1.悪魔とその働き

悪魔(シャイターン)は、幽精(ジン)のように火から創られた。反抗する以前は崇拝を行なう天使たちの中にいて、彼らが行なうことを行なっていた(洞窟章18/50)。天使たちは反抗や反乱は起こさず、命じられたことを行なう(禁止章66/6)。しかし、悪魔は天使たちのように罪を犯さない保証はなかった。

悪魔の中に存在したうぬぼれや反抗の種は、最初の人間アーダムに対して尊敬の表現のために平伏するよう命じられたとき爆発し、表面に現れた。うぬぼれをもって「私は彼より優れている。あなたは彼を泥から創られた。私は火から創られた」と言ったのである。(サード章38/76)クルアーンの言葉によると、反抗したのはイブリースであり、この反抗以降悪魔という名称と、審判の日まで生きる許しを得た。そして「私は、彼らを前から、後ろから、右てからも左手からも襲いましょう。あなたは彼らの多くの者が、(御慈悲に対して)感謝しないことが御分かりになるでしょう」と宣言したのである。(高壁章7/17)

ここでは、次の点をあらかじめ明らかにしておきたい。戦争において、敵軍は、個人個人というよりはそれぞれが所属する全体の力や強さ、武器や弾薬の状況、攻撃能力、数や武器における優位性、どこに陣地を占めているか、といったような最も重要となる特徴が探られ、それに応じた態度がとられる。敵の将校や兵士の髪や目の色、服のタイプや、その他個人的な特徴を探ることは何の役にも立たない。もし何かの役に立ったとしても、前者の特徴ほどの重きはない。

これは、幽精や悪魔についても同様である。このテーマにおいて私たちにとって最も重要なことは、悪魔の接近方法、永遠の生への保証である信仰を狙ってくるその策略、わなについて明らかにし、必要な手段をとることである。

2.悪魔の創造の神意とは

悪魔が創造されていなかったとしたら、人の創造には何の意義もないことになってしまう。アッラーは、決して罪を犯さない、悪魔がもたらす疑念にもこだわってしまわない、天使のような無数の存在を創造されたのである。アッラーは、人間とは異なる存在として植物や動物を創造されたように、神の芸術を、天使たちとはまた異なる形で映しだす鏡として、人間を創造されることを望まれたのである。そう、創造された人間の特性において秘められている能力が出現し、発達し、目に見える形で現されるために、人間の前に、一つの鼓舞、励ましの要素として、そして発展への媒介として、悪魔や悪い魂を創造されたのである。内面のうぬぼれや反抗の種が外面に現れている悪魔は、意志をもってするべき事をしている。悪魔は、人間を後ろから追い上げる、ライバルのマラソン選手のようである。人がその目標に達することができるように、成功することができるように、一瞬たりともその後について離れないこの永遠のライバルを超えられること、先を越せること、常に彼よりも前に、先にいることができることが必要となるのだ。もしこういった、人間をやる気にさせるライバル、敵がいなかったとしたら、人が真剣に競い、その能力を発展させると言うようなことは絶対に実現しなかっただろう。もっと正確に言うなら、その能力を発達させるところを見出せず、結果として敗北することになっただろう。人間は、最も高い人間性の段階、完成された人間としての段階を、この永遠の敵と戦うことによって手にし、そうしてアブー・バクルのような人たちを生み出してきたのである。同時に、同じ人間が、この戦いにおける無力さによって、アブー・ジャハルのような状態にも至ったのである(脚注5を参照)。

災いは、悪魔が創造されたことではなく、それに従って災いを犯すことである。何らかの殺人事件において、その殺人に使われたナイフや銃ではなく、それを行なった人が真の原因であるように、悪魔もまた、人間の犯した災いで使われた、血にぬれた道具なのであり、真の犯人はその道具を用いた人である。そう、人間の我欲、そして我欲の支配下に入ってしまった意志が、悪魔の示唆の影響を受けて悪いことを行ない、その結果到達することとなった悪い結果の真の原因は、悪魔ではないのだ。悪魔と災いは、低俗な一つの理由に過ぎない。真の病は人の意志にある。そう、人間は、悪魔の存在によってではなく、自らの意志によって悪事をなすのである。

人は、自らの狭い世界、そしてその手にしたささやかな結果によって物事の価値を判断する傾向にある。しかしアッラーの創造は、全体的な結果、効果を考えてなされる。例えば、火に手を突っ込むと、その火は我々の手を焼く。これは一つの特徴である。ここで、火について「完全に害のあるものだ」ということは言えるだろうか? この種のたくさんの害があることを知っていたとしても、私たちはその全体的な結果を見て、火に価値があり、必要なものであると判断している。電気や雨も同様である。アッラーは何かを創造される時、全体的な結果を考えられる。悪魔が創造されたということも、全体的な結果を考えられてのことなのだ。アブー・ジャハルがその意志のうちに地獄へ引き込まれたこと、アブー・バクルのようなダイヤの魂を持つ何千もの聖人たちや完成されたムスリムたちが成熟を遂げて天国へ至ったこと、その双方に悪魔の働きがあるのである。

