子どもたちの教育やしつけ、家庭の秩序、安定、道徳において、人間の学び舎の最初の教師は女性である。女性からより様々な仕事を求める現在において、もう一度、力の持ち主である主が、女性に与えられたこの特別な役割を認識しなおすことが、こうした不適当な要求を防ぐものとなるだろう。
清廉で教養があり、家庭を大切にする女性がいる家は、天国の一画のようである。そこで聞かれる声、息遣いは、フーリ(天国にいる女性)、グルマン(天国で奉仕する若者)の声、天国の川のせせらぎの音そのものである。
外見上の装飾に押しつぶされたような女性を見ると、人は時として、「女性の内面的な飾りである純潔さ、貞節、徳といったものにも、これ位重きを置いているのだろうか。」と考えてしまう。
女性を、天使よりもなお崇高なものとし、比類ないダイヤのような状態にするものは、女性の内面的深さ、清廉さ、そしてその尊厳である。その純潔さが問題視されるような女性は、偽造されたコインのようであり、品のない女性は嘲笑されるべき操り人形のようなものである。このような女性のもたらす空気からは、健全な家庭も、健やかな次世代も期待できない。
その内面世界と共に、徳に目覚めている女性は、彼女がいる家において、水晶のシャンデリアに似ている。彼女のあらゆる動きによって、家中に灯りがもたらされる。内面世界において暗い思考に従ってしまっている女性は、霧や煙の源であり、どこへ行ってもそこを穢す。
女性が常に手元に置き、読むべき唯一の本は、社会的教養の本であるが、今のところ、完全に書かれているものがあるとはいいがたい。
自らを、我欲への執着で包みこんでいる女性を見ると、「女性の理性は狭いものだ」と語った人々に対し、私は寛容になる。このように語った人々は、現代の、広告に利用されているような状態を見て、いうべき言葉を見つけられないであろう。
古人は、「女性の手にある針は、戦士が手にする槍のようである」といったが、実際私は、この言葉には誇張はないと見なしている。
女性が、他人のための快楽の品、楽しみ、コマーシャルの材料となる時代は、決して少なくない。これらの不幸な時代はそれぞれが、女性の復活と自己の再発見のための始まりとなった。
昔は、息子を「マフドゥム」と、娘を「ケリメ」と呼んだ。この言葉は「瞳」と同じ意味をもつものである。これは、とても大切で、また欠かせないものであり、同様にこの上なく繊細な存在であるということを示しているのだ。