1.クルアーンで説明される運命

「運命」(カダル)とは、アラビア語で計ること、形を与えることや、形成することなどを意味する。詳細な内容に入る前に、運命に関する諸章句を紹介することが有益であろう。

「幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである」(家畜章6/59)

「天と地の隠されたことは、等しく明瞭に書冊の中に(記されて)ある」(蟻章27/75)

「本当にわれは死者を甦らせ、またかれらが予め行なったこと、そして後に残した足跡を記録する。われは一切を、明瞭な記録簿の中に数え上げている」(ヤー・スィーン章36/12)

「いやこれは栄光に満ちたクルアーンで、守護された碑板に(銘記されている)」(星座章85/21~22)

「かれら(不信心者)は、『もしあなたがたの言葉が真実なら、この契約は何時(果たされるの)であろうか』と言う。言ってやるがいい。『本当にそれを知るのは、アッラーだけである。わたしは公明な警告者に過ぎない』」(大権章67/25~26)

カダルの他、しばしば使用されるもう一つの用語は「カダー」であり、一説によればカダルと同義語であるが、通説によれば、カダルはアッラーの神意、カダーはその神意の施行、執行や決定等が実行されることを意味する。

次に、カダルについていくつかの定義を挙げる。カダルとは、無限の知の持ち主であられる、時の三区分(過去・現在・未来)を一点であるかのように見通されるアッラーが、ミクロ世界からマクロ世界まで、微粒子から星の系統まで、人間とその将来も含めて、最小から最大に至るまでの全世界を、知において、知的様態として、分類と確定して計ることである。また、カダルとは、アッラーが、これらの知的様態を潜勢態(可能態)から移動させ、現勢態(現実態)において創造するために、あらかじめ全てを「明確なり書冊[i]」において記して確定することである。

さらに、カダルとは、人の意志とアッラーの創造の一致である。つまり、人は何らかの事をし始め、自由意志によってその事に携わった時、アッラーがお望みになればその事を成就させられるのである。従ってカダルとは、人間の自由意志とアッラー自身がお望みになられることを、それが発生する前に無限の英知によってご存知であるアッラーが、実現するものとして定めたことを指す概念である。

人の自由意志と獲得力が無いとしてカダルは考えられないのである。この世界は、運命、計画、プログラム、基準、均衡によって支配されている。

「またわれは大地を伸べ広げて、山々をその上に堅固に据え付けた。そこで凡てのものを(妥当な)均衡の下に、生長させる」(アル・ヒジュル章15/19)

「かれは天を高く掲げ、秤を設けられた」(慈悲あまねく御方章55/7)

この世界のいたるところまで、カダルが支配的である。それ以外のものを考慮することができないほどである。世界を創造されたアッラーは、種の分裂や人間の誕生から星や銀河の誕生までの万物のなかに、無限の英知によって計画やプログラムを確定され、ある運命を与えておられる。過去から今に至るまで、世界中の学者や研究者たちが何千点の作品によってこの均衡、つりあい、そしてこの神意の通訳を務めようとしてきた。一部のマルクス主義者でさえ「決定論」といったような様々の名称のもとに承認していた普遍的原理は、敵も味方も、信仰する者もしない者も皆がこの世界に一つのプログラムと運命が存在することを承認している、という観点からとても重要である。ここで言うまでもないがマルクス主義者たちが認識していた意味での決定論は、私たちのテーマであるカダルと違うのである。同論をここではただ、異なる意味であっても、カダルという観点から取り上げてみただけである。とはいえ、イブン・ハルドゥンのような一部のイスラーム学者も、ある意味、決定論に賛同しているように見られる。最近の西洋の思想では、例えば実証主義において見られるように、この決定論を社会生活にまで拡大している。しかし私たちは、このような諸主義主張を巡って、イスラームの主流派の思想に従い、「おそらく」と言う条件を付けて語る。その範囲内において私たちは、人の意志をも含むあらゆる事物において、普遍的なあるカダルが支配していることを信じるのである。上述のように、様々な観点から捉えてカダルをよりわかりやすくするために、下記において、いくつかの比喩をあげる。

そう、一つの時計にしても、一つの建物にしてもそれを設計する際、私たちはまず設計図や計画図を作成し、検討や検証を行ない、細かい基準を用いて、将来現れる形について評価する。それと同様に、この目が回るほどのシステム、原子の世界と人々との間に、そしてそれ自体の中に存在する結びつきが、一定の計画やプロジェクトの存在しないところにあるということは考えられるだろうか? 時計のように壊れることもなく、最も小さなものであれ衝突などを起こすこともなく、実現され続けるこの物質世界の均衡やつりあいの,千分の一ほどのシステムでさえ、巨大なコンピューターを駆使しても実行できないのに、この想像を絶する大きさと華麗さを伴うこの巨大な世界を、計画や設計を伴わないものだと見なすことは可能だろうか?

