シュクル(感謝)

Home » Japanese (日本語) » 彼の作品 » 心を知る » シュクル(感謝)

シュクルは、自分に対する良いことに感じる喜びや感謝の気持ちを意味する言葉ですが、スーフィーたちは、それによって自分が創造された目的を達成するために自分に授けられた体や能力、感情、思考を使うことを意味します。つまり、創造主に与えられたものについて創造主に感謝するということです。このような感謝は、すべてはアッラーから直接もたらされることを認め、それについてありがたく感じることで、個人的な行動や日常生活、言葉や心に反映されます。人は、アッラーから与えられるもの、もしくは与えられずにいるものと同様に、アッラーのお力と強さにのみ頼り、すべての良いことや恩恵はアッラーから来るということを認めることで、口頭でアッラーに感謝することができるでしょう。アッラーのみがすべての良いこと、美しさ、恩恵を創られ、それを得る方法も創られるため、アッラーだけがそれらを適切な時にお与えくださるのです。

アッラーのみが「天のテーブル」として私たちに用意されたものすべてを決定し、配分し、創造し、広められるので、彼だけが私たちが感謝するのに値されます。アッラーの恩恵を得ることを自分や他人の力に依るものだと思うことは、実際にはそれによって、アッラーは真の所有者、創造者、すべての恵みを与えてくださる御方ではないと考えているということを示してしまっているのです。そしてそれは、私たちの前に荘厳なテーブルを置いた従者に莫大なチップを与えて、それを準備させ私たちのところへ持ってこさせるようにした主催者を無視するようなものです。このような態度は、次で述べられているように、まったくの無知と忘恩を反映しています。『かれらの知るのは、現世の生活の表面だけである。彼らは(事物の)結末に就いては注意しない。(聖クルアーン30:7)』

心からの真の感謝は、すべての恩恵はアッラーから来るということに確信を持ち、そしてそれに相応しく生きることを通して現れます。すべての恩恵と同様に、自分の存在や人生、体、外見、そしてすべての能力や成果は、アッラーから与えられたものだと、自分自身で確信を持ち、進んで認めなければ、言葉で、そして日常生活を通して、アッラーに感謝することはできないでしょう。これについては次のように述べられています。『あなたがたは思い起こさないのか。アッラーは天にあり地にある凡てのものを、あなたがたの用のために供させ、また外面と内面の恩恵を果たされたではないか。(31:20)』『またかれはあなたがたが求める、凡てのものを授けられる。たとえアッラーの恩恵を数えあげても、あなたがたはそれを数えられないであろう。(14:34)』

身体的な感謝は、自分の器官や機能、能力をそれらが創られた目的のために使うことや、しもべとしての義務を果たす中で可能になります。一方、口頭による感謝とは、日常的なクルアーンの読誦、礼拝、祈願、アッラーの美名を言うことだと言われています。心による感謝は、イスラームの信仰とまっすぐであることの真実について確信を持つことを意味します。実践のもしくは行動の感謝は、すべての崇拝行為をまっとうすることだという人々もいます。感謝は信仰と崇拝のすべての側面もしくは枝の部分に直接関係するため、信仰の半分だと考えられています。包括的には、忍耐と合わせて考えられ、感謝と忍耐は信仰生活の半分ずつだと考えられることもあるのです。

聖クルアーンの中で、『必ずあなたがたは感謝するであろう。(2:52)』や『アッラーは、感謝(してかれに仕える)者に報われる。(3:144)』のように、全能のアッラーは感謝するように繰り返して命じられ、それが創造と宗教をお与えになったことの目的だと示されています。『もしあなたがたが感謝するなら、われは必ずあなたがたに(対する恩恵を)増すであろう。だがもし恩恵を忘れるならば、わが懲罰は本当に厳しいものである。(14:7)』というような章句では、アッラーは感謝する者に豊富な報奨を約束なされ、感謝しない者には悲惨な罰で脅されました。アッラーの美名の1つは、感謝される御方であり、これはすべての恩恵を得る方法は、感謝を通してであり、それにはアッラーがたくさんの報奨を返してくださるのです。アッラーは預言者アブラハムとノア(彼らに平安あれ)を、次のように言われて称えられました。『かれは主の恩恵を感謝する。(16:121)』『本当にかれは感謝するしもべであった。(17:3)』

感謝は非常に重要な宗教的行為であり大切な「資本」でありますが、本当の意味でそれを行っている人はほとんどいません。『われのしもべの中で感謝する者は僅かである。(34:13)』ほんの少しの人だけが、「アッラーに感謝するしもべであるべきではないのか?」と言って、感謝の義務を完全に自覚して生活し、感謝の義務を果たすために最善を尽くそうとし、それに沿って生活しようとしているのです。

預言者ムハンマド(彼に平安と祝福あれ)は感謝においても無比の存在であり、義務ではない夜中の礼拝(タハッジュド)を長くされていたため、足が腫れてしまっていました。あるとき、彼は妻のアーイシャに「私はアッラーに感謝するしもべであるべきではないのかね?」とおっしゃりました。常にアッラーに感謝し、信者たちに感謝することを勧められ、そして「アッラーよ。私をあなたの名を言い、あなたに感謝し、可能な限り最善の方法で崇拝できるように助けてください。」と言って毎朝毎晩アッラーに祈られたのです。

