さあ、礼拝からはじめよう

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人とアッラーとのつながりにおいて基本となるものは、内面的なものであり、本質の部分であり、魂である。しかしそれらを担うのは言葉であり、形であり、型である。だから必ず、その言葉や、型に注意を払わなければならない。本質的な部分である意味や、意義を、その型が携えるべきである。だから、形や型に意味がないということはできない。外面的意義はそれらに構築されるのである。

礼拝の内側に礼拝があり、断食の内側にも断食がある。だからこそ、「信者たちは救われた。救われた信者というのは、」に続けて、「礼拝において常に畏怖のうちにある」とされているのである。「かれらは礼拝する」ではない。ここでは忍耐と継続性を示す型が使われている。つまり、「いつであれ、礼拝において畏れを感じ、謙虚であろうとする者が、救われる者となる」とされているのだ。 一人の人について、その礼拝を見るだけで、彼が畏怖のうちにいようとする者であるかどうか、明らかにすることはできない。これは、人の良心とアッラーとの間の問題である。私たちは、よい方向で考えるよう努めている。

しかし、一部の人たちは礼拝において、断食においてあまりに不注意であり、また貞節という点でも、街中であまりにもひどい振る舞いをしているのだ。人がそれをどれほど肯定的に見ようとしたとしても、目にしてしまった振る舞いについての肯定的な考えをイスラームの範疇に収めることができないのである。

例えば、誰かが、タクビール(「アッラーフアクバル」と唱えること)をすぐに始めてしまい、あなたがまだファーティハ章を半分も唱えないうちに、ルクー(立礼)の姿勢に入っている。どれほど自らに無理を強いたとしても、その人について、彼は礼拝をしたのだということはできない。

例えば、ルクーにおいて、正しいあり方で、正確な発音で、一部の法学者によれば一回、「スブハーナラッビルアズィーム」と唱えなければならない。あまりにも早く唱えているようではその意味はない。一部の法学者によれば、それを少なくとも三回、唱えなければならない。だから、ルクーとサジダ(平伏叩頭)において少なくとも三回、ゆっくりと、きちんと発音しつつこれを唱えなければならない。私たちがこれより少なく唱えているのであれば、他の人が私たちについて肯定的に考えることを妨げることになる。

このようにして、いくつかの型は、私たちがそれに担わせようと努めている意味や意義を、持たないものとなる。それによって、私たちについてよく見なそうとしている人たちは、妄想や幻想を抱いただけとなってしまう。

多くの人たちが、さっさと詠んでしまっているファーティハ章は、クルアーンではない。なぜならクルアーンは、そういう風に掲示されたのではないからである。そうやって大急ぎで詠まれてしまうファーティハ章によって行われた礼拝は、礼拝ではない。一息で、息が切れる前に節も終わらせようとあせりながら、息が切れたところで急いで、必死で息継ぎして詠まれるクルアーンによっては、礼拝でクルアーンの節を詠むというファルドを果たしたことにはならない。言葉は、その意味の外枠であるが、その外枠はそこでの意味にふさわしいものでなければならない。短時間のうちに、普通ではできないほどの物事を成し遂げるという事象はまた別問題である。誰かが私に「しかるべき形で節を詠みながらも、5分間で40ラカート、もしくは90ラカート礼拝した」といったことがある。神の特性という観点から、これはいつでも起こるものではない。一度その機会が与えられた者であっても、それを鼻にかけて語っていれば、二度とその機会は与えられない。

礼拝における畏怖

礼拝について、「内面において、合法な形での礼拝」という表現がよく使われる。これは、畏怖や安らぎとつながりのあることである。畏怖は、礼拝の意義に関わる問題を引き出すものである。

礼拝における畏怖に関して私が何度も述べたとしても、どうかそれを多すぎるとは見なさないでほしい。信仰と礼拝は兄弟である。信仰が先に生まれた、というだけなのだ。我々の師は、礼拝が五回に割り当てられていることについて語った際、その意味についても解説している。ムヒイディン・イブン・アラビーは、礼拝に意味についての解説を示している。シャー・ヴェリユッラー・デフレビーは、礼拝に関するいくつかのテーマを語り、その重要性に注意を引いている。

だから、私は一部の友人にお願いしたのだ。誰か数人でいいからまともに礼拝してくれれば、規範となってくれれば。そうしなければ、私たちと共にある人々においてすら、真の意味での礼拝はされていないのだ。五回、伏せたり起き上がったりはしているが、礼拝はされていない。

さらに「礼拝する者の状態を見よ」というところで語られているのは、単に誤りという問題ではない。私たちには、礼拝に関する多くの不足点がある。例えば、「礼拝に立つ際、だらだらと起き上がる者」、これはその一つである。ハディースにおいて、人のそうした礼拝は、人としての行動から逸脱したものとされている。礼拝は、人間の振る舞いである。しかし適切なラインを守ることができない場合は、そこで行われる振る舞いは動物のそれに似せられるものとなるのだ。

