自己批判とアッラーに赦しを請うこと

Home » Japanese (日本語) » 彼の作品 » こわれた壷 » 自己批判とアッラーに赦しを請うこと

自己批判とアッラーに赦しを請うこと

質問:この世で起こる様々な試練に信者として耐えられるよう、不運に見舞われた際に考えるべきポイントは何でしょうか?

答え:クルアーンで述べられている「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起こるどんな災厄も、あなた自身からである」(婦人章4:79)という命令を信じる人は、自らに降りかかる困難や不運の一つ一つをまず自分自身の犯した失敗や罪のせいにしなければなりません。例えばコップやお皿を落として割ったりしたときには、自らの犯した何が原因でこれが起こったのかと問うべきです。というのもこの宇宙において全くの偶然で起こることなど何一つないからです。細心の注意を払って人生を観察してみるなら、ほんの些細なことであってもうまくいかない物事というのは警告であり、あらゆる出来事がシグナルを送っていることに気づくでしょう。人はもしそのシグナルに気づき、悔悟してアッラーに向き直り、善行をなして迫り来るさらに大きなトラブルに対する盾とするなら、アッラーの優しさによってその人は救われるでしょう。コップが割れるといった比較的小さな不幸は迫り来る不運を防ぎ、罪滅ぼしとなることがあり得ます。ハディース[1]では、疲労、病気、悲嘆、心配、苦痛、憂鬱、はては刺が足を一刺しすることまで、アッラーはそれらによってムスリムの罪の一部を赦される、と述べられています。自らに降りかかった問題や不幸の真の原因を認識できない人は、アッラーに対する不平とも取られかねない、(容認できない)事柄を言い出すものです。

本当に責められるべきは誰かを探す道で

私たちは物事の背後に潜む原因をいつでもはっきりと見られるわけではありません。しかしながら健全な信仰を持つ人々は、たとえ無関係に思えるような災難であっても自らが犯した間違いについて考えなければなりません。問題を自分自身の中で見出そうとすることは、責めを負うべきは誰かを探す過程で非常に重要な一歩を踏み出したこととなります。他の誰かのせいにしようとしてばかりいる人は、一生かかってその相手を探し出そうとしても徒労に終わるでしょう。

このことについてベディウッザマン師はある手紙の中でこう仰っています。「私が受けた暴虐行為、拷問の真の理由を今理解した。ここに深い後悔の念とともに申し上げるが、クルアーンの道における私の奉仕を精神的向上のために利用したことが私の過ちであった」と。この偉大な人物がいかに奥深いムハーサバ(自己批判、自問)をされていたかがこの言葉から読み取れるでしょう。さらにこの言葉から我々は、信仰の道で奉仕することを精神的向上のため、もしくはアッラーからの霊感や祝福を授かるための手段と見なすべきではないということが推測できます。それは天国に入るため、もしくは地獄から救われるためといった崇高な目標であってもです。こうした事柄を真の動機とするのは我々の進む道の妨げになりかねません。第一義的かつ唯一の関心はイフラース(誠実さ)と、アッラーのご満悦・ご承認を得ることであるべきです。天国を愛する気持ち、もしくは地獄への恐れはどちらも真の崇拝に優先されるべきではありません。アッラーはイフラース(誠実さ)をもって行われた行為に対して寛大な報奨を与えてくださいます。アッラーの恵みが無限であるのに対して我々の崇拝行為やしもべとしての服従はごく限られたものです。もしあなたが全世界の王となり大富豪になったとしても、何か差し出す際には気後れせずにはいられないでしょう。なぜなら出す割合に応じてあなたの財産は減っていくからです。しかしアッラーの恵みは勘定を越えています。だからあなたが所望するものなど、かれが授けるものと比べたら本当に微々たるものでしかないのです。

あらゆる不平を控えること

すでに述べたように、自らを襲う困難や不幸の真の理由を認識できない人はアッラーに対する不平ともなりかねない事柄を言うものです。我々の個人的な権利を擁護するため、加害者のことを権力者に訴えることは許されることです。つまり自らが不正行為の被害にあったと考えるのであれば、アッラーもしくは司法関係者に申し立てて正義を見出そうとするのはごく自然なことです。しかしアッラーについて誰か他の人に不平を漏らす権利は、誰にも、どんな形であってもあり得ないことです。それをあからさまに表すことはもとより、舌打ちしたりその他の身振りで、身に降りかかった問題や不幸に対する腹立ちを示すことはアッラーに対する不平を述べていると見なされます。ゆえに、公然にせよ非公然にせよ不平不満を表すあらゆる言葉や態度はそれを避けるのが立派な態度といえるでしょう。

