リダ(甘受)1

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リダ(甘受)は不幸に対して嫌悪や反抗を示さず、運命のすべてに不平を言わず、より良くは平穏のうちに受け入れることを意味します。言い換えると、普通は苦痛や恐怖をもたらすような出来事であっても、すべてを歓迎するということです。リダの別の定義は、自分たちにとって喜ばしいように見えることであっても嫌なことに見えることであっても、アッラーが自分たちになさることを喜んで受け入れることです。

精神的旅路のはじめにおいては、信仰する者は自分の自由意志としてリダを行わなければなりませんが、実際には、それはアッラーからの愛する者たちへの直接の贈り物と言えます。そのため、忍耐とは違って、アッラーも預言者(彼の上に平安と祝福がありますように)もそれを命じられはしませんでした。ただ、勧められただけなのです。預言者の話として伝えられたものとして、「不運に耐えず、アッラーのご意思を甘受しない者は、別の主を持つ者である」という話がありますが、ハディース学者たちはこれを真正なる預言者のハディースとしては認めませんでした。

信仰の深い人たちの中には、リダは信頼や服従よりも高い状態だと考える人たちもいますが、他の状態と同様に、リダも時として現れ時として消える、アッラーからの贈り物もしくは輝きだと考える人たちもいます。さらに、クシャイリ師など、はじめはしもべの自由意志につながり、それに依存しているものだが、終わりには、心の状態となるものだと考える人々もいます。「アッラーを主、イスラームを宗教、ムハンマドを預言者とすることを喜ばしく感じる者は、信仰の喜びを味わった」というハディースは、終わりにはアッラーからの贈り物になるとしても、私たちはじめには自分の自由意志でリダを得るようにすべきだと示しています。

アッラーが神であることに満足するということは、アッラーを愛し、アッラーにしかるべき畏敬の念を抱き、崇拝行為にまた助けを求めてアッラーに向かい、そしてすべてをアッラーからのみ期待するということを意味します。アッラーが主であることに満足するということは、私たちのためにアッラーが決定されたことを歓迎し、(どんなに辛くとも)自分たちに降り掛かるどんな不幸に対しても不服を唱えないこと、自分たちをどう扱われるかについてアッラーを信頼し、そしてアッラーのなされることすべてに満足するということを示します。預言者(彼の上に平安と祝福あれ)に満足するということは、無条件に彼に服従するということであり、自分の考えよりも彼のご指示やお導きを好み、そして自分の理解力を彼の行いや言葉、彼によって届けられた啓示を批判しないように使うことを意味します。イスラームに満足するということは、『イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。(聖クルアーン3:85)』で述べられているように、イスラームを理想の行動原理や規範として受け入れ、個人生活や家族生活、社会生活においてそれらを実践することを意味します。

状況によっては、このようなレベルのリダのせいで、共同体の中においても独り残されたり、残されるように感じたりすることになるかもしれません。しかし、アッラーの近くに辿り着き、預言者(彼の上に平安と祝福あれ)の道を追う人々は、そのように残されたと感じることはありません。アッラーと深くつながっている人は、孤独を感じることはないのです。むしろ、彼らは、独りでアッラーに祈るとき、アッラーをより近くに感じ、アッラーの愛に溢れ、『おぉアッラー、私をもっと頻繁に独りにしてください。そして、あなたから私が離れてしまうことになるようなことにならないようにしてください。私にあなたが常に私と共にいると感じさせて下さい。』と言うのです。

前述のように、リダは旅路のはじめに自由意志という個人の意識的な決心によってのみ得られるアッラーからの贈り物です。リダには、信仰の深さ、宗教的行為におけるまじめさ、アッラーをまるで見ているかのような崇拝における深い意識によって達成することができます。素晴らしいリダのレベルになるには、信頼、服従、献身というレベルをこえなければなりません。自由意志でリダのレベルに到達するのは非常に困難であるため、アッラーはそれをお命じにはなりませんでした。ただアドバイスされ、到達した者を高く評価されたのです。