例として、イマームより先にルクーする人に対して、「ルクーから起き上がるとき、アッラーがあなたの姿勢をロバに似せられることを望むのですが」とおっしゃられている。つまり、イマームより先にルクーを行うことは、しもべとしてのあり方を逸脱してしまうことを意味するのだ。

「誰であろうと、サジダするときには、おんどりがえさをついばむような形でそれを行ってはいけない。」といわれている。そう、それは動物の振る舞いである。額を地にぶつけて起こすというのは動物の振る舞いである。アッラーは、アッラーに対して行われるしもべとしての行為において、私たちを人間的な振る舞いへと招かれているのだ。「犬のように手をつかないように」といわれている。座る姿勢からサジダへ、サジダからルクーへ、ルクーからキヤーム(直立姿勢)へと至る動作が、動物の振る舞いに似ないようにと注意を引かれている。アッラーの使

徒 ( 彼の上に平安あれ)は、これらの聖なるお言葉によって、私たちを、人間らしい振る舞いへと招いておられるのである。

そう、畏怖はただ、その型によって明らかにされる。「私は畏怖の中にいる」といったのならば、動物的な型から脱却しなければならない。アッラーの、畏怖に対する褒賞は、その褒賞を携えることのできるもののみが、受け取ることができるのだ。

礼拝が解き明かされること

礼拝の精神、意義というものはすぐに解き明かされるものではないこともありえる。礼拝の精神が解き明かされた人は、最も心地のよいことに没頭しているときでさえ、飛び上がるようにその場を離れて礼拝に立つことを望む。そして礼拝から喜びを得る。常に、ではなかったとしても、何度となく、「この世が決して終わらないものであったら、私もずっとこうして礼拝に立つことができたら。」という。

しかし、これが解き明かされるためには、時として20年、時には30年、場合によっては40年という年月が必要となる。40年間、腹の上で両手を組み、その扉の前に立ち続けるのだ。そうした時にのみ、礼拝があなたに解き明かされるであろう。

礼拝の本質が解き明かされた場合はどうなるのか。その時まであなたは、礼拝の金鉱を求めて、鉱山で土まみれになって動き回った。あなたはそれを続けた。この鉱脈からあの鉱脈へ、と。そしてある日、あなたは自らをその宝の中に見出したのだ。その瞬間までのあなたの努力はすべて金となったのではないだろうか?

聖クルアーンの衣を纏う者章8節では、「それであなたの主の御名を唱念し、精魂を傾けてかれに仕えなさい。」とされている。動詞の活用から、一種の強制であることが示される。そして、最初に、預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)に対してこのような呼びかけがされているのである。

預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)は時と共に、「あなた方が飲み食いや性交渉に対して感じる欲望を、私は礼拝に対して感じる」とおっしゃられるような状態に至られたのである。このように、この点においてあなたが粘り強く、忍耐強くあれば、礼拝の意義のベールがあなたの中で開かれるのを待ち続ければ、やがて、人々が「天国に食卓が整えられたようだ」といったとしても、「礼拝しよう、それからのことだ。礼拝を犠牲にすることはできない」というような状態に至るだろう。天使イズラーイール(死にゆく者の魂を奪う天使)が訪れたとしても、「できれば、時間が来ている礼拝を行いたい、時間が過ぎてしまわないように。それからなら、何をしてもいい」というだろう。

死にかけてさえいようと、礼拝を行おうと努めるような精神的状態に達するだろう。もはや、礼拝と同一となっているのだ。

フバイブが殉教する間際、あらゆる提案を拒否し、ただ礼拝することを望んだということをも、この形で理解することができる。もはや礼拝は、かれの魂に匹敵するものであったのである。

礼拝回廊

礼拝を時間通りに行うことはとても重要である。最初の時間に行うことが最良である。すべての法学者、ハディース学者、クルアーン解釈者たちはこの点に注意を引いている。それと共に、あなた方は、日没や日の出、真上に上る時といった時間になる前に、礼拝に対して一定の時間を割り当てるという生活を基準としてきた。礼拝や、それに関わる崇拝行為を、心の平安のうちに行うために、その時間を守っているのだ。アザーンはアザーンであるべきであり、イカーマはイカーマでなければならない。それらのドゥアーがある。これらすべてが、一歩ずつ集中を高めていくという意味で大きな価値を持つ。

食卓においてさえ、作法がある。まず何を置いて、次に何を置くのか、一種の作法がある。礼拝という天空の食卓を味わうためにも、それらに従うことが必要なのだ。

礼拝は、アッラーのあなたとの間の一種のやり取りである。あなたを、アッラーに対してこれほど早く、これほど近くに至らせるものは礼拝以外にない。まず、一度理論的な形で、あなたの理性がその真の価値に至るべきである。つまり、まだ味わったことはなく、感じたこともないとしても、理論上、「これは、こうである」ということが必要である。

なぜならあなたにおける、求める心を、この認識は呼び起こすであろうからである。求める気持ちの引き金となるもの、スタートさせるものが、これなのである。こういった感情がなければ、あなたは何を目標とするのであろうか。

