質問:人に試練として降りかかる数多くの要素がありますが、特に現代を生きる信者にとって最も危険となる要素はどのようなものでしょうか?
答え:アッラーはご自身の規則に従い、人々にその生涯にわたってあらゆる種類の試練を与えます。こうして炭とダイヤモンドを分け、また石や砂から金を分別するように、人間も成熟したものと未熟なもの、また純粋なものをそうでないものから分けられます。同時にどの試練も、我々に自分自身のことを気づかせてくれる経験となります。つまりはるか太古にすでに我々の真の価値をご存知であられるアッラーは、試練を与えられることによって、我々が何をどこまで耐えることができるか、災難や辛苦に対してどのような態度を取るか、どこで忍耐しどこで逃げ出すか、どこで歯を食いしばって踏ん張るか、運命を非難することを意味する不服の態度をどこでとるかといったことを我々が自分自身で見られるようにしてくださいます。この世の試練によって人間は打ちのめされ、様々な圧延装置にかけられ、坩堝の中で溶かされるます。トルコの詩人であり修道士でもあったユヌス・エムレも「この道は長く、山脈も多い。山道はなく、行く手には深海が待っている」との表現によって、この真実を表しています。
試練の困難さは目標に比例する
アッラーは人々を様々な方法で試み、忍耐する者には吉報を伝えておられます。
「われは、恐れや飢え、と共に財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい」(雌牛章2:155)
これによれば、イバーダ(崇拝行為)によって人の精神的レベルが上がるように、受動的なイバーダとされるこの世での試練も、忍耐を放棄しなければ罪が清められ、崇高な高い地位へと人を上昇させるのです。であればアッラーが試練に次ぐ試練へと引き込み、様々な試練の要素で人を試みることに対して信者がなすべきは、こうした試練に対して歯を食いしばって耐えることです。またこうした状態を、自分自身に向き合い、自らの行いを今一度見直し、行動を評価しなおしてムハーサバ(自己批判、自問)を行う一機会であると知ることです。
結果として得られる報奨の大きさに応じて困難が増すことを考えるなら、当然、到達しようとする目的の大きさ、価値に応じて試練の度合いも強まります。例えば、人類への奉仕において殉教者となり人生の異なるレベルに飛び立つことはこの上ない特権です。しかしこの栄誉を獲得することはアッラーの道で奉仕し相当の痛みを引き受けられるかどうかにかかっています。そこには絶対的な自己犠牲があります。だからこそ、崇高な目的のために献身しその要件を満たそうと努力する人は、自らに降りかかるどのような困難や不幸にも耐えるべきです。そしてそれなりの忍耐を見せ、自分自身の欲求は脇へ押しやって人生を続けていかなければならないのです。
この事柄についてベディウッザマン師の叙述に耳を傾けてみましょう。「80年以上の我が生涯で、この世的な歓びを味わうことは何もなかった。私の生活は絶えず、戦場や刑務所、そして各地への追放と苦しみのうちに過ぎていった。受けたことのない拷問や苦難は残っていない。軍法会議にかけられては殺人犯のような扱いを受けた。放浪者のように一つの流刑地から別の地へと送られた。祖国の刑務所では何ヶ月も人と会うことを禁じられた。何回となく毒を盛られもした。ありとあらゆる侮辱も受けた。生より死をましと思ったことが幾度となくあった。我が宗教が自殺を阻んでいなかったら、このサイードは地面の下でとっくに朽ち果てていただろう」。このお方が被った試練がこれほどまでに厳しいものであったがゆえに、アッラーはこのお方を人間性の完成という頂へと引き上げてくださいました。彼が受けた苦難、そしてそれに対する忍耐が原因となって、アッラーはそのお優しさから彼を後世の人々にとっての導き手にしてくださったのかもしれません。
道の途中で立ち止まってしまう人も
この世での人生は最初から最後まで試練の連続ですが、困難や不幸のみで成り立っているわけではありません。物質的・精神的な成功や恩恵によっても試練に直面する場合があります。そうです、人はその人生において、目をくらませるような段階、局面を迎えることがあります。地位や肩書きといったある種のものは(アッラーがお守りくださることを願いますが)足をすくい、立ち寄った先々で拾ったウイルスや細菌は精神的な生に影響を与えかねません。まとめるなら人は立ち寄った先々で、ある時は容易さや心地よさによって、別の時には栄光、名声、地位、そして拍手喝采によって試練を受けることがあるのです。