大きな、全体的な結果を見ず、小さな災いの原因になるからと言って、私たちは火や、電気や、雨を害のあるものと見なし「存在しなければよかったのに」と言うだろうか? ノーである。同様に「なぜ悪魔が創造されたのだろうか」と言うことはできないのだ。体全体の回復のためには、ガンに冒された腕や足を切除する。悪魔がもたらす大きな結果や効用がある以上、その少々の災いのために不平を言うことはできない。兵士たちが死ぬからと言って兵士と言う職業をなくそう、戦争には行かないようにしようということができるだろうか? 悪魔が持ち去ってしまったものは、信仰の面から、それが獲得させたものに比べて千分の一あるかどうかである。「どういうことだ? 悪魔に惑わされて何千人もの人々が地獄に落ちているのではないか?」と言うことはできない。なぜなら、信者たちにおける特性は、不信心者の数よりもさらに重要であり、さらに優れたものであるからである。千個のナツメヤシの種のうち、十一個が木になるのだとしたら、千個の種の所有者になることがよりいいだろうか、それとも、九八九個が腐ってしまったにも関わらず木になった十一のナツメヤシの木の所有者になることの方だろうか?

3.疑念とは何か

疑念とは、悪魔が人間の心を悩まし、その想像の鏡にいくつかのシーンや景色、記憶や想像を投げつけるということを意味する。悪魔が、人に、特にムスリムに対する最後の計略、最後に使用する砦、最後の武器、最後の陣地が疑念である。悪魔は、憎悪や逸脱へ至らせることのできなかった人に対して、手段が尽きたことのしるしとして「疑念の矢と弾丸」を用いる。ある観点から疑念は、悪魔の「あなたは私の友にならなかった。あなた自身の友にもなるな」という考えにより、信者に我を失わせる努力なのだ。

4.心にある「悪魔の点」とは何か

悪魔の点とは、悪魔が自らの大砲、銃、矢を向け、標的にする、信者の心の中心の重要な弱点である。人の心には、テープのように記録を行なう、天使からのインスピレーションがもたらされる発電所と、それに並んで悪魔が降らせる疑念の矢の的となる発電所とがある。これはちょうど、鏡の透き通った輝いている面と、黒くつやのない面とが一緒にあるようなものである。ご存知のように、電池にすらプラスとマイナス電極がある。ある意味、これらも、このような形で補填し合うという関係にあるのである。

5.疑念はどのような人により起こりやすいか

新しく入信したムスリムまたは、新しくまじめに宗教行為をやり始めた人々には、あまり疑念は起こらない。疑念は、身も心も教えのために捧げ、その手綱を悪魔の手から引きちぎり、アッラーに対するしもべとしての振る舞いを多少なりとも実行している人、信仰という点でも成熟している一部のムスリムたちにより多く起こる。心の能力によって内面世界において進歩を遂げつつある人、弓形を描きつつ、完全な人間という段階へと昇っていっている信者たちは、その途上のかすんだところで悪魔の疑念に直面する。そう、人間は、魂が天空に向かって上昇している時、それぞれの段階、地点で悪魔はわなを仕掛け、待っている。悪魔にとって最も適した瞬間に弓をひき、矢を放ち、疑念を送る。つまり疑念は、信仰の扉の深さや力に対する、悪魔の嫉妬、反応なのである。

疑念は、時には神経質で繊細な魂に、時には過度に食料を摂取している、快適さにこだわっている人に起こる。ムスリムにおける疑念は、危機や抑圧といった形ではなく、不快さを与える種類のものとなる。信者が非常に成熟していたとしても、やはり疑念が起こることはある。さらには、教友の次に最も偉大な人物の一人であるイマーム・ラッバーニ(一五六三~一六二四、インド)ですら、疑念に捕らえられることはありえる。疑念に捕らわれた人は必ず成熟し、向上しているとはいえないのと同様、疑念が起こらない人は発達がないということにもならない。

疑念は、不信心者には起こらない。不信心者の憎悪は疑念ではなく、おそらくは計算され、計画付けられ、そして頑固な憎悪なのである。不信心者には苦痛、内面の苦しみ、満足の欠如等が起こりえる。しかしこれら全ては彼を攻撃的にする。悪魔は彼に独特の、新たな考えを吹き込む。否定の名のもとに様々な思想が与えられ、最後には不信心者に悪魔自身をも否定させ「悪魔は存在しない」と言わしめるのである。

