運命と自由意志の一致とその関係

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運命と言う項目において人がとらわれやすいテーマが、運命と人の意志の関わりである。一方において運命を批判し、強制的で人を拘束し、人を犠牲や囚人といった状態に陥れるものだという見方がある。他方においては、運命も創造も完全に人間に帰すものだという誤った解釈…。これらは二つとも、三つの点において、運命や意志の真実を述べるところから非常に遠い。運命における真実というのは、この二つのちょうど中間なのである。つまり、先にも述べようと努めたように、全世界において、さらには人間の生活において運命の支配が存在する。かつ、人間は傾向、意志、思考、判断、検討、選択、決定といった自由意志の持ち主である。だから、秤の両方の皿のように取り扱われ、平衡が保たれるべきなのだ。

クルアーンは、続いている二つの章句で、二つの立場をまとめるという形で、この問題を解決に導いている。

包み隠す章81/27~28節では、「これ(クルアーン)こそは、万人への教訓に他ならない。それはあなたがたの中、誰でも正しい道を歩みたいと望む者のためのものである」とされるが、それに続く29節では、「だが万有の主、アッラーの御望みがない限り、あなたがたはこれを望むことも出来ないのである」とある。これによって、全てを望まれるお方がアッラーであること、しかしその望みは、人間にも一つの傾向や望む権利を与えられることに対立するものではないことが明らかにされているのだ。

他の章においては「本当にアッラーは、あなたがたを創り、またあなたがたが、造るものをも(創られる)」(整列者章37/96)とされ、創造、存在させることが完全にアッラーのみのものであることを明らかにしている。さらに他のいくつかの章では、「人には、自らが努力したものの他には何も残らない。アッラーの道で努力しなさい。天国へ駆けなさい。アッラーから原因や要因を求めなさい。学びなさい、書きなさい、考えなさい!」と言うような形の宣言や励ましが行なわれ、人が運命を前に手を縛られた囚人ではないことを、そして小さな条件として意志が用いられなければならないことを明らかにしている。いくつかの章句においてはさらに明らかな形で記されている。

「われとの約束を履行しなさい。われはあなたがたとの約束を果たすであろう」(雌牛章2/40)

「あなたがたがアッラーに助力すれば、かれはあなたがたを助けられ、その足場を堅固にされる」(ムハンマド章47/7)

「本当にアッラーは、人が自ら変えない限り、決して人々(の運命)を変えられない」(雷電章13/11)

だから、絶対的な強制は、命をもたないもの、植物、動物、すなわち意志を持たない存在のためのものであり、人間や幽精には「条件付きの強制」がある。ただ、自由意志とその結果の創造は、完全に、アッラーに定められ、運命の書で確定されていたのだ。

1.アッラーは、私たちがどのように振舞うかを前もってご存知である故に、私たちの運命をそのように記された

アッラーは、私たちが自分の意志を用いて、どのように振舞うかを前もってご存知である故に、私たちの運命をそのように記された。

これまでにも明らかにされたように、運命は人に、定められた方向性でもって行動するよう強制するものではない。そうではなく、しもべがどのように行動するか前もってアッラーによって知られているために、運命もそのように確定されるのである。つまり、運命は英知の一種であり、管理や力の一種ではないのだ。英知は、その認識事項に従属する。ただし、アッラーの英知について従属するということは正しくないかもしれない。

運命は英知の一種であると言うことは、全てがアッラーの英知において形付けられ、決定や確定、それから一つの計画、企画の状態にされる、と言うことである。知ることと、知った事を行なうこと、つまり外的世界に出現させることは別物である。私たちの頭の中にどれほどの計画やプロジェクトを構築したとしても、これらは決して、例えば一つの家なり工場なりにはならない。英知が、認識されている事実に従属していると言うことも、一つの思考や計画が外部、つまり実際においてとることになる形と結びついているということを意味する。―似せていることにはならないよう望むが―アッラーの英知の一つの称号である運命も、このような計画やプロジェクトのようであり、この計画やプロジェクトは、実践される際、人が意志によって行なう行動によって、形や本質を獲得するのだ。それは、紙に書かれた目に見えない文字が、その紙に力と意志という薬品をたらすことによって見えるようになるようなものである。人が自由意志によって着手することによって、アッラーも、紙面上の目に見えない文字に、そのお力とご意志と共にご自身を顕され、そのようにして紙の字も外的存在と形を獲得する。ただしアッラーは、人がその意志によって何を行なうか前もってご存知であられるため、全てをあらかじめ一つずつ帳面に記されたのである。

