サブル(忍耐)

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サブルは、文字通りの意味としては、苦痛や困難に耐えること、辛抱すること、我慢すること、問題に落ち着いて対処することです。より一般的な意味としては忍耐であり、それはクルアーンで言及されている最も重要な心の行為の1つです。そしてその重要性ゆえに、サブルは宗教的生活の半分とみなされています。(もう半分は感謝です。)

クルアーンでは、『忍耐と礼拝によって、(アッラーの)御助けを請い願いなさい。(聖クルアーン雌牛章2:45)』『あなたがた信仰する者よ、耐え忍びなさい。忍耐に極めて強く、互いに堅固でありなさい。(イムラ-ン章3:200)』などで何度もサブルが命じられ、『かれらのために急いではならない。(砂丘章46:35)』『決してかれらに背を向けてはならない。(勝利品章8:15)』などでは、あわてないようにと注意されています。クルアーンのたくさんの章句において、アッラーは忍耐強い人々を賞賛され、彼らを愛されていると言明され、さらに彼らに与えられた地位について述べられています。『よく耐え忍び、誠実で、敬虔に信奉して、(道のために賜物を)施し。(イムラ-ン章3:17)』『誠にアッラーは耐え忍ぶものをEQ \* jc2 \* "Font:FGP平成明朝体W3" \* hps9 \o\ad(\s\up 8(め),愛)でられる。(イムラ-ン章3:146)』『本当にアッラーは耐え忍ぶ者と共におられる。(雌牛章2:153)』

クルア-ンでは、サブルの他の多くの面についても述べられています。たとえば『あなたがたがもし耐え忍ぶならば、それは耐え忍ぶ者にとって最も善いことである。(蜜蜂章16:126)』では、アッラーのメッセージを不信者たちに伝える際に、不信者たちにはサブルをもって接するべきだとアドバイスされています。『われは耐え忍ぶ者に対し、かれらが行った最も優れた行為によって、報奨を与える。(蜜蜂章16:96)』では、来世で与えられる最善の報奨で忍耐強い人々を励まされています。『あなたがたが耐え忍んで、主を畏れるならばもし敵軍が急襲してきても、主は、五千の天使であなたがたを援助されるであろう。(イムラ-ン章3:125)』では、信仰する者たちに、サブルに対するアッラーの援助が約束されています。

忍耐と感謝に関する次のハディースは非常に意味深いものでしょう。

「信仰する者にとってあらゆる出来事は、利益となるものである。これは、信仰するものにしか起こらない。もし良い出来事があったら、彼はアッラーに感謝し、それは彼にとって利益である。もし悪い出来事があったら、彼はそれに耐え、それもまた彼にとって利益なのである。」

サブルの特徴は5つに分類することができます。①-真にアッラーのしもべであることや、通常の崇拝行為を忠実に実行することに関する困難に耐えること、②-罪を犯すようにという世俗的な自分自身やシャイターンの誘惑に耐えること、③-来世のあるいは現世の災難に耐え、そしてアッラーの御意思に甘んじて従うこと、④-正しいを進み、逸脱を引き起こす現世の魅力に負けないことに関して誠実であること、⑤-達成するために一定の時間を要する希望や計画を実現するときに慌てないことです。

サブルの程度については6つに分類することができます。①アッラーのために忍耐を示すこと、②忍耐を示し、それはアッラーのお陰だと考えること(アッラーが自分が忍耐を示すことができるようにしてくださっていると確信を持つこと)、③アッラーは御自身の知恵によって振舞われているということを理解し、アッラーからもたらされるものは何であれ忍耐強く受け入れること、④アッラーの道において起こるどんなことにも甘んじて従うこと、⑤時部が到達した精神状態を明らかにしないことで忍耐を示し、アッラーへの近さを守ること、⑥死んでアッラーにEQ \* jc2 \* "Font:FGP平成明朝体W3" \* hps9 \o\ad(\s\up 8(まみ),見)えたいという深い欲望にも関わらず、アッラーのメッセージを人々に伝えるという自分の任務を全うしようと決意することです。

サブルには他の定義もあります。たとえば、不運に見舞われたときに自分の態度を保つことや、何か出来事があったときにも忠実であり、ためらいの気配も見せないこと、現世的な欲望や自分の気性による衝動に決して屈服しないこと、クルアーンとスンナの命令を一種の楽園への招待状として受け入れること、自分の魂や愛する人々を含めてすべての所有物を真実の御方、愛されるべき御方アッラーのために捧げることなどです。

クルアーンの文章の秘密や深遠な意味に興味を持った解釈者たちは、『あなたがた信仰する者よ、耐え忍びなさい。忍耐に極めて強く、互いに堅固でありなさい。そしてアッラーを畏れなさい。そうすればあなたがたは成功するであろう。(イムラーン章3:200)』について次のような解釈をしています。

宗教的義務を実践することに忠実であり、自分にとって喜ばしくないあらゆることに耐えること、また、アッラーへの愛を保つことであり、アッラーに見えたいと願うことです。あるいは、アッラーのためとなるすべての自分の責任を果たし、アッラーに喜んでいただくこと、そしてアッラーが不断に自分を監督されているという自覚を常に持つことの困難さに耐え、アッラーの無限の力を感じることです。他には、アッラーの恩恵が自分に注がれているときでさえも、逸脱することなく、まっすぐな道を進むことに忠実であることや、すべての困難や苦難に耐える決意をし、何が起ころうとも、アッラーとのつながりもしくはアッラーへの信奉を保つことがあります。