「アッラーはここで、私に、アッラーのしもべとなる機会を与えられている。私は礼儀正しく、腹の上で手を組み、この命じられた崇拝行為について、アッラーに希望を託そう。アッラーはなんと偉大であられることか。私はなんと些少であることか。アッラーはいかに無限であられ、私は無であることか。そう、それにふさわしい形で私はこれを行おう。これはしもべであることを明らかにする機会であり、私の些少さに泣く機会であり、アッラーの偉大さを明らかにする機会なのだ」 そう、まずはこの感情に満たされなければならないのである。

心の平安には二種類ある。一つ目は、魂の快楽を得ること。人はそれを求めえるが、私の考える限り、それを求めてはいけない。平安とは、あなたの小ささ、無であること、ゼロであることと共に承認されることである。平安の時と、アッラーの御前において自らを示す可能性を手にすることである。そう、この平安に結びつけて、私たちはアッラーの御前を求めているのである。

礼拝を盗むシャイターン

礼拝において左右を見ることを、「シャイターンが礼拝を盗むこと」という。つまり、シャイターンは礼拝を完全に盗むことはできないが、その一部を掠め取っていくのだ。基本的な部分を盗むことはできない。最後の切り札として、視線を盗むのだ。「右を見させることはできるだろうか、左に向けさせることはできるだろうか。」と努力しているのである。

私たちのここでのテーマは、型と意義、である。言葉と型は意義や中身を携えなければならないと語ってきた。

もしあなたが「私は3メートルほどの空間で馬を疾走させた。もう少しで馬が変になるところだった」といったとしたら。なんということを!3メートルの空間で馬は走らない。そう、礼拝をも、そういう形で行っているのだ。そしてあなたは続けていう。「その中に、畏怖や安らぎを無理やり詰め込んだ」 なんということを!この動作の中に畏怖や安らぎは入りきらない。

さあ、一緒に、礼拝から始めよう! 私の師がなんといっているか見てほしい。「インシャーアッラー、あなた方は完全なイフラース(専心)の状態に至ることでしょう。あなた方は私をも、完全なイフラースの状態に至らせるでしょう」

私も彼のようにいう。「インシャーアッラー、あなた方は完全な礼拝を行うでしょう。私にも、完全に礼拝をする者の作法ややり方を教えてくれるでしょう」

そうなった時は、もはや誰が誰に従おうと、救われることになる。さあ、共に、救われるべく決心しよう。

礼拝からは何も盗ませてはいけない。それは一つの信託である。視線からも、座り方からも、立ち上がりからも、あらゆるものから、シャイターンが何も盗まないようにさせなければならない。完全な礼拝と言う信託を、人として、真の礼拝の模範的なあり方にふさわしい形で、果たさなければならない。例えば、私は礼拝を、永遠の旅路において友となる、優雅な顔をした、姿や振る舞い、格好において何の不足もない、あの世的な姿を持つ存在としてみている。シャイターンの盗みを防ぐことができなければ、シャイターンはその耳を打ち、その唇を打つ。一方から腕を奪い去り、他方から足を奪い去る。そういう状態に至らしてしまうのだ。その存在があの世であなた方になんというかわからないのである。必ず何か言うであろう。「アッラーがあなたに望みを与えてくれますように。あなたは私をだめにしたのだ」というか、あるいは「私をひどい状態にしたのだ」というか、必ずや何かを言うであろう。

あちらにおいて苦痛を味わうことのないようにするには、こちらにおいてあなた方が礼拝に苦痛を与えず、泥棒がその手を礼拝に伸ばすことがないよう防ぐことが、必要である。どの部分からも、一切のものは盗まれてはいけないのだ。心、感情、感覚のすべてと共に、アッラーの方に向かわなければならない。

初歩の段階にある人が、これを感じつつ行うのは困難である。「私は感じた」といえばそれは嘘になる。しかしアッラーはいつの日か、その扉を開かれる。歯を食いしばり、最も重要で、最も適した時間をそれに割り当てなさい。自らを強いなさい。インシャーアッラー、いつの日かそれを立派に行うことのできる可能性が生まれるだろう。

おそらく、真実の礼拝に至ることができるようにと毎晩1000ラカートの礼拝をした者もいるだろう。私の師の最初の教え子たちは、懸命に礼拝を行っていた。私は真に礼拝をする人々を見たのだ。何百ラカートもの礼拝を行う人は多かった。数え切れないほどだった。

人々は礼拝することを忘れてしまった。モスクは形のみのものとなった。モスクのじゅうたんは涙を懐かく思う。礼拝用のじゅうたんは清らかな額を懐かしんでいるのだ。

礼拝は、宗教行為の心臓に値するものである。礼拝におけるすべての要素には、それぞれ価値がある。しかしそのうち最も重要な部分は、額を地につける状態、サジダである。「しもべがアッラーに最も近づけるところは、サジダである」といわれている。礼拝はサジダによって、その冠を得るのである。

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ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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