手遅れとなり後悔の念にかられないために

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手遅れとなり後悔の念にかられないために

質問:クルアーンの中に、悪事を働く者は審判の日に後悔の念に襲われると書かれています。「その日、悪を行った者は、(しまったと、)その手を噛み、言うであろう。『ああ、わたしがもし使徒と共に(正しい)道を選んでいたならば。ああ、情けない、わたしがあんなものを友としなかったならば』」(識別章25:27-28)。この後悔はどのような過ちと関係していますか?来世で自責の念にかられないために現世でどのような点に注意すべきですか?

答え:この節は「その日」、恐ろしい日に言及することから始まり、続いて顔を歪め悲しみにくれるそのような日に、悪を行ったものが後悔して手を噛む姿が述べられています。「手を噛むこと」とはアラビア語の慣用句で、悲痛や苦悩、嘆き、切望といった深い思いで痛恨の念に陥っている状態を表しています。

そして悪を行った者は預言者様の道に従わなかったことにひどく後悔して言います。「ああ、わたしがもし使徒と共に(正しい)道を選んでいたならば」。しかしその者の後悔はこれに限られません。さらに「ああ、情けない、わたしがあんなものを友としなかったならば」と続けます。すなわち「悪を行ったり不信仰の徒であっただれそれに同調して手を組まなければよかったのに。悪事を働く者、罪を犯す者たちと同じわだちを踏み誤った道に逸れなかったらよかったのに!」と言っています。しかし「あの時ああだったら」という言葉は来世で全く役に立ちません。反対に自責の念を増やすだけです。言い換えれば、言っても無駄であると同時に苦難を増加させるだけです。この言葉は来世で発せられるのと同じように、人が死に瀕してまさにこの世を去り来世への第一歩となる中間世界(墓)に移ろうとする際、その魂が喉元まで上がってきているときにも発せられる可能性もあります。それがいつであれ、こうした言葉が、今までの大きなチャンスを明らかに無駄にしてきた人の発する深い自責の念を表していることは確かでしょう。

最大の後悔

人々の胸を焼きこがし、深い悲しみで「あの時ああだったら」と言わせる罪や間違った行いはたくさんありますが、その中でも最たるものが不信仰です。なぜなら万物は、一つ一つの表現、一つ一つの言葉、そして一つ一つの文字がアッラーのことを宣言しているからです。人はあらゆる偏見を脇にのけ、創造に向かって公明正大に耳を傾け、そして宇宙を英知の本であるかのように読もうと努めれば、万物が全能の創造主を指し示していることを発見するでしょう。この明白な真実から、偉大な学者であられるイマーム・マトゥリーディーは、預言者を遣わされなかった人々であってもアッラーを知る責任があると仰っています。つまりこうした人々はアッラーについて、天与の教えという枠組みの中でかれについての属性や御名といった詳細について知ることができなかったとしても、この壮大な宇宙に創造主がいるという結論に至ることができるだろうということです。2代目カリフのウマル・ビン・ハッターブのおじであるザイドはイスラーム出現の前にこの考えを表明していました。「私は創造主がおられるということは分かっているが何をすべきかが分からないのだ。かれが私に望んでおられることを知ることさえできれば、その実践に精を出せたのに」[1]。要するに人を後悔に駆る最大の「あの時ああだったら」は、信仰を持たずに息を引き取ることなのです。

導きを得たあとに信仰を捨てることは来世で「あの時ああだったら・・」と言わせるまた別の重大な罪です。信仰と不信仰の間には薄いベールが存在するだけで、ほんの些細な動きで反対側に行ってしまう危険性が人には常に伴います。だからこそ我々信者は、アッラーが真っ直ぐな道(スィラート・アル・ムスタキーム)に導いてくださるよう、日々行う5回の礼拝の中で合計40回も求めます。そして「あなたが御恵みを下された人々の道に」(クルアーン、開端章1:6,7)と続けることによって、正しく導かれた者たちの道にいられるよう願っているのです。別の節(女性章4:69)で述べられていますが、アッラーが恩恵を施された人々とは、預言者たち、誠実な者たち(シッディーク)、殉教者たちと正義の人々(サーリフ)です。これが我々が一日40回繰り返している望みです。そしてこの直後に、アッラーの偉大さと慈悲に庇護を求め、かれの怒りを受けた者、また踏み迷える人々の道に逸れることから救われるよう請うのです。正しい導きを見出したなどと自信を持ったり、自分自身は堕落する危険性やシャイターンの欺きとは関係ないなどと考えることは誤った思い込みに他なりません。最期の息を引き取るまで、誰も正しい道で歩み続けられるかの保障はないのです。この点に自信を持っている人は自らの信仰を危険にさらしていると言えます。自らの最後を気にしない者はその最後によって煩わされる者です。それゆえ、人は導きを見出したあと、不信仰に迷い込むのではないかと恐れに身を震わすべきであり、それに常に警戒を怠るべきではありません。信者は常に己の自我と二人きりに放置されないようアッラーに懇願し、シャイターンの扇動や囁きに対してかれの庇護を求めなければなりません。なぜならそれによって楽園に入る権限を獲得することもできればアッラーのご満悦を得ることもでき、またかれの美しさをも見ることのできる信仰というものは、掛け替えのない宝物だからです。ジンや人間のシャイターンがそれを盗もうと横たわって待ち構えています。信者がすべきことは信仰を大切に取り扱い、攻撃に備えて保護し、この点で常に注意深くあることです。