イズミール・アンカラ間を走っている電車を考えて見てほしい。この電車が、何時にどこの駅にいるかと言うことは分単位で確定され、時刻表にされて掲げられている。電車は、この時刻表に書かれている時刻どおりに、着いているべき駅に着く。しかし実際は、電車の速度、線路の様々な特徴、電車がどれほどの客や貨物を乗せることができるか、道程にある駅、さらには季節や天気の状態などが電車の運行に影響を及ぼす要素であり、またこれら全ての要素が、時刻表を作成した係によっては認識されているのである。ここで、電車は、時刻表を作成した係員がそれを書いたから、決められた時刻に決められた駅に着くのだろうか。それとも、上で触れた、この係員とは関係のない要素によって、電車の運行が調節されているのだろうか。そう、意志の状況もまたこのようである。それは、運命の絶対的な命令下にあるのではないのだ。

日食のような、天文学的出来事は前もって知られ、カレンダーや論文などで時間や分の単位まで書かれている。ここで、日食、あるいは月食は、カレンダーに書かれているから、あるいは学者によって認識されているから、その時刻に起こるのだろうか? 日食や月食は、カレンダーで書かれているからと言って起こるのではない。むしろ逆に、それが起こるであろうからこそ、カレンダーに書かれているのである。人は、行なうであろう事を、アッラーが運命にそのように記されたと言って行なうのではない。人が行なうであろうからこそ、アッラーが記されるのである。人がその意志によって行なう全ての事が運命として記されることは、意思が用いられる事を妨げるものではないのと同様、人が意志をもつこともまた、行なうであろう事が前もって運命として記される事を妨げるものではないのだ。

2.意志が勘定に入れられていない、一方通行的な運命はありえない

運命と言うテーマの真髄、急所とも言えるポイントが、次の点である。アッラーは無限の英知によって、起こりうることをそれが起こる前に知られ、運命の書に記載されるが、その際、人の努力、あるいは人の努力を呼び起こす意志は、この記載から外されてはいない。人が自ら行なった事における取り分は意志、つまりスイッチを押したことであり、アッラーの方は、創造され、現され、結果を創られることである。この双方が同時に確定され、記されることを私たちは運命と呼んでいるのだ。

隣の部屋にある、あなたには見えない、それでもチクタクという音を聞くことのできる、一つの時計を考えてみてほしい。この時計が動いているかどうか尋ねられたなら、あなたは「動いている」と答えるだろう。そしてそれ以上「でもちょっと見てみてください、短針と長針は回っていますか?」と尋ねられることはない。時計が動いていることは、短針と長針の動きも含め、全ての機能が働いているということを意味する。逆の言い方をするならば、短針と長針が常に回って時を示していることは、その時計が動いていること、そしてその歯車も回っていることを証拠付けているのである。

まさしくこのように、運命が存在するならそこに意志も存在するのであり、意志について取り上げる場合は運命と一緒でしか、取り上げられないのだ。

だから人は、運命の前に手を縛られたロボットではないのだ。つまり人は、蜘蛛の巣のような運命の網にからめとられ、後ろ手に手錠をかけられ、絞殺刑のロープが首にかけられ、息ができなくなっている、あるいは海に投げ入れられ「濡れるんじゃないぞ!」とからかわれている哀れな囚人ではないのである。そう、運命がこのようなものではないのと同様、人もまた、運命の風を受けて揺れている枯葉ではないのだ。イスラームにおけるあらゆる項目においては、中庸と適正さがある。例えば、どういう状況であれ、どこにおいても怒りまくっているような場合は「過度」であり、あらゆる言動に対して沈黙を続けることは「不足」である。決して結婚せず、あたかも女性を否定しているような場合は「不足」であり、前を通るあらゆる女性から受益しようと考えるのは「過度」である。資本を崇拝することは「過度」であり、逆に財産を無意味とすることは「不足」である。