感謝は、アッラーの恩恵や愛情を受けて、これらの祝福をもたらしてくださった御方へと向ける深い報恩の念と愛情であり、そして愛情や感謝、お礼の気持ちでアッラーに向かうことです。前述のハディースはこれを最も直接表しています。

私たちはたくさんのものに感謝するでしょう。食糧や家や自分の愛する家族、富と健康、信仰やアッラーの知識や自分たちにもたらされた精神的歓喜、そしてアッラーが自分たちを愛してくださっているから、自分たちは感謝しなければならないということを受け入れられるという認識です。もしこのような認識に対して感謝する人が、自分の無力さと「資本」の貧困さのために常にアッラーに感謝するのであれば、彼らは真に感謝する人々の仲間になれるでしょう。アッラーの使徒(彼に平安と祝福あれ)はおっしゃられました。

「預言者デービット(彼に平安あれ)は全能のアッラーに尋ねられました。『主よ。あなたに感謝できるということは、それ自体が感謝すべき事柄なのに、どうやったら私はあなたに感謝することができるのでしょう。』アッラーは答えられました。『お前はたった今それをした。』」

これが「私たちは、それに足るほどにあなたに感謝することはできません、感謝されるべき御方よ。」で表されていることなのではないでしょうか。

人はアッラーの恩恵を認めそのありがたさを感じることで、感謝することができるようになります。それは、恩恵をもたらしてくださる御方に感謝の気持ちを感じるのが、恩恵について十分に認めありがたさを感じることに依るところが大きいためです。信仰とイスラーム(聖クルアーンなど)によって恩恵を認めありがたさを感じるように導かれるため、人は感謝の気持ちでアッラーに向かえるようになります。信仰とイスラームの実践においても、私たちは無力無能でありアッラーのお慈悲を必要とすることを、またこれらの恩恵について、アッラーから与えられるものだということを私たちはもっと認識すべきなのです。これを認識することができたら、私たちは私たちが必要としている恩恵や愛情を与えてくださる御方を称えるようになるでしょう。そして、『あなたの主の恩恵を宣べ伝えるがいい。(93:11)』の意味に気づいたら、感謝する必要があるということを感じることができるでしょう。

誰もが自然に、良いことや自分に良いことをしてくれた人を称えたい気持ちになるものです。しかし、魚が水の中で生きていることに気づいていないように、この気持ちが呼び起こされるまでは、誰か他の人によって恩恵を与えられていると気づくことはありません。その上、これらの恩恵はそれが手に入った直接の理由や原因によるものだとも思えるかもしれません。もし常に受けている恩恵を見ることも感謝することもないことを盲目と呼ぶのであれば、恩恵を様々な盲目と呼ぶべき理由や原因のおかげだと思うことは、許されない逸脱と言えるでしょう。「小さいことに感謝しない者は、大きなことにも感謝しない。」や「人々に感謝しない者は、アッラーに対しても感謝しない。」というハディースは恩恵に対して盲目であることを表し、私たちに感謝することの重要さを思い出させてくれます。『だからわれを念じなさい。そうすればわれもあなたがたに就いて考慮するであろう。われに感謝し、恩を忘れてはならない。(2:152)』や『かれに仕え、感謝しなさい。(29:17)』は真に感謝されるに値するのはアッラーであるということを教え、アッラーの絶対的唯一性について思い出させてくれます。

感謝は3つに分類することができます。第1の分類は、宗教や精神的到達度に関わらず、誰もが欲するものに対する感謝です。第2の分類は、明らかに不愉快で嫌なことなのに、それを感謝すべき恩恵として見ることができる人々がその本質を示すものに対してする感謝です。

第3の分類の感謝は、アッラーに愛され、恩恵をもたらされる御方の視点からそれを見ることができる人々によってなされるものです。彼らはアッラーの恩恵を通してアッラーご自身の現れを見ることから始まる精神的歓喜の中に人生を送り、アッラーを崇拝することに最上の喜びを感じます。アッラーに対する愛情から流れ出る精神的歓喜によって、彼らは常に最高潮にいますが、同時にアッラーとの関係について非常に注意深くもあります。このような人々はアッラーからもたらされた祝福を保とうと絶え間なく努力し、自分が逃してしまったものを常に捜し求めています。彼らが絶え間なく自分の信仰、愛情、感謝をアッラーに向かう方向に深めている間、「視界の網」は様々な祝福や贈り物で詰まっているのです。

アッラーよ!私たちをあなたが愛し、誠実にされ、あなたのもとへと返されたあなたのしもべにお加えください。平安と祝福をわれらが指導者、愛され、誠実にされ、あなたのお側へ引き上げられた者たちの指導者にお与えください。

Share:

More Posts

fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

fethullah gulen 52 b70 scaled

ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

tr haber 16281 pakistan deprem 87a

心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

akademisyenler mefkure yolculugu kitabini muzakere etti 44c

内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

dun irtica bugun camia 44f

恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

verslaafd aan gemakzucht eb1

泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

philip clayton 1 a74

名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

hasbi gulen19

不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

Send Us A Message