もう一つの例えは、種に関するものである。種は、カダルを内在する小さな箱のようである。将来現れてくるあらゆる場面と共に、その木の一生がその種には記録されているのである。構造的に皆同じように見える、そして同じような単純な物質から成り立っているように見える多くの種が地に落ちると、様々な花、無数の種類の植物、木が出現するのである。種は、運命がそれ自身のために裁断した、あるいはそれ自身のために定められた寸法の中で、科学的、精神的なあり方、形をとり、それ自身に特有の姿、衣装を身に着けて土の上に現れ、その姿を示す。何千もの仕立て屋が何年も仕事を続けたとしても、この多数の花や植物は言うまでもなく、一本の木のためにさえも、このような衣装を縫い上げることはできないであろう。しかし、無数の木々が、おそらくは何十万年もの間、寸法や裁断や縫製の誤りもなく、あたかも特別にあつらえられた衣装を次々に脱ぎ着してきたのである。これを行なっているのは木々自身であろうか、それとも、それらにその型や形、運命を与えられる偉大な計画者であろうか?

特定の運命やプログラムに従うものであるがために、一滴の精子は決して偽りを語らない。染色体の語ることば、RNAやDNAの違えられることのない任務、細胞たちの布告によって、口、舌、唇、目、眉、耳、容貌、感覚、能力といった多くの局面を経て「私は人間になる」と言い、そして人間になるのだ。

宇宙物理学者によれば、宇宙のあらゆる地点においてどの様な存在があるのか、それらの地点においてどのような磁力の影響がどういう形で存在するのか、わずかではあるがわかっているという。なぜなら幾何学的な位置や力の強度は前から存在していたからである。コンピューターによる発見からも明らかであるように、原子から銀河に至る宇宙において創造されたあらゆる被造物は、その創造において共にプログラムされているのだ。そう、全てはまず『保護された碑板』に記され、確定されたのである。

2.夢と運命

正夢もまた、運命の存在の論拠(証拠)である。魂に関する項で既に述べたように、将来起こる出来事を前もって夢で見るということ、その時が来るとそのとおりにことが起こるということは、あらゆる出来事が前もって定められていたことを明らかにするものである。そう、私たちは夢の中で、私たちの生の書の一ページを前もって読み、それから自分が読んだものが実際に起こるということを目撃してきている。

クルアーンにおいて、預言者ムハンマドや聖人たちが将来起こることを知らせていることもまた、全てにおいて運命が支配を行なっていることを示している。もし、記されることもなく、明らかにされることもなく、決定もされていないのであれば、何をどうやって知るというのだろうか?。

3.アッラーの無限の英知

アッラーは、その無限の英知によって、過去や現在や未来を、それらが一点であるかのようにご存知であられる。

意志と運命との関わりをさらによく把握するために、全てをご覧になられるアッラーの無限の英知について、少しでも理解できるべく、いくつかの章句を例として示したい。

「アッラーはかれらの行なっていることを知っておられる」(御光章24/41)

「自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる」(雌牛章2/216)

「かれは天にありまた地にある一切を知っておられる」(イムラーン家章3/29)

「地上の凡ての生き物で、その御恵みをアッラーからいただいていない者はない。かれはそれらの居住所と寄留所を知っておられる。凡てはっきりと書物に(記されて)ある」(フード章11/6)

「かれは、かれらの前にあること、後ろにあることを知っておられる。だがかれら(人間)の知識では、それを計り知ることができない」(ター・ハー章20/110)

「幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる」(家畜章6/59)

「仮令海が、主の御言葉を記すための墨であっても、主の御言葉が尽きない中に、海は必ず使い尽くされよう」(洞窟章18/109)

これらは、この宇宙という書物が示している真実に他ならない。この宇宙において、最も大きい世界から最も小さい世界である原子まで、全てに綿密な数学的均衡や基準が存在することが、無限の英知を示しているのと同様、学問のほとんど全ての分野において記されている何千もの本もまた、同じ真実を示している。ついこの間まで、医学の分野においては全身の解剖に関して一冊の本しか書くことはできなかったのに、今日では目や、肝臓や、心臓、つまり全ての器官、さらには細胞についてまで、それぞれの書物が出されており、大学でもそれぞれの分野、科、クラスが形成されている。さらに何千年も、海をインクに、木々をペンにして、クルアーンや宇宙という書のための図書館を満たすほどの作品が書かれたとしたら、ペンもインクも尽きるであろう。それでも語られたものは、一羽の鳥のくちばしにかかる、大洋の中の水滴ほどのものであるか、もしくはそれほどのものですらないであろう。