人を地の底に沈みこませる弱さ

ベディウッザマン師がその著書「29番目の手紙」の最後で述べている人間とシャイターンの陰謀(「六つの罠」)に乗っ取られることもまた、人を真っ直ぐな道から逸らせ、来世で「あの時ああしていたら・・」と言わせる可能性があります。実に、師が説明されている人間の弱点のどれもが、信者を精神的堕落に陥れるに十分な力を持っています。つまり地位や名声への愛着がそうしたウイルスであるように、恐れも同様に強力です。欲、後ろ向きな愛国心、利己主義、怠慢さ、快適さへの愛着についても同じことが言えます。この一つ一つが信者を破滅させる可能性を秘めていることを考えるなら、これらすべてを持ち合わせているとしたら人を転落させるのみならず、地面の奥深くまで沈み込ませてしまうでしょう。信仰を持つ人々の集団に属している人でさえもこうしたものに襲われる危険性に絶えずさらされているのです。例えば名声欲は人が信仰への奉仕の名のもとに行う善行の本質を簡単に台無しにしてしまいます。優れた仕事を成し遂げた人が有名になることを密かに望む場合もあり得るでしょう、これもいずれはその人を地の深いところに沈ませることになります。さらには、こうしたマイナスの感情に負けてしまうと、その他の種類の悪をも招き入れてしまうこととなります。例えば、名声欲が人を捉えてしまったとすると、その人がさらにどんな罪を犯すこととなるか計り知れません。こうしたすべては信仰する集団の中で起こりえる危険性であり、来世で後悔を引き起こす原因となります。アッラーから授けられた成功を自分のものにする人は、イフラース(誠実さ)[2]を規範としてその原則を身につけることができなかった結果としてこう言うでしょう。「この世的な評価や称賛のために善行を汚したりしなければよかったのに。価値の無いもののために空虚に向けて帆を進めたりしなければよかったのに。命取りの流れにやられなければよかったのに・・」。そして無益な嘆きや終わることの無い後悔という悲歌に苦悶する羽目になるでしょう。残念なことに泣き悲しんでも何の役にも立ちません。反対に自らの不幸から来る苦しみは倍増するだけなのです。

無駄な後悔の念から守られるための盾

こうした理由から信者はこの世で分別のある行動を取るべきです。不信仰から救われることはアッラーからのご好意であると見なすと同時に、他方で信仰を失わせる可能性のある路地を避けなければなりません。ベディウッザマン師が強調しているように、どんな罪にも不信仰へとつながる道が潜んでいます。アッラーの使徒が仰っていたことによると、一つ一つの罪は心に染みを作り、時間と共に心をすべて覆い尽くしてしまうだろうとのことです(悔悟して取り除かれない限りは)[3]。クルアーンでアッラーは、悪事で汚染され黒くなった心について述べておられます。「断じてそうではない。思うにかれらの行った(悪)事が、その心の錆となったのである(そして真実の理解を阻んだ)」(量を減らす者章83:14)。悔悟し許しを求めることによって心を黒くする罪を取り除かないならば、アッラーはその心を塞いでしまわれます。「アッラーは、かれらの心も耳をも封じられる。また目には覆いをされ、重い懲罰を科せられよう」(雌牛章2:7)。そして「かれらの心は封じられた」(悔悟章9:87)。このようになった心は天から下された純粋なメッセージから何も受け取ることができません。そして来世で常に「あの時ああしていたら・・」と言い続けることとなるのです。無益な後悔の手中に落ちないためにすべきことは、恐れと希望のバランスをとりながらアッラーの僕としての責任を不備なく遂行しようと努力することです。これを実現できるかは心がアッラーへの畏怖にあるかにかかっています。アッラーの使徒はある男に言及し、彼の心がアッラーへの畏怖のうちにあったなら体の各部位もそのようであっただろうと仰っています[4]。信者の心のうちにあるアッラーへの畏怖はその者の振る舞いに反映されます。時と共にその者の体の部位までもがアッラーへの畏怖で震え始めます―それがとても顕著なので、その震えている様子は人の目の虹彩に感知されることがあるほどです。信者はアッラーの偉大さを感じて身を二つ折りにもすれば、かれの慈悲の無限性に信頼を置くこともする、というように、慎重さとバランスの伴った人生を送れば、これこそが来世で苦悩や後悔を味わうことから救われる手段となるでしょう。

同時に人は「ソフベティ・ジャーナーン」(愛するお方の講話)すなわち宗教的な講話の集まりに参加することによって来世を破滅させるマイナス要因を退けることもできます。スレイマン・チェレビーがこう述べています。