サブルへの他のアプローチとしては、この宇宙に存在するものや起こることすべてが全能のアッラーゆえのものであると考え、喜ばしいように見えることには感謝し、喜ばしくないように見えることも甘受するということがあります。逆境や困難、果たすことの難しい責任、あるいは犯してしまうかもしれない罪を克服しようとするときに、信仰する者はアッラーに対してその荷を降ろしますが、それはアッラーに対して不平不満を言っていると考えられるべきものではなりません。むしろそれは、信仰する者がアッラーに助けを願い、アッラーの下に保護を求める方法だと言えます。このような行為が、アッラーやアッラーに定められた運命に対する不平や抗議と考えられる余地はないのです。実際に、その人の意図によっては、このような行為は、アッラーを信頼し、アッラーに服従することによって、祈願や懇願ともみなされることがあります。

預言者アイユーブ(ヨブ)(平安あれ)のアッラーに対する『本当に災厄がわたしに降りかかりました。だがあなたは、慈悲深いうえにも慈悲深い方であられます。(預言者章21:83)』という泣き声や、預言者ヤアコーブ(ヤコブ)(平安あれ)の『わたしは只アッラーに対し、わが悲嘆と苦悩とを訴えているEQ \* jc2 \* "Font:FGP平成明朝体W3" \* hps9 \o\ad(\s\up 8(たけ),丈)である。(ユーヌフ章12:86)』というEQ \* jc2 \* "Font:FGP平成明朝体W3" \* hps9 \o\ad(\s\up 8(うめ),呻)きは、アッラーの哀れみと思いやりに対する祈願や懇願なのです。アッラーは預言者ヤアコーブ(平安あれ)が忍耐と祈願の素晴らしい、優れたしもべであることを『われは、かれが良く耐え忍ぶことを知った。何と優れたしもべではないか。かれは(主の命令に服して)常に(われの許に)帰った。(サード章38:44)』と賞賛されました。

預言者たちや信仰の深い人々の最も顕著な特徴の1つは、あらゆる形や程度におけるサブルの体現であり、彼らはアッラーへの最高の信仰から逸れることなく、アッラーのメッセージを人々へ伝えることに最善を尽くし、そこから生じるあらゆる逆境や困難に耐えることです。すべての被創造物に対する恵みであられる預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、次のようにおっしゃりました。

「人間のなかで、最も厳しい逆境にあったのは預言者たちであり、次いでそれぞれの信仰の程度に応じた人々である。」

サブルは信仰、精神状態、アッラーへの近さにおいて、最も優れていて他の人々を真実へと導く人々の本質的な性質です。さらに、サブルは最終目的地へ向けて進んでいる人の力の源でもあります。最も進んだ人々が最も厳しい逆境を経験するということは、彼らは完璧にサブルを体現しているということであり、それが彼らに与えられた地位の代償として彼らが払っているものです。最終目的地へ進むことが運命付けられた他の人々は、彼らに起こるあらゆることを耐えることによって、他の人々が別の頻繁な崇拝行為によって歩んだ距離を越えるのです。これらの人々について、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は次のように述べられています。

「アッラーがしもべを、自分の宗教的行為によっては辿り着けないほどの地位に運命づけられた場合には、アッラーは彼が彼自身や家族のために苦しむようにし、すべての苦しみに耐えられるようにサブルを身につけさせる。アッラーは彼をそのサブルによって、運命づけられた地位まで高められるのである。」

それゆえ、耐えるべき苦難、自分の責任を果たすことにおける困難、罪の重圧は、潜在的に慈悲を持ち、慈悲はサブルによってひきつけられるのです。これらの苦痛を甘受している人は、その荷を他の誰に対しても降ろすべきではありません。フディーリーの次の言葉は何と美しいものでしょうか。

「愛する者と自分を呼ぶならば、愛の苦悩に不平を言ってはならない。

不平を言うことで、他人に自分の愛の苦悩を知らせてはならない。」

アッラーへの道の旅人は、愛に燃えることや沸くことも、苦悩に果てることも知っているべきですが、このような愛や苦悩について決して他人に不平を言うようなことはありません。たとえ山のように重い困難や責任につぶされたとしても、他人に不平を言うべきではないのです。

ルーミーはこのような程度のサブルについて、次のようにまとめています。

「人が生きるために、膝の力の素となり、眼の”光”となり、生命を維持するための物質であるためには、ほんの一握りの小麦が、地面に埋められ、発芽し、育って空気の中に出てこなければならない。それは地面との激しい闘いの末に空気の中に出てきたに違いなく、そして刈り取られ、脱穀され、粉ひき器で挽いて粉にされる。その後、こねられ、オーブンで焼かれ、そして最後に歯で噛まれて胃に送られ、消化される。」

真の人間らしさを得るには、人はそれぞれ何度も”ふるいにかけられる”か”蒸留され”て、自分の真の本質を発見しなければなりません。そうでなければ、真に人間らしくあるために自分の可能性を最大限に伸ばす能力が発揮できないのです。

アッラーのしもべは苦しむようになっているのです。アロエの木が燃えるようになっているように。

サブルは、アッラーのしもべの本質的で最も重要な特性であり、それはアッラーが運命づけられたあらゆることを甘んじて受けるという、アッラーの目から見た最高の精神状態という栄誉で報いられるものなのです。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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