そう、悪魔は、自らの記録簿に記載済みの人、その手綱を悪魔の手に預けてしまった人、とことこと悪魔の後をついてきているような人には疑念は抱かせない。なぜなら悪魔は、その空気、影響の範囲内にいる人、目が覆われ、その脳が目に、その心も胃にあるような人とは関わらないからである。彼らは悪魔の籠の中、わなの中で、身動きしない獲物なのだ。「救われたい、どうしたらいいか」とも思わない獲物である。彼らは悪魔に満足しているし、悪魔も彼らに満足して、一緒にやっていっているのだ。その道が続いているところまでではあっても。

6.悪魔が疑念を生じさせる意図は何か

悪魔は、信仰し、信念において完全で、崇拝行為(イバーダ)を果たすムスリムの心に入り込み、彼を教えへの憎悪と押しやることはできない。決して彼の心において、アッラーへの知識や愛情、預言者ムハンマドの慣行に従い、それを守ろうという考えが占めている場所を占領することはできない。彼に崇拝行為を放棄させるということでは成功できない。なぜなら信者は、どんなことにも関わらず、常に向上し、アッラーへの親しさを獲得し、その魂、感情によって、光の螺旋の中を上昇していっているのである。こういう状態において悪魔は「せめて、最後の陣地から彼に石を投げてやろう。疑念の矢で彼の心を曇らせてやろう。崇拝行為を行なう時の心の安らぎを壊してやろう。そうして彼の注意をひけるだろう。『今までこんなことはなかった、これは何だろう』と言うだろう。疑念を持ち、そのうち『こんなことには耐えられない』と言うようになるだろう」という望みで、信者に対して疑念の矢を放ち始める。この矢を受けてしまった、疑念に取り付かれた信者は、他の時には考えないようなことが礼拝中に思い浮かぶようになる。ウドゥー(礼拝の前にする小浄)を行なった後「腕を洗っただろうか? 頭をぬらしただろうか?」と言い、再度ウドゥーを行なう。もう一度、もう一度とやっているうちに、ウドゥーも、その他の崇拝行為も、彼には困難なものに感じられ始める。そして、ついには全てを放棄する(アッラーがお守りくださいますように)。その結果、崇拝行為から彼の心を冷めさせようとしていた悪魔のおもちゃとなってしまう。
 疑念は、崇拝行為同様、信念と関わる部分でも起こりえる。その先では、悪魔が罪を飾り立て、思考を曇らせ、扇動する。そして人間を、知恵や論理や正しい判断を受け入れない、無意味なことを話す人にしてしまいえるのである。

7.悪魔がどうやって人間に接近し、人間を襲う

悪魔が反抗したとき次のように言った。

「あなたが私を惑わされたので、私はあなたの正しい道の上で、人々を待ち伏せるであろう。そして私は、彼らを前から、後ろから、右てからも左手からも襲いましょう。あなたは彼らの多くの者が、(御慈悲に対して)感謝しないことが御分かりになるでしょう」と宣言したのである。(高壁章7/17)

悪魔が様々な方面から人間に近づくということは、人間が体験する様々な状況において様々な次元で悪に誘惑されることを意味する。精神やその内面の構成から多くの側面を持つ人間は、それらの面を発展させることにより、その物質的あり方にも関わらず、天国にふさわしい存在となりえる。さらには、まだこの世界にいるうちにすら、アッラーがお与えになられた、あたかも天使の翼のような羽で、霊的存在と接触を持ち、幽精たちと会い、天使たちと関係を築く。そして向こうの世界から良心に吹き込まれてくる真実を聞き取り、感じることができるようになる。

これとは逆に、悪魔にも、人間の内面で稼動させる鉱山がある。全ての骨折り、努力をこの鉱山のために費やし、人を逸脱させるべく努める。そう、一定の効果のため、英知によって人間の特性に加えられている性欲、怒り、癇癪、知恵、熱望、頑固さといったものそれぞれは、宗教的感情によって正されなかった場合、良心に反対して使用される。これを行なうのが、悪魔である。

例えば、我欲下にとどまっている限り、良心は完全につぶされてしまうということになる。良心という天使的な部分が発展すると我欲は、良心の命令下に入ると言える。悪魔は、人が真髄を見出すことに対し、常に我欲を利用する。良心には決して近づけない。なぜならそこには意志があるからである。神聖な感情、意識があるからである。人が、その意志を用いることを知っていれば、彼には悪魔は近づけないのである。意識と神聖な感情という翼を得ていれば、悪魔の妨げにも邪魔されることなく、知識の空にはばたいていくのである。

そう、人の心がアッラーに満たされているこの空間においては、心の扉は常に悪魔に対して閉ざされているのだ。悪魔による騒動や嵐は外部で、その固有の場面で現れる。

悪魔的、あるいは天使的なあり方というのは、人間の特長においてお互いに非常に近い存在であり、常にどちらかがもう一方の影響を受けている。例えば、悪魔的な部分が爆発した爆弾の放射線は、天使的な部分をも影響下におく。先にも触れたように、悪魔は性欲をいじり、人を我欲へと押しやる。知恵をいじり、計略へと押しやる。なぜなら人の欲望、怒り、うぬぼれ、この世への執着をあおるからである。網にかかった人の感情世界、精神世界を曇らせ、彼らを彼ら自身から遠ざけることを望むのだ。