もし最後にはリダのレベルに達したいと思って旅路に出るのであれば、主との関係において真面目であり、(求めてはいなくとも)もたらされたアッラーからの贈り物のすべてを、アッラーの祝福として感謝して受け入れ、欠乏については語ることなく、苦悩や孤独や困難の時にもすべての宗教的義務を果たし、アッラーの前で祈るときはまるで結婚式の部屋に入る時のようでなければなりません。リダの土台として最も重要なことは、心の中で絶え間なくアッラーを新しく発見しながら、意識や経験の中に常にアッラーの存在を感じ続けることでしょう。

アッラーの懲罰に対する絶望や安心感というものはこの世においてはあり得ないものであるため、恐怖や希望は現世に関係のあるものだと言えます。これらは、それに対して来世に与えられる報奨を除いては、来世には関係のないものです。それとは対照的に、アッラーをありがたく感じアッラーを愛することは永遠に続くものであり、アッラーの判断を甘受することやアッラーをありがたく思うことは現世と来世両方における精神的平安と幸福の源となるものなのです。

これは、リダを自分のものとしアッラーのお喜びを得てアッラーに認められた人々は、不安や困難、苦悩などから解放されるということではありません。依然として人生において悩ましいことや不快なことはたくさんあるからです。しかしながら、リダにおいて素晴らしい人は、それらを純粋な慈悲だと考えます。リダやアッラーのお喜びによって、彼らの飲む「毒」は「錬金薬」に変わり、彼らの直面する悩みによって、彼らはさらに深くアッラーを愛するようになるからです。

リダの道は、進むのは困難ですが、安全でまっすぐな道です。それは時にたった一つの努力によって旅人を人間としての完璧さという頂上へと導きます。信仰する者が、アッラーを感じ(アッラーは時間にも場所にも包摂されることはありませんが)あらゆるところでアッラーを見つけるために、アッラーの道で非常な努力をすることや、宇宙を(それがまるで一冊の本のように)研究することによって、その頂上に辿り着くのと同時に、頂上は、進むべき道を探し求める中で出会う困難に対する個人の無力さのためにもたらされる内面の苦悩や悲しみを通して、到達することができる場所でもあるのです。

リダによって、アッラーが信仰する者にご満足されるということからくるぞくぞくするような喜びや天からのそよ風という結果がもたらされ、それは個人の恐怖や希望の深さに比例したものとなります。それはアッラーを近くに感じることや、崇拝や忠実さ、罪に対する奮闘や世俗的な自分自身やシャイターンの誘惑などから来るものではありません。むしろ、それには希望や期待が合わさり、自己コントロールによって規制された精神的歓喜、アッラーからの直接の贈り物、アッラーに感謝する状態だけに結びついた慈悲の風と言えるでしょう。この状態には、思考や考慮、計画、希望、期待、感情、行動に関してアッラーのご意志に従うことが必要とされます。したがって、リダを満足や歓喜を経験するための方法だと考え、満足や歓喜を得ることを期待することは、リダという意志と誠意の純粋さに基づいている状態を軽んじていることなのです。実際には、このことは心の動きを通して得られる状態や、それ自体が心の動きそのものである状態のすべてに関して共通して言えることなのです。人はアッラーに認められることもしくはアッラーのご満悦だけを愛し求めなければならないのです。