「息を吐くたびにアッラーの名を唱えなさい。

アッラーの名とともにすべては完全となる」

別の神秘主義者(タシュルジャのヤヒヤー)が著した詩も同じ真実について述べています。

「私の愛を世界中の人と分かち合うことができたなら。

私たちの話す言葉がすべて愛するお方の話であったなら」

訪れる先々でアッラーについて言及することができれば、また我々の集まりをかれの名前によって祝福されるものとすることができれば、そして我々の時間に、次元に収まりきれないような深さを獲得させることができれば、そうすれば我々は来世で後悔の念を抱かせるような数多くのマイナス要素を止めさせることができるでしょう。

許しを請う意味で「あの時ああだったら・・」と言うこと

質問:無益なものではなく、有益となりえる「あの時ああだったら・・」という例はありますか?この点における基準はなんでしょうか?

答え:来世で人がつぶやく無益な「あの時ああだったら・・」があるのと同時に、イスラームでは容認可能な、さらには称賛に値するプラスの種類の「あの時ああだったら・・」もあります。我々の導師アブー・バクル様が仰ったのもこの種のものです。よく知られている話ですが、ある時彼はこう仰りました。「直系の子孫を残さずに亡くなった男について言及しているクルアーンの節が何を意味するのか、判断を学者に委ねなくて済むよう、預言者様に聞いておけばよかった」。彼は同じように、相続における祖母の取り分に関する判断についても同じような後悔を述べていました。なぜならクルアーンではこのことについてはっきりとした叙述がなかったからです。彼はまた、自らが下さなければならなかった政治的判断のいくつかについても同じような後悔を口にしていました。私の考えでは、こうした「あの時ああしておけば」の言葉は、宗教を正しく理解し、それをご自身の人生の魂とされていることから生じた深い苦しみや深い自己批判の結果発せられていたのだと思います。そしてこのことが“誠実な者”アブー・バクル様を我々の理解を超えた偉大な精神的地位に上らしめたのでしょう。アブー・バクル様の価値について、人類の誉れであられるお方がこう述べられたことを考えて見てください。「もしアブー・バクルの信仰とその他の人々の信仰を秤にかけたら、アブー・バクルのほうが重くなるだろう」[5]。彼はアッラーの恩寵のおかげで、他の人が1世紀半かかっても成し遂げられなかったものを2年10ヶ月の間で実現させた、この上なく誠実なお方であられます。彼は暴君が行うような単なる他国領土の征服を行ったのではなく、その土地の人々に彼の魂の霊感を注ぎ込まれたのでした。彼が赴いた場所、および目を向けた場所は預言者様の教えで息を吹き返しました。実に、二代目カリフのウマル・イブン・ハッターブ様が実現した大征服や躍進の素地を準備されたのは彼であられたのです。それゆえ、彼が発せられた「あの時ああしておけば・・」は、すでにその他すべての人をまとめた価値よりも優れておられたこのお方の価値を、さらに高める発言であると言えます。

同様に、信者一人ひとりにとって、その地位を高めてくれるプラスの種類の「あの時ああしていたら・・」があります。例えば、「若かりし日々を崇拝のためにもっと有効に使っておけばよかった。100ラカートの礼拝のために毎晩2時間を割けばよかった。自分自身を自我から救えればよかった。自我が制し難かった若き日々にも手足、目、耳を徹底的に制御できればよかった。アッラーのご満悦の追求に向いている物事以外に目を向けたり注視したりすることがなければよかった・・」。人はたとえ、ある種の事柄を以前は全うすることができなかったとしても、こうした後悔の言葉はその償いをすべく前向きな行動を取ろうとする決意の表れであり、その人を精神的発展に導くものです。向こう側に取り残されそこで発せられる「あの時ああしていれば・・」は単なる苦悩と悲嘆に過ぎませんが、こちら側でそれを発するならそれはイスティグファール(許しを請うこと)と見なされます。我々はこうした事柄を思い出しては「アスタグフィルッラー(私はアッラーにお許しを請います)」と言います。それからただ1回のみそれを言うことを恥じて「アルフ・アルフィ・アスタグフィルッラー(100万回許しを請います)」と述べ、心からの懺悔と後悔(タウバ・イナーバ・アウバ[6])を胸に、常にアッラーの庇護を求めます。ゆえに、「アスタグフィルッラー」の言葉でアッラーの慈悲の扉をノックするとき、願わくばアッラーはその嘆願を放置されることはなく、果てしない慈悲と寛大さで受け入れてくださることでしょう。

[1] サヒーフ・ブハーリー、マナーキブ、24
[2] ベディウッザマン・サイド・ヌルシー、21番目の光
[3] スナン・アッ=ティルミズィー、タフスィール・アル=スーラ(83)1
[4] アル=ハキーム・アッ=ティルミズィー、ナワーディル・アル=ウスール2/172
[5] バイハキー、シュアブ・アル=イーマーン 1/69
[6] タウバ、イナーバ、アウバについての詳しい説明は、フェトゥフッラー・ギュレン師の「心を知る」を参考のこと

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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