しかし悪魔は、いつでもその悪を感じさせ、悪事を行ないながら我々に近づくのではない。それは左から接近するように、右からも、前からも、後ろからも近づいてくる。悪魔のアッラーに対するその恐ろしい敵意、そして人をいかにして迷わせるのかということに対する不遜その表明をクルアーン自体が明らかにしているのだ。

「そしてわたしは、かれらを前から、後ろから、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、(御慈悲に対し)感謝しないことが御分かりになるでしょう」(高壁章7/17)

悪魔は前から接近し、人の未来に対する希望をくじく。復活を否定させる。「イスラームの教えはもはやその義務を終えた。二度と復活しないだろう」と言わせるようになる。心に失望感を抱かせ、将来を闇、ブラックホール、カオスのように見せる。

悪魔は後ろから接近し、預言者の光や聖人たちの光との結びつきを絶たせる。「時代は変わった、そんなのはもう遅れている」と言わせる。過去をののしらせ、自らの出自を否定させる。悪魔はこういう形で、過去や将来に対する窓を閉ざし、過去や未来に対する結びつきを絶たせた後、私たちに毒に満たされた思想や、飾り立てられた哲学を吹き込む。「過去も未来も全て作り話だ。二度とこの世界にくることもないだろう。過去はすでに過ぎ去った。あなたは今を生きることだけを考えなさい。あなたの一生を台無しにしてはいけない」と語りかけるのだ。

悪魔は左から接近し、人を明らかな、周知の罪へと引き寄せる。今日非常に広く見られている、あらゆる禁じられた道は、悪魔が左から接近したことの結果である。ここでそれらを一つ一つ数え、不条理さを描写したくはない。

そう、悪魔の更なる接近方法は、正しいように見せかけ、悪いことをよいことのように思わせる形による。信者にとって最も危険なのがこれである。罪に対して扉を閉ざし、崇拝行為に重きをおくムスリムに、悪魔は右側から接近し、自らを気に入らせ、成功を自らのものに、悪いことや災いや失敗を他者のせいにさせることによって、成功という場面で彼に最もひどい損害を与える。そう、信者が夜の礼拝に起きだし、それを翌日他者に語ったのなら、それは悪魔の右側からの一撃を受けているということを意味する。自分たちが行なったこと、語ったことによって他人にほめられることを意図し、仕事や奉仕ではなく賞賛が気に入っているというのなら、そしてその賞賛によって元気付いているようであれば、それは悪魔が私たちを右側から襲っているということを意味する。そう、こういった人は、カアバで周回を行なう時でも、戦いの最前線にたって奮闘している時でさえ、その行ないはもはや終わってしまっているのだ。

第二代カリフウマルの孫ウマル・ビン・アブドゥルアジズは、ある人に表現豊かな手紙を書いた。その後、少々仰々しい、大げさな表現を用いて書いたことに気づき、我執に影響を与えると考え、その手紙を破ったのだ。私たちが行なった仕事、任務、奉仕によって私たちの自我において興奮や喜びが生じているのであれば、その仕事のどこかに悪魔がもたらした何かが混じっているかもしれないということを考え、アッラーに向き合って結びつきを新たにしなければならない。そう、我々に必要なことは、自我の気に入るような物事に重きを置かず、何かを行なう時はそれがアッラーのご命令であるから行ない、その行為がもたらす喜びをあの世へ残しておくこととなる。

人は誰でも、アッラーが彼自身に与えられている恵みについて考え、どういう段階にあろうとアッラーの恵みにあずかっていることに感謝を行なわないければならない。人はアッラーに対する責任と感謝の義務を果たし、アッラーもその豊かな恵みの及ぼすところとして、人の意思や純正の度合いに応じて天国のような永遠の恵みにより、その慈しみにあらたな深みを獲得させられるのだ。

これらの他に、広い意味で、悪魔の右からの接近とは、大きな問題を小さな問題と、小さな問題を大きな問題と見せかけることだと見なすこともできる。私たちはよく遭遇する。その人はムスリムであり、巡礼も行っており、モスクにもいつでもやってくる。アッラーが彼を崇拝行為から遠ざけませんように。しかし、彼の家には礼拝を行なわないい子息がいるのだ。こういう状況に対して彼の心は苦しめられない。それなのにモスクでは、細かい問題について議論する。次世代を担う子供たちは堕落し、戸惑っている。その中に彼の息子も娘も孫もいるのだ。しかしそういうことを思い悩む代わりに、悲しんで何らかの手段を模索する代わりに「モスクでは死体は長いこと待たせられるべきではない」とか「どうしてアザーンの後に純正章を読まないのか」といったような細かい問題を議論する。こういった人たちは、葬儀の後の七日目、四十日目、五二日目の夜の行事は欠かさずに行なう。木曜日の夜に婚礼を更新し、悔悟の集いを行なわないければ、あなた方を襲ってくる。家の最もいい位置にクルアーンは置かれているが、しかし、その家では誰もそれを全く理解していない。こういった状況も、悪魔の右側からの打撃、それ以上に右からの襲撃である。