鏡を見る時、あなたの顔が、人生において見知ってきた多くの顔のどれ一つにも似ていないということを考えたことがあるだろうか。指紋や目の構成についてはどうだろうか? これから明らかにされるであろうどれほどの部分において、あなたのものが他人のものと異なっているのか、あなたは驚かれることだろう。そう、注意深く調べれば、木や葉においてさえ大きな相違点を見出すことができるだろう。雪の結晶を特殊な機械で成長させ、研究している学者たちは、雪の結晶がそれ一つとして他の結晶と同じではないということ、水の分子の数や形という点で異なっているということを明らかにしているのだ。

これら全ては何を意味しているのだろうか? 一つの顔、指紋が、その同じ瞬間に生きている、あるいは将来生まれてくるあらゆる人の顔や指紋と異なった形で現れてくるためには、無数の人を顔や指紋によって知り、他のものと混乱させず、忘れないだけの英知の持ち主の存在が必要となる。私たちが友人たちの顔を、守護された碑板のとても小さな一つの模型のようである自分たちの記憶にとどめ、友人を見た時にその顔によってその人と知ることができるように、―比喩が誤りでないことを願うが―アッラーも無数の人々の顔や指のつくりをその無限の英知によってお知りになり、ずっと以前に運命の書に記されておられたのである。私たちの記憶にとどめられた人生の小史は、記されたことが実現したことによって成り立つように、時が過ぎて実際に出現する顔や指紋もまた同様に、記されていたことが創造されることによって起こったものである。

アッラーは、無限で、全てを包括する英知によって、あらゆる過去と未来を一つの点であるかのように知られ、ご覧になられる。全てを崇高なる玉座からの視点で、―比喩が適当なら―頂点から、あたかも一点の中の出来事のように知られ、確定される。例えば、山で、木の下であなたが本を読んでいるとしよう。その時には、時と空間の制限の中にいる。しかし、魂に関する項で触れたように、物質という状態から離れ、上昇し始め、山の頂上に到達したとしよう。頂点においては、円錐形の視野が開け、山の前方も後方も見ることができる。このように、アッラーも、―あらゆる物質的基準や解明を超越したところで―過去や未来をあらゆる要因や結果と共に、私たちが行なった、そして行なうであろうあらゆる行動―意志も含めて―包括的に無限の英知によってずっと以前からご覧になり、ご存知であったが故にそれらを確定され、定められ、私たちもその時がくると自分の意志でそれを行なっているのである。

毎年三百六十五日の礼拝の時間が分単位で前もって明らかにされ、カレンダーに印刷されていることを私たちは知っている。カレンダーによる時刻表に従って、その時がくるとアザーンが読まれ、私たちも自分の意志でアッラーの前に手を組み合わせ、礼拝を行なう。これも、将来おこなうであろうイバーダが、ある意味前もって知られ、確定されたことの結果ではないだろうか。

4.重要な注意喚起

「過去や災いについては運命、未来や罪については意志という観点から見なす」このような見方をとると、過去において人に訪れた災いや困難に対して「あれは定めだったのだ」と受け入れることができ、失望に陥ることがない。未来に対しても、決定というポイントにおいて責任を意識することとなる。

過去や災いに対して運命だという見方をとらない場合、希望をくじき、打ちのめされるような出来事が起こるたびに狼狽し、常に自分の状態に不満を感じ、後悔し、結果として罪や放蕩の沼に陥ってしまうことがある意味避けられなくなる。未来を意志という観点で見ることができない人が、悪いことや罪を運命のせいにし、陥った放蕩の沼にさらに深く入っていってしまうことも、また同様に避けられないものとなる。人が「運命は過酷である。運命、運命の戯れ…」と言うような言葉で自らの定めに不平を言うことがいかに災いを倍増させ、精神世界や精神活動を色あせさせ、やせ細らせるものであるにしろ、意志を働かせなくなることもまた、同様に大きな誤りであり、自ら思考や心を我欲や悪魔や罪へと明け渡していることに他ならない。だから、一つの受け皿に意志、もう片方の受け皿に運命が載せられている秤を、常に釣り合いのとれた状態に保ち、私たちの生き方をそれに合わせて調整していかなければならないのだ。