スーフィズムの初期において、精神的に優れていた人々はリダやアッラーに満足することについての見解を表現しています。ドゥ・アル=ヌン・アル=ミスリによると、リダとはあらかじめアッラーのお望みを自分の望みよりも好むこと、アッラーのなさること望まれることは何であれ良いことであるという認識に基づいて、不平を感じることなくアッラーのご意志を受け入れること、そして、逆境においてもアッラーへの愛に溢れることです。アリ・ザイン・アル=アビディンはリダをアッラーのご意志やご満悦に合わないものはすべて求めないと決心することだと説明しています。アブー・ウスマーンによると、リダはアッラーのご意志やなされることすべてを、それがアッラーのお慈悲から来るものなのか、権威からなのか、怒りからなのかに関係なく、同じ気持ちで歓迎し、その中で好みの優劣を持たないことを意味します。アッラーの預言者は「あなたが何かを定められた後には、私はあなたにリダを請い求めます。」とおっしゃられました。あらかじめアッラーのご意志に満足するということは、リダは苦難が起こった時にそれに耐えることを意味するのに、あらかじめその苦難に対してリダを示すことが決まっているということを意味します。つまり、リダはアッラーが神・主であられることから起こることすべてに対して憤りや不満を感じないということを意味し、また、自分の運命に対して不平を感じず、受け入れて耐えることを嬉しく思い、それに備えるということです。信仰の深い者は心のバランスを欠くことがありません。むしろ、ひどく悲惨な出来事や衝撃的な出来事があっても、自分の高潔さと真っ直ぐさを保ち、天の刻板に刻まれたアッラーの定められた運命を考え、出来事に対して後悔や悲しさを感じないのです。

一般の人々にとっては、リダはアッラーが自分たちに望まれたことに対して不服を唱えないということを意味します。アッラーについてのより深い精神的知識を持っている人々にとっては、リダは自分の運命を歓迎することを意味します。そして精神的に深い生活を送っている人々にとっては、リダは、自分の考えに注意を払うことなく、常に何をアッラーが彼らに望まれているか、アッラーは彼らがどのようにあることを望まれているかに注意深くあることを意味します。『おお、安心、大悟している魂よ、あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。(89:27-30)』という章句は、リダのすべてのレベルを包含し、アッラーのご意志と運命に甘んじて従った者たちの欲望に対する返答も含んでいます。

この章句に見られるように、リダの状態に達することとアッラーに満足しアッラーに満足されることは、その人がアッラーに向き合うこと次第なのです。これはアッラーに対する完全なる献身と信頼、服従、そして、すべてをアッラーに委ねることを意味します。この状態に辿り着いた人は、死んでアッラーと見えることを切望し、平穏の心のうちに死に、楽園へと迎えられるのです。

別の観点から見ると、一般の人々は、アッラーの命に従って生活し、主アッラーの権威に従順であろうとすることによってリダを示します。これは次の章句で表現されています。『言ってやるがいい。「アッラーは凡てのものの主であられる。わたしがかれ以外に主を求めようか。(6:164)[林1] 」『言ってやるがいい。「わたしは、アッラー以外の加護をどうして求めるだろうか。かれは天と地の創造者で、(すべてを)養い、(誰からも)養われない。」(6:14)』このレベルのリダはアッラーの単一性に対する真の信仰とアッラーへの真の愛を求める人には不可欠なものです。信仰する者は誰もが意識的にアッラーのお導きに服従し、信仰においても生活においてもアッラーに何ものをも並べてはならず、アッラーだけを人類と全世界の主、創造主、支配者として愛し、アッラーの名の下に愛する価値のある人だけをアッラーの定められた限度において愛さなければなりません。

アッラーの知識を一定レベル持っている人々のリダのレベルは、異議を唱えることなくアッラーのご意志と規律を歓迎することに現れます。また、心のコントロールの強さにも見ることができます。そのコントロールはとても強く、彼らの心は一瞬たりとも逸れることがありません。このようなリダはアッラーの知識の備わった心とアッラーの関係だと考えられています。

リダの第3段階は、アッラーのご満悦を得られることに満足を感じる、浄められた信仰の深い学者たちが達成できるものです。このようなリダの報奨を得る人は、個人的な怒りや喜びや悲しみを感じることはありません。そのような人はもはや自分のために感じたり考えたり望んだりすることはなく、そのためアッラーのご意志だけが残るので、主の中に消滅するという喜びを体験するのです。

 


[林1]6:165と書いてありますが、内容から164かと思います。

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ムスリムよ、自らのイスラーム理解を批判的に見直そうではないか