8.疑念には、意義のある側面もあるのだろうか

そもそも疑念は、先にも触れたように、多くの人において、特に繊細な性質において、死の時まで昇る要因となりえる一つの力である。あたかも時計のぜんまいのように、人の心も疑念によって巻かれている限り常に作用し、先に、さらに先にと彼を導く。なぜならそれによって試練と努力が死の時まで続けられるのである。健全な信仰を持ち、崇拝行為を果たし、我欲を管理下においたムスリムに、この「最大の試練」を受けさせ、彼にイスラームの戦士としての善行を獲得させる源が、疑念なのである。

別の一面からも、疑念は人を常に覚醒させ、注意深く保つ。信者が、なすべきことをなしえ、状況を克服したことによる安らぎや安堵のうちに、眠ることを知らない敵である悪魔の穴の一つに落ちてしまわないよう、常に油断ない兵士のように注意深くいられる。病人はその病気のために、アッラーに乞い、願うように、疑念を持った人も、疑念の現われが生じるたびに「ああ、主よ」と言い、自らを災いから救い、発展させるのだ。そして、罪が入りえない城砦の中に入り、救われる。先に示したように、疑念を増幅させ、害のある状態にさえしなければいいのだ。

9.疑念から救われるための実践的対処法

疑念は信仰の強さからくるものである

まず、これを明らかにしておきたい。疑念とはそれほど恐れられるべきものではない。なぜならそこに信仰があるから、疑念が起こるのである。教友の一人が預言者ムハンマドのもとに来て「アッラーの使徒よ、私は疑念に取り付かれているのです」と言った時「恐れられるべきものではない。それは信仰の本質であり、信仰の強さからのものだ」とおっしゃられていた。悪魔は、あなた方に信仰の鉱脈、崇拝行為という宝庫、礼拝や教えへの奉仕という宝石があることを知っているからこそ、海賊のようにあなた方を攻撃するのだ。海賊行為は、海で行われるものについては歴史に埋もれてしまったかもしれないが、悪魔という観点からは、それは預言者アーダムから始まり、最後の審判の時まで続くものなのである。

海賊が、宝を積んだ船を襲い、埋蔵物のある島を攻撃するように、悪魔もムスリムの、信仰という宝を秘めている心を攻撃する。そもそもそれは、空っぽの、乾ききった心には用がないのだ。そういうものには疑念の矢を射ることもない。泥棒ですら裕福な家を狙う。東西の不信心者や残虐者もそうではないだろうか?

疑念に陥ったムスリムは「悪魔はあらゆる攻撃に敗れたのだ。だから今、信仰やイスラームに対する疑念や疑いによって私を惑わし、私の宝に手を伸ばそうとしているのだ。これは彼の最後のあがきだ。いつか、私からは何ももぎ取れないことを理解し、去っていくだろう。私の家の戸口に山賊がやってきて、何日かねだった後、去っていくように。もし去らなかったとしても、扉は彼に対して閉ざされているし、私を守る城砦はとても堅牢だ。アッラーのお許しによって、私に対して何もできない」と考えなければならないのである。

疑念は心の産物ではない

心が不快に感じるのであるから、疑念は心の産物ではない。もしそれが心の産物であったなら、心はそれを不快に感じることもなく、不安を感じることもなかっただろう。そしてそういう心には、悪魔も用がなかったことだろう。

心が不快に、不安に感じるのは次の理由による。すなわち、心は疑念を承認しておらず、その持ち主でもない。疑念との間に意義、特性の面からつながりがないため、心は疑念によって不快を感じるのだ。人が示している反応、体温の上昇やひそめられた眉、頭痛、食欲が失われること、などからこれを理解することができる。あたかも、体内に入った細菌や、この細菌の生物学的構造に与える害、そこから生じる支障に対して体が対抗勢力を作り出し、抗生物質が投入され、重大な対立が生じていることの結果として体温が上昇するようにである。そう、悪魔が心に投げ込んできた、私たちからなるものではないこの異種の空想、思想、そして疑念に対して、私たちの精神的構造があたかも免疫を作り出し、この災いと悪の軍に対して対抗しているのであり、その結果私たちの熱は上がり、心は苦痛を感じるのである。もし私たちの体が何らかの対抗を示すことなく、毒蛇を見つけたヤギのようにすぐに降参してしまっていたら、エイズウイルスに対して免疫が降参してしまったように、私たちにおいてももう終わりだということになる。もたらされた疑念に対して私たちの心、信仰が対抗しなければ、その時には疑念もなく、熱も上昇しない。これは「いらっしゃい、好きなようにしていいですよ」と言うことであり、悪魔が望むものもこれなのである。