運命に関して、全てが人間に帰すものとし「人は自らの行為を自ら創りだす」と言うことは「過度」であり「しもべには、自らの行為においても何ら役割も機能も持たない」とし、人を、運命を前にして一切の器官を動かすことができないと見なすことは「不足」である。この項目を通して、私たちがその通じとなろうと努めてきた預言者の慣行の道を行く人は「努力と意志はしもべから、創造はアッラーから」とし、このテーマにおける真実と中庸の道を示している。

正しい道への導きも、逸脱も、善行も、罪も、創造されたのはアッラーであられる。(イブラーヒーム章14/4)導きや逸脱、善行や罪への方向付けとその創造が十トンの荷であるとすれば、これらの創造は完全にアッラーに帰されるものであるから、しもべの取り分はグラムでは表せないようなものであり、しかしそこからもたらされる結果は大きい。人がモスクや礼拝所、あるいはアッラーの家のどれかに行こうという望みや意志を持ち、その方向における選択と傾向を明らかにした場合、アッラーも、彼が望むその大きな、そして重要な結果に彼を運ばれる。説話を聞くこと、あるいは清らかな友人のそばでアッラーに関して知識を得ることは、導きへの要因となりえる。なぜならもはやスイッチが押されたからである。逆に、酒場に行こうという意志を持ち、その方向、傾向に進もうとしている人は、アッラーも逸脱へと押され、その道に放置されることもありえる。しかし望まれるなら、そのまま放置されないこともある。アッラーとその使徒に対して語られた醜い言葉は、アッラーのムディッルという御名(逸脱へと連れていく御方)のノッカーに触れることであるかもしれない。そしてその人の意志に応じて応報があったとしても、それは正しくないことが行なわれたことにはならない。簡単に言うと、導きと逸脱と、二つの道のうち一つを選択した人は、自らが選択した道の終点、結果に到達する。到達させるのはアッラーで、到達し、到達しようとするのはしもべである。そして、その行為の種類によって、あの世で罰や褒賞を受けるのである。

3.運命は、要因とその結果を一緒に鑑みる

意志の手にある要因や媒介も、運命の書に記されている。一つの事故、一つの死、一言で言うと悲しい出来事の後は、しばしば「あそこに行かなければよかったのに。銃を手にしなければよかったのに。これほどのスピードを出していなければよかったのに」というような言葉が吐かれる。しかし実際は、運命においてはその出来事と共に、その出来事の原因となる行動、人の意志をも含めた要因、人の意志を含まない要因も記されているのだ。つまり、それぞれの出来事、人生のあらゆる瞬間が、あらゆる観点から、全ての詳細に至るまで記されているのである。

つまり、誰かが自らの意志で、銃で誰かを殺したのであれば、この出来事はアッラーの限りない英知によってその発生以前に見られ、知られたのであり、この二つが共に記されているのである。「銃を使う人が、この事象を自らの意志で行なうだろう、引き金をその指で引くだろう、結果、もう一人の人が死ぬだろう」と、あらかじめ記されていた。この殺人で使用された、あるいはその人の死の要因になった銃弾が放たれた銃と、指を動かした要因が取り除かれた場合、相手の人の死に関する定めやその死の要因として他に何がありえるだろうか? 例えば、交通事故で死んだかもしれないとしよう。その場合も、彼の死が交通事故によって起こることは記されていた、と私たちは言う。何か他の要因が示され、例えば、病気と言われれば、その場合も、結果であるその死が、病気と共に記されていたと言われるだろう。

結論

結論として、運命は意志を立証し、その二つはお互いに支えあっている。意志は運命を、運命は意志を否定しない。このテーマを簡潔な文章として示すとしたら、以下のようになる。

宇宙においてはアッラーによる運命とプログラムが支配を行ない、人においても意志と傾向が存在する。

アッラーは、無限の英知の持ち主であられるため、過去と現在、未来を一つの点のようにごらんになる。

アッラーは、未来において発生するであろうあらゆる事象を、様々な書という形で記録され、記帳される。

私たちは自らが行なうことを、アッラーがそのように記されたからと行なうのではない。逆に、アッラーは私たちが自らの意志をどのような方向に使うかをご存知であられるため、それを記されるのだ。

アッラーは、私たちの運命を記される時、私たちの意志を除外されない。それをいかに使うかを勘定に入れられ、記される。

アッラーがその深いお慈悲によって私たちに与えられたものの他、意志のスイッチを正しい方向で用いることへの結果として、天国を約束されておられる。

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fethullah gulen hocaefendinin le monde makalesi 99d

ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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