イラク・レバントのイスラム国(ISIL)と名乗るテロリストグループが犯している虐殺の数々に直面した私の抱く深い悲しみ、嫌悪感は、いくら言葉を尽くしても言い表すことができない。
勝手に歪曲したイデオロギーを宗教という名で包んでテロを引き起こす集団がいることに世界中のムスリム15億人はやりきれない鬱屈した感情を抱いているが、私もその一人である。我々ムスリムには他の市民と連携してこの世界をテロの災禍や暴力的な過激主義から救う特別な責務があるのみならず、我々自身の信仰になすりつけられた汚れたイメージの払拭に努める必要がある。
言葉やシンボルを用い、観念として特定のアイデンティティーを高らかに謳うことは容易いことだ。しかしそれが真実であるかどうかは唯一、標榜するアイデンティティーの本質的価値観に我々自身の行いを照らし合わせてみることで判じることができというものである。我々の信仰の試金石はスローガンや何かしら粉飾を施したものではない。この世に存在する主だった信仰のすべてに共通の、命の尊厳や人類に対する尊厳の尊重といった基本的価値観に従って生きることができているかどうかによって試されるのだ。
テロリストが吹聴するイデオロギーは断じて糾弾すべきである。そしてその代わりに、明確に確信を持って多元的なものの見方の浸透を図るべきだ。とどのつまり、個々の民族や国家、宗教といったアイデンティティーの前に来るのは人類という共通の立場である。その人類は残酷な行為が繰り広げられる度にますます苦境へと追いやられている。パリで亡くなったフランス国民、その一日前にベイルートで命を落としたシーア派ムスリムのレバノン国民、そして同じテロリストの手によって死に追いやられた無数のイラク在住スンニ派ムスリムは皆、人間という以外の何ものでもないのである。宗教や民族といったアイデンティティーに関係なく、どこの誰であれ人が被っている苦難を等しく不幸として自ら共感し、一様に断固たる態度を示すことができるようになるまで、我々の文明が発展を遂げることはないだろう。
同時にムスリムは陰謀論と決別すべきだ。この理論は今まで、我々が社会問題に直面する妨げでしかなかったからである。我々がすべきは真の問題に向かい合うことだ。我々の内に無意識に潜む権威主義、家庭内暴力、若者軽視、バランスのとれた教育の欠如といった社会的理由が原因で、全体主義的思考に染まるグループにとって人を勧誘しやすい素地が提供されることになってはいまいか。基本的人権や自由、法の支配の優位、社会における多元的思考といったものを我々が確立するのに失敗したせいで、他の選択肢を模索してもがく人々を生み出したのではないか。
先日のパリでの事件で神学者と一般信徒であるムスリムの双方は今一度、宗教の名のもとに画策される野蛮な行為を断固拒否し非難する必要性を認識することとなった。だが今、拒否と非難は十分ではない。ムスリム社会内で見られるテロリストの勧誘に対しては、国家権威と宗教指導者、そして市民社会が効果的に協働して立ち向かい、戦うべきである。広く社会全般の取り組みを結集させ、テロリスト勧誘を促進するあらゆる要因に立ち向かわなければならないのだ。
民主的手段に則った支持表明、異議申し立ての方法