疑念に陥った心は、悪い人がごみを投げ込んだ泉のようである

この問題を、次のようにも考えてみることができる。澄みきった、清らかな水源がある。その成分、味、そしてそれがもたらす健康の面から、ザムザム(大天使ジブリールによって、預言者イブラーヒームの息子イスマーイールの足元に噴出させられた泉)の水のような水源である。皆に知られ、有名な存在になっている。世界的にも認められている神聖な泉である。ここに、悪意ある人がやってきて、ひそかに泉に近づき、この水の中に墨やちりやごみを入れて、逃げていった。あなたはこれを見て「なんということだ」と言うだろう。「私の泉は干上がってしまった。だめになってしまった。汚れてしまった。もうだめだ!」

しかし、真実はこうではない。流れ出る水はそこに投げ込まれたごみを流し去り、その清らかさを守るだろう。あなたがたの心、信仰が清らかな泉であれば、それを濁らせるために投げ込まれたちりも、土も、それには何の害も及ぼさないだろう。それらのちりも、土も流されていき、あなたの水源はいつでも清らかなままであろう。つまり、その濁りは泉によるものではない。そう、疑念にとらわれた心も、このようなものなのである。

疑念は、意志によるものではなく、またそれが実践に移されていないならば人はその責任を問われない

ご存知のように、責任が問われるためには意志や意識が伴うことが条件となる。動物や、精神に異常をきたしてしまった人、知能や意識が正常の状態でない人は、責任が問われることはない。だから、疑念について意志が伴っておらず、また計画を立てた上で「来なさい」と、心や思考の扉を私たち自らが開けているのでないなら、私たちは責任を問われない。ただそれを、実践に移したり、望んだりしなければいいのである。意志は、よく、このようにやってくる疑念を自らの前に見出すが、それに対して対抗することができない。なぜならそれは招かれることなくやってくるからである。さらに人は、連想によってその意志に関わらず目にした、あるいは耳にした、読んだ物事からも、何らかの記憶、思考に陥ることがありえる。そもそも、こういったことから逃れることは不可能であることが多い。なぜなら人間のこの状態は、その天性のあり方によるものであるからだ。

疑念は、人の前進の妨げにはならない、くもの巣のようなものである

疑念は、それ自体の不調和が認識された場合、無害なものとなる。クルアーンでは「本当に悪魔の策略は弱いものである」(婦人章4/76)と宣言している。そう、悪魔の策略は存在する。しかし無に近いものなのだ。例えば、二つの壁の間を通り抜けようとしている。そこであなたは、くもが網を張って道をふさいでいるのに気がつく。その場合、あなたは引き返すだろうか、それとも歩き続けるだろうか? くもの巣はあなたの前進を本当に妨げるのだろうか? 当然そうではない。あなたはそれを障害とは見なさないし、そこに何もないかのように歩き続けるだろう。

預言者ムハンマドは、悪魔は、逸脱や憎悪、罪や悪事を犯させない、また誰かの手をとって彼に罪を犯させることはできないと述べられておられる。悪魔が行なっていることは、ただ、悪を飾り立て、きれいに見せかけ、魅力的なものであるかのように示すことだけである。善と悪を創造されたのも、逸脱や導きに人を行かされるのもアッラーであられる。悪魔の疑念は、色鮮やかな泡によって飾り立てられ、造られている宮殿のようなものである。しかしその下には深い穴がある。何キロも続く深い穴である。

来て、いずれは去っていくものだということが認識されたなら、疑念は無害となる。疑念は、息を吹きかけると飛んでいってしまう毛のほどのものである。一時的に集まっても後に散らばっていく雲にも似ている。その後には雨も、風もない。それは飛行機が一瞬落ち込んでしまうエアポケットのようなものである。泣き叫んだり、嘆き悲しんだりするほどのものではないのである。

疑念は、それにこだわったり、悩みとしたりしない限り一切害をもたらさない

あなたがたの思考に関わってきて、それを汚すようなものではない、とあなた方が認識したならば、疑念は害をもたらさない。疑念は、幻想の鏡の中に消えていってしまうほど弱く、一時的な痕跡にすぎない。しみや汚れを付けることのない、一つの見かけ、そして非常にささやかな反射からなるものである。思いや想像に浮かんでくるものがよい源からのものであれば、それは思考や想像に光を与える。しかしそれが悪い源からのものであるなら、それは思考や想像や心に影響を与えず、汚染もしない。害を与えることもない。あなたが手にしている鏡に、へびが映っていたとして、鏡の中のそのへびはあなたの手に害を与えるだろうか? あるいは鏡に映っている汚物は、あなたの手を汚すだろうか? 鏡に映る炎は、あなたの手を焼くだろうか? あなたのおなかの中にある汚物が礼拝に、ダイヤの周囲の炭の粉がダイヤに害を与えないように、悪魔は外面も内面も真実の一つの存在であったとしても、それが放つ矢や、それが送ってくる幻像は真に存在するものではなく、一切の害はない。