要するに、運命を信じることは完全なムスリムになるための必須条件である。アッラーを、預言者ムハンマドを、預言者たちを、天使たちを、啓典を、復活を信じるのと同様に運命をも信じなければならないのだ。この信仰の基本は、永遠の生を生きるために、ここで生きる生においての規則であり、柱である。これらの規則のどれかを揺さぶってしまった場合、私たちが築きあげようとしているものを揺さぶり、さらには壊してしまうことになる。クルアーンやハディースは、運命に関して非常に重きを置いている。復活についで最も重きを置かれている事項は、おそらくはアッラーのお望み、神意、定めである。運命は多くのハディースで、他の信仰基本の中においてではなく、その意味や重要性が鑑みられ、アッラーの存在や特性が語られている部分で、あるいはその範囲内で、取り上げられている。これは、次のことを意味する。すなわち、アッラーを、アッラーの望まれる形で信仰しようとするムスリムは運命をも信仰しなければならない。他の言い方をするなら、運命を信じることはアッラーの存在を信じることにおける必要条件である。つまり、運命を信じない者はアッラーの存在や偉大さを必要な形で信じているとは見なされないのだ。

人々はそれなりに運命を信じる。なぜならアッラーに関する知識、アッラーとの間にある結びつきは様々であるからである。まだ初歩的な段階にあること、あるいは初歩の段階でとどまってしまっている人は、運命を宗教上の一つの定理として、真似をする形で、そうしなければならないと感じているために、そしてそれを条件として、信仰しなければいけないがために信仰する。進歩し、深みを増し、最終段階にまで達した人は、その良心の深いところで、あらゆるものの上にアッラーのなされたことを見出すという段階に達しているため、聖なるハディースで言われている「わたし(アッラー)はしもべを愛すると、わたしは彼の耳となり、目となり、手となり、足となる」[ii]という意味の顕示として、一切その逆を考えることなく「まるで、私の指さえもアッラーが動かされているのを見ているようだ」と言うだろう。これもまた、理解、段階、観点によるものである。

運命は、知や行動ではなく、心や状態の問題である。蜂蜜を全く味わったことがない人に、味や成分や効能などで蜂蜜を説明したところで、あるいはそのテーマでどれほどのものを書いたところで、それは、蜂蜜の味を知るという観点からは、口に入れる一口の蜂蜜ほどの効果を持たない。アッラーの存在、預言者やクルアーンに関する事項を、知に基づく解釈によって語ることは可能ではあっても、運命を、人がその意識によって、アッラーの御業を見ているかのように知るためには、心のページを繰ることが必要なのだ。

運命は、人の足を滑らせうる、微妙な問題である。人が、とても滑りやすい地面で、いつでも滑って倒れてしまう可能性があるように、運命もまた、滑って倒れてしまう可能性のある、滑りやすい地面という特性をもつものである。だからこそ、一部の学者は生徒たちが運命について話すことを禁じ、「あなたは話しているではありませんか?」と言う者に対しては「話すには話しているが、頭上に一羽の鳥が留まっているような感じで話している。それを逃がしてしまうことを私は震え恐れているのだ」と答えているのだ。[iii]

運命に関して、何らかの考えを説明し、あるいは何らかの考えを得るためには、次の四つの項目をよく理解しておくことが必要となる。運命に関するあらゆる事項が、この四つの項目によって解明できると私たちは確信している。

1.運命の諸段階(計画を立てるための知識、その記述、アッラーの御望み、創造)

2.アッラーの無限の英知(過去、現在、未来を一つの点であるかのように知られること)

3.自由意志(イラーダイ・ジュズィエ)(アッラーが人の選択のために与えられた意志)の意味、特性、その存在の根拠。

4.運命と自由意志の一致とその関係。

これらの項目を詳しく説明する


[i] 『明瞭な書冊』は、出現という一連の鎖(現れの段階において)の中で現れ始めた事物を、「有無中道の版」と「保護された版」と言われる、アッラーが定められた全てのことが天使たちによって記され、あらゆる影響から守られた書冊を意味する。

[ii] ハディース Bukhari, Riqaq 38; Musnad 6/256

[iii] 私たちは、時間と空間によって制限を受けているので、創造者と創造との関係に関する真の事実に到達することができない。また、私たちは永遠を知覚することができない。そして、この宇宙に関する真の知識をほとんど持っていない。しかし、私たちが、神とその特性に関する知識を把握することができるように、アッラーは、創造に関連するその顕示が、時間と空間の制限を受けるものとなることを許された。アッラーがそうなさらなければ、生命は存在することができなかっただろう。そして、私たちはアッラーと宇宙に関する知識を全く習得することができなかっただろう。したがって、私たちがアッラーのご意志および運命に関して述べてきたことは、時間や空間、物質によって制限されたこの生の領域からしか述べられていない、という観点でとらえられる必要がある。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

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恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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