我々は社会と協力して、危険性を孕む若者を見つけ出し、自滅的な道に進んでいくのを食い止め、家族に対してもカウンセリングやその他の支援活動で手を貸すための枠組みを立ち上げなければならない。対テロ対策を練り上げ意見交換する場にムスリム市民の当事者も参加できることを目指し、政府が前向きに、事前対策に関わっていくようになるのを推し進める必要もある。若者に対しては民主的手段に則った支持表明及び異議申し立ての方法が指導されるべきである。早い段階から民主的価値観について学校のカリキュラムに組み込まれることも若者の精神に民主主義の文化を植え付けるために不可欠であろう。
ああした悲劇の直後に強い反発が引き起こされるのは歴史の常である。反ムスリム、反宗教といった心情に留まらず、各国政府が治安重視を掲げてムスリム市民を対象に取り始めた措置は逆効果と言わざるを得ない。ヨーロッパ在住のムスリム市民も、平和と安寧のうちに暮らしたいと願っている。であるなら彼らも悲観的な空気に意気消沈せず、ムスリム共同体がさらに大きな共同体とよりよく融合していけるような受け入れ策を促進してもらえるよう、地方自治体及び政府に対して一層働きかけ努力すべきである。
我々ムスリムにとってもう一つ重要なことは、現代の状況や要請、そして歴史的経験の集大成から解明される諸事に照らし合わせて、我々のイスラームに対する理解・実践を批判的に見直すことだ。これはなにも、蓄積されたイスラームの伝統からの決裂を意味するものではなく、むしろムスリムの先人たちが明らかにしようとしたクルアーンとハディース(預言者の言行録)の真の教えを確認するために行う理知的な問いかけなのである。
歪んだイデオロギーに利用するため宗教的文献をその文脈から切り離して読むようなやり方についても、それを追いやる方向で積極的に動かねばならない。ムスリム思想家及び知識人は全体的アプローチを推進させ、中世のように宗教的帰属と所属政党が凡そ一致する状況で果てしない論争が繰り広げられていた時代にくだされた法的判断については再検討に付すべきであろう。核となる信念を持つことを教条主義と同列に扱ってはならない。宗教のエートスへの忠実を保ちながら、イスラームのルネッサンスに開花した思想の自由という精神を復興させることは可能であるし、何より絶対的に必要である。ムスリムが暴力の原因となる過激主義やテロと有効に戦うにはそうした雰囲気が醸成されてこそ可能となるのである。
こうした諸事件が起きた余波として最近、無念にも、文明の衝突論が再び頭をもたげてきているのを目撃している。そのような仮説を最初に提示した人物は先見の明があったからそれができたのか、もしくはそれを強く欲していたからかは分からない。確かなのは、今日このレトリックの復活はテロリスト・ネットワークによる勧誘活動を一層活発化させているにすぎない。はっきり申し上げるが我々が目撃しているのは文明同士の衝突などではなく、全人類の文明と野蛮さの衝突なのである。
ムスリムとしての我々の責務は、怒りにも心が折れることなく、解決策の一部となることである。全世界のムスリムの生命と市民権を守り、信仰の種類にかかわりなく全人類の平和と安寧を保持したいと願うのであれば、今すぐ行動に移し、暴力的な過激主義の問題に対して政治、経済、社会、宗教とあらゆる局面から取り組まなくてはならない。自らの生き方を通じて徳のある模範を示すこと、過激主義の視点からなされる宗教文献の解釈を疑い除外していくこと、その若者に与える影響に目を光らせていること、そして早い段階から民主主義の価値観を教育に盛り込んでいくことによって、我々は暴力やテロリズムに立ち向かっていけるともに、それにつながる全体主義的イデオロギーにも対処することができるであろう。