私たちがこだわらず、興味を持って追求せず、それを認めず、些少なものと見なし、それを増幅させず、悩みにすることもなければ、疑念には何の害もない。それを常に上から見下ろし「アッラーのお許しによってこの下から逃れ、私の上からどかせよう」というのだ。

疑念は、害があると思い込まれた場合、害を与える

これまで説明してきた事項と逆の行動がとられた場合、疑念は害をもたらしえる。そう、疑念は有害だと思い込まれた場合、有害となる。こだわっていじくりまわし、好奇心にかられてそれを追い掛けた場合、有害となる。それは大きいものだと見なされることによって、重きを置くことによって肥大し、風船のようにふくらみ、私たちを飲み込んでしまう。一つの蜂の巣の中には何百もの蜂がいるが、あなたは気にせず巣の前を通り過ぎるだろう。疑念に対してとるべき行動もまさにこれなのである。

悪魔は、もろく一時的な幻影を私たちに送ってくる。私たちがそれに興味を持ってそれを作用させたならば、その小さな幻影は、空想の映像館で何時間も続くフィルムのようになる。しかし私たちはそれに気づくこともできない。特に一人でいる時、特に若い時代、しかも我欲が満足するような幻影、肉体を影響下におくような幻影があれば…。そう、人はそれを受け取り、それを想像の世界で興奮をもたらす映画としてしまう。しかし実際のところ、悪魔からもたらされたものは、最初のシーンのみなのである。だから、最初の釣り針に引っかからず、それを活躍させないことが必要なのだ。悪魔が我々を動かし、それによって私たちが見ている幻影を真実に変えてしまうことがないように。私たちが、その小さな幻影の犠牲にならないために。

繊細で神経質な魂は、悪魔の疑念に重きを置いて被害妄想を抱かないようにしなければならない

疑念は、繊細で神経質な魂において、より有害な症状、経験となる。そういった人は、疑念がもたらされた時、害をもたらすのではという不安によってうろたえ、被害妄想に取り付かれる。それからそれを心で、思考で、そしてその注意深さによって増幅させ、自分のものとしてしまう。そのうちそれを自分の性格のようにしてしまい、それと一体化する。これは、悪魔の前に失望し、完全にその害を被ったことを意味する。こういう状態に陥った人は、希望を喪失した状態で「もはや私はだめになってしまった」と言い出し、敗北を認める。そうしてその人の中心部分が悪魔の攻撃に対して無防備となり、それから人はそれを放棄してしまう。一人の司令官を考えてほしい。右前方にいくつかの金属的な輝きを見て、敵がそちらから攻撃してくると思い込む。そして軍隊の右側の部分をそちらに向かわせる。左側にある山の方でも木の葉が揺れ動くのを見て、敵が隠れている、攻撃してくると思い込み、左側の部分もそちらに向かわせる。結果として中央部分が敵の進攻や殲滅攻撃に対して無防備で、まさに狙いやすい状態となっている。そもそもこれは、戦術を知らず、敵を理解していないことを意味する。あなたがたも見ているように、悪魔のもたらす疑念にはマッチのすすほどの価値もないのに、人はそれを肥大させ、手に負えないものにし、わが身を襲わせるのだ。そう、注意しよう。それを私たちの想像や思考で増大させないように。

疑念の影響下から、崇拝行為によって遠ざかり、精神的影響から抜け出さなければならない

疑念に対して、あなた方を疑念の影響下から遠ざけるような行動をとらなければならない。ハディースでも語られているように、このようなことが起こった場合、つまり立腹した場合、立っているなら座り、座っているなら横になり、あるいはウドゥー(礼拝の前にする小浄)をして二ラカートの礼拝をし、内面世界に変化を起こさせなさい。さらに、その霧を晴らすべく、他の有効な行動をもとってほしい。意志をしっかりさせ、あなたの心理に影響を与えることができ、望まないのに落ち込んでしまったエアポケットからあなたを助け出してくれるような、あるいはあなたが巻き込まれてしまった電流からあなたを引き離してくれるような、小さくてもかまわないから何らかの手段を見出してほしい。預言者ムハンマドは、ある戦役からの帰還時に、疲れから目を覚ますことがおできにならず、朝の礼拝のカダー(定められた時間内に義務の礼拝を行なうことができなかった場合、その礼拝を次の礼拝の時間で行なうこと)を行なってしまった[i]時「この地をすぐに放棄しなさい。悪魔はここを支配し、統治している」と命じられた。そう、常に悪魔の影響範囲に対して注意深くいなければならない。そして知らぬままにそこに入り込んでしまったのであれば、即座にそこから遠ざからなければならない。のんきさや不注意さは悪魔や悪魔に関わる物事を招くものであり、アッラーを祈念すること、宣言すること、結びつきを保つことはあらゆる災いの力に対抗する防護であり、さらには反撃ですらある。例えば、預言者ムハンマドは、あるところで、悪魔がアザーン(礼拝への呼びかけ)の声からいかに逃げるかということを語っておられる。つまり悪魔は、アザーンやそれが含む意味に対して耐えることができないのだ。だから、悪魔が疑念によって攻撃してきたなら、私たちもアッラーと使徒との結びつきを強くし、神聖な意識の中にいるようにしなければならない。預言者ムハンマドの天への上昇(ミーラージュ)を思うことは、疑念や、特に礼拝中に頭に思い浮かぶこと、さらにはあくびさえもナイフのように切り捨てるだろう。