実に問題や不幸に直面して自らの責任を問うことは真摯なムハーサバ(自己批判、自問)の態度に結びついており、そしてそれはアッラーと最後の審判を強固に信仰することと結びついています。第2代カリフのウマル・イブン・アル=ハッターブ様は「裁かれる前に己自身を裁きなさい」と仰ったと伝えられています。ここから、審判の日の裁きを信じることとムハーサバが直接的に関わっていることがはっきりと見てとれます。偉大なる方々の残したズィクルやドゥアーを調べてみると、どのお方も自らの行いの説明責任に対する懸念から真剣にムハーサバに取り組んで生きていたことが分かります。例えばアブドゥルカディール・ゲイラーニ師があるひとつのドゥアーの中で自らを地に貶めて自我の清算をしている様は、我々が一生かかってもできないと思われるほどです。アブドゥルハサン・アッ=シャーズィリー師も同様にひどい言葉で自分自身を卑下したあと、「私のような多くの者があなたの慈悲の扉をたたき、そして裏切られませんでした」と言いながら期待をもってアッラーに懇願し赦しを求めたのでした。ドゥアー集「懇願する心」[2]に収められているハサン・アル=バスリー師の1週間分のドゥアーも重要な例を示してくれています。この卓越したお方は曜日ごとに異なるドゥアーを唱えておられましたが針小棒大といってもいいくらいに己を非難していました。信仰の勇者であられ、タービイーン(預言者様の孫弟子にあたる、サハーバに従った人々)の中でも第一人者の1人であったお方、バスラ地方で過った学派に対して立ち上がられ、イマーム・アブ―・ハニーファに大いなる恩恵をもたらした学者であられたこのお方は夢の中でさえも罪を避けられていました。このような偉大な人物が、あたかも自身が最低の罪人であるかのように見なしてその罪を告白しているのです。そして精神面における永遠の敗北者であるかのように、またひっきりなしに罪を犯していたかのようにアッラーに向き直っているのです。このようにして彼は毎日毎日、自分自身を批判していたのでした。

イスティグファールにつながる自問の感情

ムハーサバの意識をもって自らの悪事に気づいている人は結果として、悔悟とイスティグファール(赦しを請うこと)に訴えるようになります。アッラーはクルアーンの識別章で、様々な過ちに言及し、こうした罪を犯す者には罰が与えられると述べたあと、心から悔悟する者に対しては吉報をもたらしています。「悔悟して信仰し、善行に励む者は別である。アッラーはこれらの者の、いろいろな非行を変えて善行にされる。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる」(識別章25:70)。

この節によれば、罪や悪事を犯し精神的な歪みを被っている者が悔悟し赦しを求めて直ちにアッラーに向き直るなら、アッラーは悪事と善行を取り替えてくださるとのことです。ベディウッザマン師はこの節について異なるアプローチをしており、悪に傾きがちな人間の限りない潜在力が善への潜在力へと転換することだと仰っています。であれば真摯に悔悟してアッラーに向き合うことによって、人はそうした偉大な転換を遂げる手段を手に入れることとなるのです。

イスティグファール:個人の再生にとっての人生の湧水

預言者様(彼に祝福と平安あれ)は、「誰であれ(審判の日に)自らの行いの帳簿を見て喜びたい者は、その中に記載されるイスティグファールの量を増加させなさい」[3]と仰っておられます。イスティグファールの勇者でもあられる預言者様は、日に100回のイスティグファールを行っているとも述べられました。我々はこの状況を、精神的な旅路で常に向上されている印だと解釈するのと同時に、あらゆる人々が従うべき理想的な例であると見なすことができます。社会の中で指導的な立場にいる人物の態度や振る舞いすべては、社会全体にとっての手本となるものです。ある組織の指導者が腐敗していればおそらく、下で従う人たちにもその腐敗は押し寄せていくでしょう。同様に絶えず善行に勤しむ指導者の存在は、人々を善に導く上で非常に重要な誘因となります。この観点から、非常に理想的な模範であられ、彼に従う人々を天使が舞う領域へと上昇させた預言者様は日に100回のイスティグファールをされていたのだと言えます。