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ムスリムは過激派の「がん」と闘うべきである

テロを糾弾し、人権を擁護し、教育を推進する
自らを「イスラーム国」と名乗る、いわゆるISISとして知られているグループがいまだ中東で大虐殺を繰り広げる中、ムスリムは、同グループや他のテロリスト集団を駆り立てている全体主義的イデオロギーに立ち向かわざるをえない状況にいる。イスラームの名のもとに犯される一つ一つのテロ行為によって全ムスリムに深刻な影響がもたらされ、他の一般市民との関係が疎遠になったり、己の信仰の精神について誤解を深めることとなっているのだ。
暴力的な過激派の残虐性をイスラームに帰すのは正しくない。テロリストがムスリムであることを主張しても、そのアイデンティティーは名目上のものでしかありえない。ゆえに信仰を持つ人々はこの「がん」が社会のあちこちに転移するのを防ぐためにできる限りのことをすべきである。もしそれをしないのであれば、信仰のイメージが悪くなった責任の一端は我々にもある、ということになってしまうだろう。
まず我々は暴力を糾弾し、被害者意識に飲まれないようにすべきである。抑圧を受けたからといって被害者意識を持ったりテロを非難しないでいることを正当化することにはならないからである。テロリストがイスラームの名のもとに重大な罪を犯していることは何も私個人の見解というわけではない。聖典クルアーンと預言者ムハンマドの人生に関する伝承という主要な出典を素直に読めば必然的にそういう結論が導きだされるのだ。こうした出典に見いだされる核となる原則は、預言者の言行録や、聖典に書き著されている「作者の意図」の研究に身を捧げてきた学者たちによって何世紀もの間受け継がれてきた賜物であるが、テロリストたちが宗教的に正当化しようとしているいかなる主張をも一掃するものである。
次に、時に信奉者たちの多様な背景に応える柔軟性が悪用されることを鑑みて、イスラームの総合的な理解を促すことが重要である。しかしながらイスラームの核となる倫理に解釈の余地がないこともおさえなければならない。そうした原理の一つに、罪のない一人の人間の命を奪うことは全人類に対する犯罪に相当するというものがある(クルアーン5:32)。戦争で防御を図ることに関してでさえ、戦闘員以外への暴力、特に女性や子供、聖職者に対するものは預言者の教えによって明確に禁止されているのである。
我々は世界中の平和を希求する人々と団結してこうした価値観を提示していく必要があるだろう。人間の心理が持つ性質やニュースの重大性を鑑みれば、主流派の声が過激派のそれほどに大見出しとならないのは致し方ないことである。だからメディアを非難する代わりに、我々の声を届かせる革新的な方法を考え出すべきだ。
三つ目としてムスリムは、尊厳、生活、自由といった人権を公に推進していく必要がある。これらはイスラームに備わる最も基本的な価値であり、個人であれ政治、宗教指導者であれ、勝手に他人から取り上げる権利など持ってはいない。信仰の神髄を生きることは、文化的、社会的、宗教的そして政治的な多様性を尊重することを意味する。神は、互いに学びあうために多様性があると、その第一義的な目的を明らかにされている(クルアーン49:13)。神が創造されたものとして一人一人の人間を尊重すること(クルアーン17:70)は神を尊重することにもつながる。
四番目として、ムスリムには社会の構成員すべてに教育の機会を授ける必要性があり、ここで文系や理系、芸術といった学問は生きとし生けるものを尊重する文化の一部となっていなければならない。ムスリム諸国政府は民主主義的価値観を養うようなカリキュラムを策定すべきである。一方、市民社会の役割は尊敬と受容の念を育んでいくことである。ヒズメット運動参加者たちが150か国以上で1,000以上の学校や個別指導センター、対話機関を設立したのはこのことが理由なのだ。
五番目、ムスリムに宗教的教育を施すことによって、過激派がそのゆがんだイデオロギーを宣伝するために用いようとする手段を奪うことが非常に重要である。一部のムスリム世界で何十年間もみられているように宗教的自由が否定されると、信仰は闇の中で培われることとなり、きちんとした資格のない過激な人物の解釈に任されるままとなってしまう。
最後に、男女の等しい権利を推進することもムスリムにとって欠かせない。女性は機会が与えられ、平等を否定するような社会的圧力から解放されるべきである。ムスリムにとっては、預言者ムハンマドの妻であり、高い教育を受けた学者、教師、その時代の卓越した共同体指導者として生きたアーイシャという優れた例があるではないか。
テロリズムは多面的問題であり、政治、経済、社会、宗教のあらゆる層が解決に取り組む必要がある。問題を単なる宗教に狭めるやり方は、危険性をはらむ若者や世界全体に損害を与えかねない。国際社会は、ムスリムが事実上そして象徴的な意味においてもテロの主な犠牲者となっていることを認識し、同時に彼らがテロリストを追いやり勧誘活動を阻止する一助となることを理解するのが賢明というものである。だからこそ、諸国政府はムスリムの疎外を招くような声明の発表や行動を避けるべきなのだ。
暴力的な過激派のいるところに宗教はない。そこには常に信仰というテキストを操作する人々がいるだけである。クリスチャンがクルアーンを燃やす行為やクー・クラックス・クランの行いを是認するわけではないのと同様、また仏教徒がロヒンギャのムスリムに対する残虐行為を支持するわけではないのと同様に、一般的ムスリムも暴力を承認しているわけではない。
ムスリムは歴史的に見て文明の繁栄に大きく寄与してきた人々である。最も偉大な貢献がなされた時代とは、信仰によって相互尊重や自由、公正が大切にされていた時代であった。イスラームの汚名を返上するのは非常に困難であるかもしれない。しかしムスリムはそれぞれの社会で平和と安寧の案内役となれる人々である。