私は何人かの若い友人に、以下のように話したことを記憶している。「悪魔があなたの前に現れて、ハラーム(宗教上禁止)であるものを見るように望んでいたとしたら、次のように考えなさい。『それを見ることによってあなたは何を獲得するのか? あなたがそれを見たとして、それは無益なものである。もっと先に進んでみたとしても、やはり無益なものである。しかもそこには信仰があなたにもたらす後悔や苦しみがある。このように無益で苦しみを伴い、暗黒な結果をもたらすその視線に何の意味がありえようか』」そもそも、人が自らをこのように説得している時、そのハラームの対象物もとっくに消え去っているのである。

思い浮かぶ全ての疑念、虚飾を伴うすべての光景は、将来手にすることができるであろうもっとすばらしい物事を考えることによって取り除くことができる。クルアーンの多くの箇所では、この世での生活が一つの遊び、戯れに過ぎず、真の生活とはあの世におけるものであること、真の祖国とはあの世における居場所であることを語っている。(イムラーン家章3/185、蜘蛛章29/64)疑念はあなたに、ほうれん草と香草を見せかける。しかしアッラーは「様々な果実が手近にある」(真実章69/23)と仰せられておられるのだ。この世界でのように、消化不良を起こしたり腹痛になったりすることもない。この世界におけるハラームへの視線からもたらされる疑念も、同じように対処されえよう。

ただ私たちは、この世におけるあらゆるきれいなものに対し「望む人にはそれをお与えください。私にはただあなたが必要なのです」と言おう。もし、夏場の足を焼くような暑さを言い訳にして、悪魔があなたを、教えのための奉仕や布教の目的で外出するのを妨げようとし、他の人たちにもそうしたように、海岸や涼しい遊歩道にあなたを送ろうとしているのなら、地獄はもっと熱いのだということを思い起こさせよう。あなたの心を射ようとしていたその疑念は、悪魔ののどを詰まらせるだろうと私は考えているのだ。

さらに「アッラーの使徒とその誠実な友たち、そして彼らに続く良い人々が私たちを待ち続けているのに、私がこの辺でうろうろして、無益でふさわしくない状態でいることは正しいだろうか」と、悪魔が吹き込もうとしているのんきさ、無気力さといったものによる疑念を取り除くことが可能になると私は確信している。

礼拝の前にする小浄や礼拝における「不足があっただろうか」という形での疑念にも、重きを置く
べきではない

「ウドゥーや礼拝で間違いや不足があっただろうか」という形でもたらされる疑念にも、重きを置かないことが必要となる。このような疑念が最初に起こった時は、そのウドゥーや礼拝は再度行われてもよい。しかし何度も起こるのであれば、つまり洗うべきところを洗ったのかどうか繰り返し疑問を持ってしまうのであれば、その人は疑念を生じさせることなく、そこは洗ったのだと認めて、礼拝を始めなければならない。そしてまた、礼拝を何ラカート行なったかという点で疑念にとらわれたのであれば、礼拝が完全であるという確信を持って行動しなければならない。

疑念を放棄するには、行為を先に進めることである。疑念にこだわってしまうのではなく、まさにその逆の方向に進まなくてはならない。重きを置くことなく、行われたことが誤りであったとしても「正統四法学派[ii]のどれかには合っているだろう」といって済ますことの方が、罪を犯さないという点においてより適していると確信している。ここでの意図は、悪魔の仕事を断念させ、疑念を退けることである。


[i] 預言者ムハンマドは礼拝のカダーを行なったのはこの時だけである。

[ii] 訳者注 正統法学派は、四つの主な法学派(ハナフィー、シャーフィイー、マーリキ、ハンバリー)を採用している。法学派の違いとは、教義・信仰に関する根本的な問題ではなく、イバーダート(礼拝、断食、巡礼などの宗教儀礼)とムアーマラート(生活一般の規範)の詳細点である。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

Cikmadi Bahr 1

深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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