの預言者、何十万人もの聖人、何百万人もの信者達の間に見られるものなのだ。様々な土地で様々な時代を生きた人々が、アッラーは存在する、と言う真実において合致しているのである。

十人の嘘つきが一緒になってついた嘘に重きを置きながら、何百万人もの、しかも人生で嘘をついたことのない預言者達や聖人たち(脚注8を参照)を含むこの大きな一致を信じないのはどうしてであろうか。その振る舞いを知性的ということはできるだろうか。

16.クルアーン

クルアーンがアッラーの言葉であることを証明する全ての論拠は、同時にアッラーの存在をも証明するものである。クルアーンがアッラーの言葉であることを証明する多くの論拠があり、これらは関連するイスラーム書籍において仔細にわたって解説されている。ここで、それらの論拠をこういった書物に譲ることとしたい。そう、これらの根拠は全て、その独自の言葉でアッラーは存在する、と告げているのである。

17.預言者たち

預言者たち、特に預言者ムハンマドが、預言者であることを示している全ての論拠もまた、アッラーを示す証拠に含まれる。なぜなら預言者たちの存在の意図は、タウヒード、すなわちアッラーが存在すること、アッラーが唯一の存在であることを示すことだからである。だから、それぞれの預言者が預言者であることを示す全ての根拠は同時に、アッラーの存在の証明でもあるのだ。預言者たちが預言者であることの論拠については、ここではテーマからずれることになるため、詳しく言及することはしない。一人の預言者が、アッラーの使いであることを示す全ての証拠が、同じ力強さで、あるいは更にもっと力強く「アッラーは存在し、唯一であられる」と語っているのだ、ということを述べるに留まろう。


[i] 訳者注 熱力学第二法則は増大の法則とも言われ、あらゆる物理法則の中でももっとも確からしいとされている。エントロピーとは系(システム)無秩序の度合いを表す概念である。一言で言えばこの法則は「形あるものは時間によって崩れる」ということである。

Share:

More Posts

fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

fethullah gulen 52 b70 scaled

ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

tr haber 16281 pakistan deprem 87a

心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

dun irtica bugun camia 44f

恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

verslaafd aan gemakzucht eb1

泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

philip clayton 1 a74

名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

hasbi gulen19

不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

Send Us A Message