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心の病

真に信心深い人とは、同時に高い徳をも身につけている人のことである。その人の崇拝行為には見せかけはなく、行動には偽りがなく、その心には悪意やいがみがない。見せかけは人をアッラーから遠ざける。偽りは人をアッラーから、かつ人々から遠ざける。悪意は憎悪を、いがみは恨みを呼び起こす原因となる。

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内面と外面の一致

世界をただそうと努める人は、まず自らをただす必要がある。そう、まず彼らの内面が憎悪、敵意、嫉妬から、外面もあらゆる不適切な行動から清められることが必要である。それであってこそ、周囲への模範となれるのだ。自分の心をコントロールできない、我欲と格闘していない、感情世界を征服できていない人によって周囲に送られるメッセージは、それがどれほど輝かしいものであろうとも、人々の魂に興奮をもたらすことはなく、もしもたらしたとしても継続的な影響を及ぼすことはない。

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恵み多い人生を生きる人たち

最も長い寿命を持つ人とは、たくさん生きた人のことではない。十分に活動し、この生から報奨を得ることができた人である。この基準で見るなら、100歳まで生きていても短い生ということもできるし、15歳の時に、獲得には何千年もかかるような恵みや美徳によってその頭を天に届かせた人々もいる。

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泣く時・笑う時

年を取るに従い、しもべであるという意識と一体化できない魂は、得をしているつもりで実は失っているものがあるという不幸に陥る。もしその人がこれを理解できれば、今日笑っている事柄に泣くだろう。後悔に頭を垂れるだろう。

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名誉

あからさまに名誉や貞節に対する敵対行為を行なう人は低俗であり、こっそりと行なう人はアッラーから恥じることを知らず、自らを知らずにいる卑俗な者である。そもそも、名誉や高潔さという感情を持たない者は、祖国への思いも持たない。

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不正な手段

偽りや誇張の上に造られたシステムは、例え長い寿命を持つものであったとしても、遅かれ早かれそれを守ろうとする人々の頭上に崩れ落ち、消え去る。つらい夢、空想として残るのみである。

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深いところ

人における感受性のあり方は、生き方、味わった苦しみ、困難さに比例して発達していく。ろくな苦労もせず、考えることも苦しみを味わうこともない人たちの感情世界は、他の経験同様、決して発達することがない。そういった人たちは、決して、全ての被造物と一体となれることもない。

Rabbim senin

恵みと、それを意識すること

アッラーは人々に、数え切れないほどの恵みを下さっている。これらのうち最も大きいものの1つは、その恵みを意識でいる、というものである。
健康は、健康な人の背にある貴重な恵みである。病気になった人のみがその価値を知る。
アッラーの、人々へ与えられた最大の恵みは、信仰という恵みである。この偉大な恵みへの感謝は、アッラーに対抗しないこととなる。
あらゆる恵みに対し、その恵みに応じた感謝を行なうことは、価値を理解できる、ということを意味する。
しばしば、無知な人々が幸福で豊かであり、英知を持つ人々が物質的な困難さを味わうということは、この世界の恵みが人の真の価値にふさわしい形ではもたらされてはいない、ということを示している
ある品の価格を知ることではなく、価値を知ることが大切である。
アッラーの恵みは、その偉大さの規模に適ったものであり、感謝の要求は、恵みとして与えられたものの価値に適うところとなる。
人をアッラーから遠ざけるような恵みは、最大の災いである。

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