実に信者はどのようなレベルであれ、自らの人生を思い起こしてみれば、アッラーの赦しを請うべき過ちや欠点を見出すことができるでしょう。どこかに行く途中で見るのを禁止されたものに好色な目を向けたかもしれませんし、重大な罪であることに気づかないまま他人を中傷したかもしれません。それゆえ、人はたった一つのこうした罪が永遠の破滅の引き金となりかねないことを認識し、直ちに赦しを願って加護を求めなければなりません。ベディウッザマン師は著書「レマー(光)」[4]集の中で、大したことの無いように見えるものが永遠の迷いの原因となりえる事実に関心を引こうとしています。「警戒し注意深くありなさい。常に注意深く行動し、沈没を恐れなさい。一口の食べ物、一言、一粒、一瞥、一つの手招き、そして一つのキスに溺れないように!広大で全世界をも包含することのできるあなたの能力をこうしたものに溺れさせないように」。人間はこの世的なことでさえも真剣に計画を立てようとします。例えば新たな事業を始める前には徹底的な予備調査を行い、それにしたがって投資を行います。それから進捗具合や採算性をチェックして月間解析を行います。一時的なこの世のビジネスのためにさえこれほどのプランニングや評価が必要だとしたら、永遠の人生のためにはさらなるものが必要となるのではないでしょうか?

この事柄についてもう一つ別のポイントを指摘しておくことが役に立つかと思います。ベディウッザマン師は「ドゥアーとアッラーへの信頼が我々の善を行うことへの意欲を大いに強めてくれるように、悔悟とイスティグファールは我々の悪へと傾く気持ちを打ち負かし、罪を遮断してくれる」と仰っています。つまり、悔悟しアッラーの赦しを請うこと(タウバとイスティグファール)が人間の悪に傾きがちな性向に対する壁の役目を果たしてくれ、罪を大槌で打ち付けて無力化してくれるように、ドゥアーは我々の善への意欲を強めてくれるのです。このように、タウバとイスティグファールと一方の翼とし、ドゥアーをもう片方の翼として羽ばたく人は、アッラーのお優しさゆえに人間性の完成という頂上へと上昇し、人生の誉れであられるお方(彼に祝福と平安あれ)の足元に自身を見出すこととなるかもしれません。

しかしこのこともお伝えしたいのですが、心と魂の生の復元に奮闘する代わりに最初からその破壊に対する障壁を築くことができたなら、と思わずにはいられません。何かが破壊されてからではそれを復元するのは非常に困難だからです。以前別のところでもお話ししたかと思いますが、私がトルコのエディルネという町にあるセリミエモスクで若いイマームとして着任した頃、モスクの復元工事が始まりました。エディルネで過ごした6,7年の間、スルタン・セリム3世の治世に6年で建てられたモスクの修復はまだ終わっていませんでした。破壊されたものを元の状態に復元することは、それを新たに建設するよりはるかに難しいのです。ですから罪によって歪みを被った人が精神的な回復をみるのは思ったほど簡単ではありません。であれば最初から破壊に対して注意深くあり、罪に対して警戒を怠らないようにしなければならないのです。

[1] サヒーフ・ブハーリー、マルダー、1
[2] 「懇願する心」(アル=クルーブ アッ=ダーリア)はイスラームの様々な出典をもとにフェトゥフッラー・ギュレン師が選別、編纂したドゥアー・ズィクル集。
[3] カンズ・アル=ウンマール、1/475,2065
[4] 「光」は卓越したイスラーム学者であるサイード・ヌルシー(1876-1960)が著したクルアーン注釈書「リサーレイヌール」(光の書簡集)全集の主要な4巻のうちの一つ。

Share:

More Posts

fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

fethullah gulen 52 b70 scaled

ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

tr haber 16281 pakistan deprem 87a

心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

dun irtica bugun camia 44f

恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

verslaafd aan gemakzucht eb1

泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

philip clayton 1 a74

名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

hasbi gulen19

不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

Send Us A Message